「命をかける」と人間の命の底
私は「命をかける」という言葉があまり好きではない。それが決意や気持ちの表現であることを理解してはいるのだが、人を騙したり、死にたがりを増やすという負の面を気にしているから、やっぱ好きになれない。
そもそも、人間の命はものではないから、賭け事のチップのように扱うことはできないし、自分の意志でかけることはできない。
しかし、極限の無理をする事で命が削られ、結果的に「命をかけた」という状態にはなることができる。
今回は「命の底にあるもの」とそれに触れ「命をかけた」と言うためには、どんな条件が必要なのか実体験をもとに考える。
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私はいま、不思議な状態で生存している。体調がいい日だとしても、ほんの少しの無理をすると、その日の夜に意識が消失しそうになる。
普通はそうはならない。
この意識の消失は眠気とは違って、感覚的な話になるが、自分の意識が不意に後ろ(=背中側)に引っ張られ、意識を保とうとしなければ「あ、これヤバいやつや」という恐怖と共に、首の骨と頭蓋を結ぶ関節の辺りから、何かが抜けていくような感覚がある。
この感覚はものすごく怖い。
できれば2度と体験したくない。
けれど、どこが、何が、命の境界線を越えるのか分からず、何度も体験してしまう。
おそらく私は、長年極度の無理をしすぎたために、人間の命の底にある「ナニカ」を使いすぎてしまったのだろう。
◇
これは一般論ではなく、この体験から得た自論だが、人間は「死ぬほど疲れた」といった体を引きずる状態になっても、「命の底にあるナニカ」のおかげで、その消耗が死に飛躍したりはしない。
イメージ的には、500mlのペットボトルに満杯で入っている液体が体力だとして、自身で「死ぬほど疲れた」と感じたとしても、実はペットボトルの5分の1くらいは体力が残っている。
この残っている部分が「命の底にあるナニカ」だ。
よほどではない限り消費されない、命の境界線のその先にあるものだ。
そして、その「ナニカ」を消費してしまったとき、初めて「命をかけた」という結果が生まれるのだと私は感じる。
さて、その「ナニカ」に触れ、「命をかけた」という状態を体験するためには、どの程度の無理をしなければならないのか、私の経験をいくつか箇条書きで表し、推察してみる。
・1日の睡眠時間が1時間前後、それを数年。
・仕事や家事を一切休まない
・精神疾患の身内と一緒に暮らしている
・感情の全てをコントロールする
この箇条書きから推察するに、「ナニカ」を消費し、「命をかけた」という結果を得るためには、社会や身内、肉体の不調といった外的な圧力と、自身の感情コントロールによる内的な圧力の間で耐え続けなければならない。
つまり、死ぬのも、諦めることも、誰かを傷つけることもせず、世界からの波状攻撃に耐え、未来を諦めずに頑張れば、自ずと「命の底にあるナニカが消耗される」という状況が生まれ、「命をかけた」と言える結果を得ることができるのだと思う。
もしあなたが、誰かにマウントを取りたくて、その相手の努力や人生を徹底的に叩き潰す武器が「どうしてもほしい」と思うなら、
・毎日、1時間の睡眠を数年間
・家族や友達と一切連絡をとらない
・仕事や家事は完璧に
・死ぬのも、諦めることもしない
・誰かを傷つけることもしない
この条件を達成すれば、誰かの努力を徹底的に叩き潰せるがその代償に自身が短命になり、かつモンスターになってしまう武器が手に入る。
ここまで読んで「嘘やろ〜」と感じたなら、あなたは極めて正常だ。「話盛ってるやろ〜」と感じたなら、それは人間として極めて正常な反応だ。
あの条件を普通の人間がクリアすることはないし、私のような過酷な状況になることは通常あり得ない。
よほど命をかけて守りたい未来がない限り、普通の人間は脳の生命保護のシステムによって、命の境界線に近づけないようになっているからだ。
なんなら、人はそういった脳による拒否という体験を薄く持っているからこそ、「命をかける」という言葉に強く惹かれるのだと私は思う。
この話を私の努力の誇示と捉えてもいいし、まるっきり創作だと捉えてもいい。それはあなたの自由だ。好きにしていい。ただ、こういった話から気づきや仮説を得ることこそが、視点を増やすことに繋がると私は思う。
好きに、自由にしたらいいよ。
あぁ、そうか。
これが過労死になるための条件か。




