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最終話 緑とお茶と、新たな巡り

 三月。

 何度かぶり返した寒さが、少しずつ、少しずつ、暖かさに変わろうとしている。

 ついてしまった傷が、次第に癒えてゆくかのように。





 緑色をしたものを、集めてみる。日本に七草がゆがあるように、実は西洋にも、ハーブを使った季節の食べ物がある。

 復活祭前の木曜日に、緑色をしたものを食べる、という習慣である。主に、ドイツやその周辺で見られる。

 なぜ緑色なのか調べてみると、復活祭前の木曜日は、聖木曜日グリューンドナースタークと言う。グリューンとは古代ドイツ語で、「嘆き」の意味。なお、現代ドイツ語では「緑」。

 その辺りが全部、結びついたらしい。

 キリスト教が広まる以前に、この時期にハーブを入れた料理を食べてもいたようだ。三月から五月にかけて、突然寒さが戻ってきたり、気候は不純になる。体調を崩しやすくなるのだ。そうした体調の不調を防ぐため、薬草や野菜を入れた食事を取っていたらしい。

 七種類、九種類、十二種類など、地方によって違うのだが、ハーブを入れた料理を作り、食べる。ほうれん草を刻んで入れた緑色のソースを料理にかけたり、ハーブのサラダを作ったり、クッキーにしたり、スープにしたりする。





「キャベツ、キャベツ~」


 スープを作る事にした。キャベツも緑色だ。

 レシピを調べると、七種類のハーブには、クレソンやオオバコ、チャービルや、チャイブ、カキドオシなどのハーブを入れたらしい。季節の春野菜だ。


「チャイブはネギで代用。クレソンはカイワレで良いかなあ。あんまり緑みどりしても、ちょっとなあ」


 あとは、庭に生えている野草を適当に。春の七草はあったかなあ?

 セリはない。ナズナはあるかも。ゴギョウとホトケノザはない……ハコベはあるだろうか? 大根の葉とカブの葉は、いただいた野菜があるから、それを使おう。

 クローバーの若い葉っぱや、カラスノエンドウも……。


「スギナも食べられたはずだけど、炒ってお茶にした方が良いしなあ」


 スギナ茶は、回復期の病人や怪我人を、穏やかに支える。体の中の毒素や老廃物を出してくれるのだが、急激ではなく、ゆっくりと作用する。


「たんぽぽ入れたら、塩味になるかな」


 庭に出て、草が生え始めている辺りを探す。それほど多くはないが、そこそこ見つかった。あまり手入れをしていないものだから、うちの庭では、野草や雑草が生え放題。だからこういう時には、食材が見つけ放題。

 ベーコンをちょっと刻み、ざくざく切ったキャベツと一緒に、鍋の中でいためる。キャベツがしんなりしてきたら、塩コショウをちょっとだけ。

 水を入れて、ことこと煮る。

 二、三十分煮込んでから、味を確認。

 こんなものか。

 豆も入れてみる。緑色の豆は、どことなく春の色。

 緑色の濃い、春の野草を細かく刻む。

 見つけたのは、クローバーとカラスノエンドウ。オオバコと、ハコベ。

 タイムががんばって伸びていたので、それも一枝。

 刻んだ緑の野草を鍋に入れて、ひと煮立ち。アクを取る。最後に牛乳をちょっと入れてなじませて、火を止めた。

 怪しいスープの出来上がり。

 つけあわせには、じゃこを醤油でいためよう。シュウ酸の多い野菜を食べる時には、カルシウムの多い食材を一緒に食べるのが良いと誰かが言っていた。カルシウムがシュウ酸と結びついて一緒に外に出て、体の中に残らないようにしてくれるらしい。この野草たち、シュウ酸多いのかどうか知らないけど。

