第4話「転勤の辞令、ふたつの選択肢」
六月上旬。
梅雨入り前の穏やかな朝。
神谷家では、いつものように慌ただしくも温かな時間が流れていた。
「パパー! 牛乳なくなったー!」
「はいはい、今持っていく」
悠真は冷蔵庫から牛乳を取り出し、遥香のコップへ注ぐ。
「ありがとう!」
「大翔もいるか?」
「うん。僕も」
大翔は新聞を読んでいる悠真の横に座りながら答えた。
「パパ、今日もお仕事?」
「今日は大事な会議があるんだ」
「頑張ってね!」
「ありがとう」
その様子をキッチンから見ていた美紅は微笑んだ。
「最近、子どもたち、ますますパパっ子になったね」
「そうか?」
「そうよ。特に遥香なんて、寝る時も『今日はパパがいい』って言うもの」
「パパ大好き!」
遥香が元気よく手を挙げる。
「僕も」
大翔も少し照れながら頷いた。
「それは嬉しいな」
悠真は二人の頭を優しく撫でた。
その時だった。
スマートフォンに会社からの通知が届く。
送り主は直属の上司――川嶋翔一だった。
『神谷くん、本日十五時から役員会議室へ。社長、副社長同席』
「……?」
悠真は首を傾げる。
「どうしたの?」
美紅が尋ねた。
「いや、役員会議に呼ばれた」
「また大きな仕事?」
「かもしれない」
しかし、その時の悠真はまだ知らなかった。
その会議が、自分と家族の未来を左右するものになることを――。
◇◇◇
午後三時。
会社最上階の役員会議室。
そこには、
社長・三條恒彦。
副社長・八代直人。
直属の部長・川嶋翔一。
専務・瀬戸健一。
常務・一ノ瀬遼太。
開発部長・原口拓海。
企画部長・秋山悠生。
会社の重役たちが勢揃いしていた。
「失礼します」
悠真が入室すると、三條社長が穏やかに頷いた。
「神谷くん、座ってくれ」
「はい」
着席すると、八代副社長が口を開いた。
「神谷くん。単刀直入に言う」
「はい」
「大阪支社への異動を考えている」
「……え?」
悠真は思わず顔を上げた。
「もちろん昇進を伴う異動だ」
瀬戸専務が続ける。
「新規事業部立ち上げの責任者候補として考えている」
「非常に重要なポストだ」
一ノ瀬常務も頷いた。
「神谷くんの能力を高く評価している」
悠真は驚きを隠せなかった。
確かに、キャリアとしては大きなチャンスだった。
しかし――。
「家族がいます」
悠真は静かに言った。
「妻も仕事をしていますし、子どもたちも保育園があります」
会議室に沈黙が流れる。
すると三條社長が優しく言った。
「もちろん、そのことは承知している」
「すぐに返事を出さなくていい。家族と相談してほしい」
「ありがとうございます」
「君にとって最善の答えを出してほしい」
悠真は深く頭を下げた。
◇◇◇
その夜。
神谷家。
子どもたちを寝かしつけた後。
リビングには、悠真、美紅、瑞稀の三人が集まっていた。
「大阪支社……」
美紅は静かに呟いた。
「うん」
「すごい話じゃない」
瑞稀が率直に言う。
「普通なら迷わず受ける話だよ」
「そうなんだけどな」
悠真は苦笑した。
「でも、俺は家族と離れたくない」
美紅はしばらく黙っていた。
やがてゆっくり口を開く。
「悠真くんはどうしたい?」
「正直に言うと……」
悠真は二人を見る。
「家族と一緒にいたい」
「……うん」
「仕事も大事だけど、それ以上に家族が大事なんだ」
美紅は静かに頷いた。
「私も同じ」
「え?」
「私は仕事を続けたい。でも、家族も大切」
美紅は少し笑った。
「だから、みんなで考えよう」
瑞稀も頷く。
「そうだね。一人で抱え込む必要ない」
三人は遅くまで話し合った。
そして。
ある結論に辿り着く。
◇◇◇
翌週。
再び役員会議室。
「神谷くん、答えは出たかな?」
三條社長が尋ねる。
「はい」
悠真は立ち上がった。
「異動のお話、ありがたく思っています」
「ですが――」
「家族と離れる形だけは避けたいと考えています」
「ほう?」
「もし可能であれば、東京本社所属のまま、大阪支社への定期出張という形で携わらせていただけないでしょうか」
会議室が静まり返る。
数秒後。
三條社長が笑った。
「実はね」
「え?」
「私たちも同じことを考えていた」
「……え?」
八代副社長も笑う。
「君がそう言うと思っていた」
「神谷くんは家族を最優先にする人間だ」
川嶋部長も頷く。
「だからこそ任せたい」
「週に数日の大阪出張。基本は東京勤務」
「それでどうだ?」
悠真は目を見開いた。
「本当によろしいんですか?」
「もちろんだ」
「ありがとうございます!」
深く頭を下げる悠真。
三條社長は穏やかに笑った。
「仕事も家族も大切にできる人間こそ、本当のリーダーになれる」
その言葉は悠真の胸に深く刻まれた。
◇◇◇
帰宅後。
悠真は真っ先に家族へ報告した。
「やった!」
「パパ、お引っ越ししないの?」
「しないよ」
「やったー!」
大翔と遥香は大喜びだった。
美紅も安堵したように微笑む。
「よかった」
「うん」
「ありがとう、美紅さん」
「私こそ」
二人は自然と手を握り合った。
その様子を見た瑞稀は、少し呆れたように笑う。
「相変わらずラブラブだねぇ」
「姉貴」
「でも、それが神谷家らしいか」
窓の外には夕焼けが広がっていた。
仕事か。
家族か。
その二択ではなく。
仕事も、家族も。
どちらも大切にしながら歩んでいく。
それが神谷悠真と篠原美紅が選んだ未来だった。
そして、その未来は、これからも続いていく。
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