街を歩いてるときによく思うこと
私は街中を歩いているときに、「いま、視界に映ってる人たちはどんな死に方をするのかな?」と考えたり、「あの運転手は5年以内に事故を経験するかな?」といったことを考えてる。
不思議じゃない?
私が今日すれ違った人たちは、
“今現在”も生きているのかは分からない。
これは「死を考える」とかの抑鬱的な話ではなく、限りなく接点の無い他人が「亡くなって、世界から消えている」って、なんだか不思議に感じるという話だ。
私は「連絡をとらない人間は全て死んでいる」と考えている。なぜなら、情報の更新がされない以上、死人と変わらないからだ。
この極端で過激にも見える考えもまた、「他人が亡くなって、世界から消えている」という不思議な現象と根っこで繋がっている。
今回はその根っこにあるものを考える。
個人的に明確なきっかけがあったと思っている。
◇
私が小学4年生だった時に、図工の先生が急死した。特別に想い入れがある先生ではなかったけれど、私は「図工」という教科が好きで、その時間の中にその先生がいたから、図工の世界にいる先生は好きだった。
ある日の図工の時間。
知らない先生が来たと思ったら、「図工の先生が亡くなったから、今日は代理で私がします」と言った。
それを聞いた私は、「ふ〜ん」と言い、座っている四角い椅子の側面をゴリラのように叩く手遊びをした。
なんとなく視線を向けた先には、お調子者のAくんがいた。Aくんは、亡くなった図工の先生と特別に仲が良くて、先生とよく笑い合っていた。
Aくんは床を見つめながら、何かを考えている様子だった。
いま思うとあの表情は、「あまりに突然すぎる先生の死去に、どんな反応をすればいいのか分からない」といった感じだったのかなって思う。
身内が死んだら悲しいと言える。
けれどそのときに亡くなったのは、図工の時間にしか会わない接点の少ない先生だ。
身内ほど大切というわけでもないが、それなりに好きな人間だった。
Aくんは、そんな複雑な感情を咀嚼しようとしていたんだと思う。
図工の先生の急死とAくんのその表情は、私の記憶に深く刻み込まれた。身内以外の「他人の死」は初めての経験だったし、お調子者の人間の「知らない顔」を見たのも初めての経験だった。
そこから私は「他人が亡くなって、突然世界から消える」という現象に興味を持つようになったのだと思う。
「急にあの人がいなくなる」って変な感覚じゃない?
突然、「会社の同僚は亡くなりました」って言われても信じられなくない?
パズルのピースが抜け落ちて、「そのピースは永久に戻りません」って言われても納得できなくない?
私は納得できない。
だから「他人が突然世界から消える」という現象を図工の先生が亡くなったあの日から、いまもずっと考えている。
その延長線上にあるのが、「いま、視界に映ってる人たちは、どんな死に方をするのかな?」という考えなんだと思う。