 アクの強い野菜には確か、シュウ酸が多かった。


「ほうれん草を入れて、真緑にするべきだったか……」


 ネットで見た緑のソースは、ほうれん草をそのままどろどろにしてみました! と言わんばかりの緑色だった。ポパイの缶詰から、そのまま出てきたような。

 さすがにあれほど緑色をしたスープを作る気にはなれず、キャベツを使ってみたのだが。


「やはり、一度は挑戦したくなるものだな!」


 作っても、誰も食べてくれないような気がするけど。




*  *  *




 キャベツと言えば、ドイツでは冬に、キャベツを食べる散歩ツアーがあるらしい。

 寒い中のキャベツは、美味しさが凝縮されている。それを食べにゆく。

 朝早く、参加者が集まると、世話役の人が先導して、てくてく歩く。周囲の風景を眺めたりしながら、のんびりと散歩する。ちなみに目的地は、参加者には知らされていない。世話役の人だけが知っている。

 そうしてある程度散歩したら、世話役の人が段取りをつけた畑に行って、キャベツを取ってきて、煮込んでスープを作る。そうして、参加した人全員で食べる。

 単にそれだけのツアーなのだが、寒い中にてくてく歩き、最後にみんなで温かいキャベツ料理を食べるという、それがとても人気なのだそうだ。目的地がわからないというのも、何となく楽しいらしい。

 大がかりなセットや仕掛けをしたイベントも楽しいが、こうしたごく普通の、参加した時間そのものを楽しむイベントも良いものだ。

 その人が、どのように人生を生きてきたかが現れるからだ。

 子どもたちは、歩いたり走ったりしてはしゃぐ。それだけで楽しいし、最後に食べる料理を楽しみにしている。

 ミステリ好きな人なら、歩きながら目的地を推理したりもするだろう。たまに見かける遺跡や史跡があれば、他の参加者に説明したりするかもしれない。

 ゆるやかに昇る朝日の色に景色が染まってゆくのを眺め、その色彩の移り変わりを覚えていようと思う人もいれば、

 子どものころを思い出して、懐かしみながら歩く人もいる。

 友人同士でしゃべりながら、ダイエット代わりに歩く人、

 健康のために歩く人、

 その時間を、ただ楽しいと感じている人。

 みな、それぞれの人生を、散歩する時間の中で感じながら歩く。

 そうして最後に、美味しいキャベツ料理を食べて、満足しながら家に帰る。




*  *  *




「Pie Jesu, Pie Jesu,

 Pie Jesu, Pie Jesu,

 Qui tollis peccata mundi;

 Dona eis requiem,

 Dona eis requiem.」



 暮れてゆく空を眺めながら、歌う。



「Agnus Dei, Agnus Dei,

 Agnus Dei, Agnus Dei,

 Qui tollis peccata mundi;

 Dona eis requiem,

 Dona eis requiem.」



 ピエ・イエズス。

 レクイエムの中で歌われる、幼子イエスに捧げる歌。

 亡くなった方を楽園……天の園へ。安らぎへと送り出すために歌われる。

 歌は、優しい旋律で作られる。

 この世でのつとめを全て終えた魂には、幸福だけが待っている。そのように願い、信じた人々が、同じ言葉で様々な旋律の歌を作った。そのどれも、単純でありながら、優しい響きの旋律で作られている。

 悲しいのは、亡くなった人ではない。

 残される者だ。

 だから、旅立つ人には。ただ、優しい歌を。

 彼らにはもう、悲しみはないのだから。

 行く手には安らぎと、幸せだけが待っている。だから。

 ただ、優しい歌を。



Pie Jesu,(ああ、幼子イエスさま)

Pie Jesu,(優しき幼子イエスさま)

Qui tollis peccata mundi;(あなたは、この世の罪を悲しみを 浄めてくださる御方です)

Dona eis requiem,(どうか、旅立つ者に安らぎを)

Dona eis requiem.(安らぎの中に迎え入れてください)



Agnus Dei,(神の小羊よ)

Agnus Dei,(神の小羊たるイエスさま)

Qui tollis peccata mundi;(あなたは、全てを洗い流し、新しくしてくださる御方です)

Dona eis requiem,(彼らに安らぎを)

Dona eis requiem.(どうか、安らぎの中に迎え入れてください)



Sempiternam,(終わることのない)

Sempiternam Requiem(永遠の平和と安らぎの中に、どうか)



 悲しみは二度と訪れる事がなく、平和と喜びの内に、彼らの魂が幸せであるように。

 聖母マリアに抱かれた幼子イエスにささげる歌は、おだやかな天の園で、旅立った者が笑い、楽しく過ごしているのだと、そのように迎え入れて欲しいと、願う祈りだ。

 元々はカトリックの典礼の音楽だったが、今では宗教は関係なく、旅立つ魂の平和を願う歌として、レクイエムという言葉は使われ、ピエ・イエズスも、多くの場面で歌われている。

 祈る時には、明確であれ。

 わたしは、そう教えられた。

 漠然とした祈りは、ただのお題目になってしまう。祈る時には、明確であれ、と。

 必ずその人の名前をあげ、その人の姿を、顔を、思い出し、

 その人のために祈れ、と。

 祈りは、残る。

 祈った本人が消えても。そのように、明確に祈られた祈りは、大気に刻まれ、大地に刻まれ、……残るのだ。

 そうして、時を越えて。いつか届く。

 祈られた人に。その人が知らずとも。



「Sempiternam,(とこしえに)

 Sempiternam(とこしえに)

 Requiem……(彼らを、どうか。お守りください)」



 わたし自身も、誰かに祈られて、ここにいる。

 わたしの知らない誰かが、わたしの知らない所で、静かに祈ってくれていた。その祈りが。時に、大気から。大地から。響いてくる。

 春分の日が過ぎて。

 やがて、復活祭がやってくる。

 全てが新しくされる日。その前に。

 祈りを。

 かつて共にあり、今ははるか彼方にいる、

 友のために、祈りを。




*  *  *




 ヌワラエリヤをいれた。

 紅茶屋さんのメルマガを読むと、東日本大震災の報せを受けて、スリランカからも支援が届いているらしい。

 地震や津波、その他の天災で大変な目にあった国ほど、こういう時に、何かできないかと動き出す。

 痛みを知っているからだ。

 そうして、何気ない時間、何気ない日常が、どれだけ大切かという事も知っている……。

 だから人は、祈るのだろうと思う。

 大切な誰かのために。

 悲しみにあった人のために。

 そうして、そんな時に、手を差し伸べてくれた人々のためにも。感謝をこめて、祈るのだろう。

 湯を沸かして、お茶をいれる。誰かといっしょに、それを飲む。

 それだけ。ただ、それだけのことが。

 キャベツを食べに、てくてく歩く時間のように。

 スープを煮込み、出来上がるのを待っている時間のように。

 ただ、重なって。愛おしい。

 窓から外を眺めると、すっかりと日暮れた空は、暗く、何も見えない。

 けれど、星は輝いている。

 変わらず。そして、力強く。

 ぼんやりとした月光もまた、地上に光を注いでいる。

 百年前と同じように。

 千年前と同じように。

 今、見上げているわたしと同じように、かつて誰かも見上げただろう。

 今、見上げているわたしと同じように、いつか誰かが見上げるだろう。

 昔、一緒に暮らしていた犬が。空を見上げていたことがある。

 何を考えていたのかはわからない。けれど、きまじめな顔をして、空を見上げていた。

 近づくと、こちらを見て尻尾を振った。あの子は、わたしよりもずっと、何気ない日常の大切さを知っていた。日々を喜び、一つ一つの小さな出来事をうれしいと感じて生きることが、どれだけ素晴らしいか。それを軽々と実践して見せてくれた。

 迷うのは、人間ばかりなのかもしれない。

 ヌワラエリヤは、穏やかで優しい味がした。




*  *  *




 朝が来る。

 ムーンガーデンを新しく、作りなおすには良い日だろう。

 古い土を、新しい土に入れ換えて、種をまいた。

 何もない、黒い土が見える植木鉢。

 けれど、いずれ。

 ここには命がよみがえり、

 花々があふれるほどに、咲くだろう。




《FIN》



参考文献

 『魔女の薬草箱』西村佑子/山と渓谷社

 『家庭でできる自然療法』東城百合子/あなたと健康社


参考にしたCD

 フォーレ「レクイエム」 指揮/ミシェル・コルボ(72年版)

 「天使の歌声」シャルロット・チャーチ 他


書いている間、支えになってくれたCD

 「リパッティ小品集」 ディヌ・リパッティ


※ ヌワラエリヤ

 スリランカの紅茶。インドのダージリンと似た気候で作られる。緑茶に少し似た味。渋みはそこそこ。



※ レクイエム

 元々は、カトリックのミサ曲の一つ。『死者のためのミサ曲』などと訳される。

 レクイエムという言葉には、安息を、という意味があるだけだが、宗教を離れて、亡くなった人を悼む曲として認識されている。

 モーツアルト、ヴェルディ、フォーレ、ブラームスのものが有名。なお、フォーレは発表当時、「レクイエムとしては異端」とされた。通常は入っている、神の怒りを表す曲がなかったため、ミサ曲としては使えないらしい。

 ただ、フォーレの曲は、両親を亡くした後に作曲したこともあり、聞いた人をなぐさめるような旋律になっている。


※ ピエ・イエズス

 レクイエムは、多くの曲で構成されている。その中の一曲。

 作中で使ったのは、アンドリュー・ロイド・ウェバー(オペラ座の怪人の作曲をした人)のピエ・イエズス。

 日本語訳は、かなり意訳してしまったので、CDなどについている訳とは、かけ離れていると思います。


 発音は、


Pie Jesu,  ピエ・イエズ

Qui tollis peccata mundi; クイ トリス ペカタ ムンディ

Dona eis requiem, ドナ エイス レクイエム


Agnus Dei,  アニュス・デイ

Qui tollis peccata mundi; クイ トリス ペカタ ムンディ

Dona eis requiem, ドナ エイス レクイエム


Sempiternam センピテルナム

Requiem レクイエム


ローマ字読みに近い。


※ リパッティ

 作品に出したわけではないのですが、今回、支えてくれた音楽なので、説明を入れておきます。

 ディヌ・リパッティは、1950年に、33歳で夭折したピアニストです。死因は悪性リンパ腫。血液のガンです。

 そのピアノの音色は高貴で透明、と評されました。

 彼の最後のコンサートは、医師が待機し、何かあればすぐに搬送できるよう、準備を整えた上で行われました。当時はまだ、薬の開発もそれほど進んでおらず、痛みをこらえた状態でのコンサートであったと思われます。

 しかしその音に乱れはなく、コンサート最後にアンコールを受けて弾いた「主よ、人の望みよ喜びよ」(バッハ)まで、静謐で、美しい音色であったと、伝説になっています。 

 残念ながら、ラストのその一曲は録音されず、幻のものとなりました。一度倒れたあと、起き上がってもう一度舞台に向かい、プログラムになかったその曲を弾いてコンサートを終えたそうです。

 この曲は、単独で演奏されることが多いのですが、もともとは、ミサの締めくくりの曲として書かれています。「全てやり遂げた」という意味で、彼はアンコールに選んだのではないでしょうか。

 今回、地震や津波、原発事故、様々な出来事の中、こんな時に、こんなものを書いて良いのかと、何度となく執筆を中止しかけました。

 支えてくれたのは、リパッティの音楽でした。時の彼方にいるピアニストに、感謝します。


完結です。


メルマガにさまざまな情報を盛り込んでくれ、メールでメッセージをくれたミツ店長さん、ミツティスタッフのみなさま、


読んでくださった、あなた。


ありがとうございました。


みなさまに、熱と光があるように。立ち上がる足が守られ、歩きだす心と魂が支えられますよう。



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