第9話 合法の紙で連れ戻す
王都東区の職人街から少し外れた、うらぶれた大通り。
数日前に月無し運送の助けを借りて元の錠前工房から逃げ出したラウルは、新しく雇い入れてくれた小さな修理屋への帰り道を急いでいた。
親方に契約年限を偽造され、タダ働きの奴隷同然だった日々は終わった。新しい職場は給料こそ安いが、自分の腕を正当に評価してくれる。何より、自分の意思で働き、自分の稼ぎでパンを買えることが嬉しかった。
「明日は、ミレイユさんのところへ顔を出してみるか。世話になった礼も言いたいしな」
ラウルが小さく独り言ちて路地を曲がろうとした、その時だった。
「おや。探しましたよ、逃亡者殿」
路地の奥から声がした。こちらの名を知っているような呼び方だった。
ラウルが足を止めるより早く、前方の建物の陰から屈強な男たちが三人、無言で立ち塞がった。背後を振り返ると、そこにも二人の男が退路を塞いでいる。
彼らの中心を割るようにして、仕立ての良い漆黒のフロックコートを着た男が進み出てきた。胸元には、公認の家籍移送仲介人であることを示す銀の徽章が鈍く光っている。
「あんたは……誰だ。俺に何の用がある!」
ラウルは持っていた修理鞄を盾にするように構えた。
「私の名前はマレク・ヴォス。家籍離脱令に基づき、正当な労働力の再配置を行う仲介業者です」
ヴォスは慇懃な笑みを浮かべ、懐から一枚の書類を取り出した。
「あなた、錠前工房のラウルですね。あなたの元の親方から、あなたの『徒弟契約の残存期間』および『無断離籍による損害賠償請求権』のすべてを、私が買い取らせていただきました」
「なっ……! 俺の契約はとっくに満了してる! 親方が勝手に年数を書き換えたんだ!」
「ほう。それは災難でしたね。ですが、公的な台帳に登録されているあなたの契約年限は『十五年』のままです。あなたがいくら口で不正を主張しようと、書類上の真実は変わりませんよ」
ヴォスは手にした書類――王国の公的な印章が押された『返還令状』をラウルの目の前に突きつけた。
「この紙がある限り、あなたは法的に私の所有物です。さあ、大人しく一緒に来ていただきましょう。王都の北に、錠前作りの腕を持つ奴隷……おっと失礼、労働者を求めている鉄鉱山がありましてね。そこで一生かけて借金を返していただきます」
「ふざけるな! 俺はもう、誰の所有物でもない!」
ラウルは叫び、突破しようと駆け出した。だが、腕力では専門の私兵に敵うはずもない。瞬く間に両腕を捻り上げられ、冷たい石畳に顔を押し付けられた。
「離せ! 放してくれ!」
「治安官を呼びますか? 呼んでも構いませんよ。あなたが無断離籍の罪で牢に放り込まれるだけですから。私はあくまで、この合法的な紙に従って、自分の財産を回収しているに過ぎないのです」
ラウルは通りへ顔を向けた。誰かに呼びかけようとして、声が出なかった。
手足を縛られ、路地の奥に停まっていた黒塗りの馬車へと引きずり込まれていく。
修理鞄が足元へ投げ込まれた。明日の仕事も、まだ入っているのに。
*
「……ラウルが、攫われた?」
月無し運送の事務所で、ミレイユは帳簿から弾かれたように顔を上げた。
目の前に立っているのは、下町の情報を集めて小銭を稼いでいる浮浪児の一人だ。
「ああ。東区の路地裏で、銀のバッジをつけた黒服の男たちに馬車へ押し込まれるのを見たんだ。間違いないよ」
ミレイユは銀貨を一枚少年に投げ渡し、即座に立ち上がって壁の地図を見た。
「銀のバッジ……公認の家籍移送仲介人か」
先日、エマが帳簿と町の噂を照らし合わせて割り出した、無断離籍者を食い物にしている巨大な業者の名前が脳裏を過る。マレク・ヴォス。
(東区から馬車で移動しているなら、恐らく南の区画門を抜けて王都の外へ運び出す気だ。今から追えば、まだ間に合う)
ミレイユは手押し車に空の木箱を積み、エマに南の区画門へ通報を頼んだ。暴行を受けた男が馬車で移送されている、と。
「書類を持っていたとしても、殴ってよいわけではないだろう」
馬車の行く先は二通りに絞れた。少年が教えた曲がり角からなら、南の区画門が近い。そこで逃したら、次の門へ連絡するしかない。
ミレイユは近道を押して走り、交差点の手前で車輪を排水溝へ落とした。倒したのは自分の空箱だけだ。
「悪い、少し待ってくれ!」
後ろから来た黒い馬車が止まる。通行人に頭を下げながら、ミレイユは箱を一つずつ拾った。御者が罵る声に、商人たちが顔を上げる。人目を作れば、少なくとも目の前でラウルを殴ることは難しくなる。
あとどれだけ時間を稼げるか。考えた時、区画門の方から声がした。
「その馬車、止まれ」
交差点の中央。黒塗りの馬車の真正面に、一人の男が立ち塞がった。
ヨレのあるコートに、鋭い眼光。王都治安局の追跡官、カインである。
(……来た)
通報を受けた区画門の治安官二人が、カインの後ろに続いていた。
御者席の私兵が舌打ちをし、馬車を急停止させる。
「何だあんた! 急に飛び出してくると危ねえだろうが!」
カインは私兵の怒鳴り声を無視し、馬車の荷台の扉をコツコツとノックした。
「王都治安局だ。この馬車には、無断離籍で手配中の人物が乗っているな?」
扉が開き、中から不機嫌そうな顔をしたマレク・ヴォスが顔を出した。
「おや、治安官殿。これは何かの嫌がらせですか? 私の馬車を止める法的な根拠があるとおっしゃるなら、伺いましょう」
「嫌がらせ? とんでもない」
カインは懐から治安官の手帳を取り出し、ヴォスの目を真っ直ぐに見据えた。
「俺は最近、王都内で急増している『家籍の譲渡』と『返還請求』の書類をすべて洗い直していてね。どうにも、おたくの組織が絡む書類には不自然な点が多い。……今あんたが連行している男の返還令状、見せてもらおうか」
空箱を抱えたミレイユは、カインの言葉に目を上げた。
(あの男、私を追うだけでなく、制度の裏をかく仲介業者まで調べていたのか……?)
ヴォスは鼻で笑い、自信満々に一枚の書類をカインへ差し出した。
「どうぞ。裁判所と家籍局の正式な手続きを踏んだ、完璧に合法的な返還令状です。どこからどう見ても、不自然な点などありませんよ」
カインは書類を受け取り、無言で紙面に視線を落とした。
ラウルの名前、元の雇い主の署名、譲渡の経緯。たしかに、書式自体は王国の法律に則って完璧に作られているように見える。
だが、カインの目はそこを見てはいなかった。
彼の視線は、書類の右下――発行元の権限を証明する、公的な『赤蝋の印章』の番号に釘付けになっていた。
「……なるほど。確かに完璧に見えるな」
カインは低く呟き、ゆっくりと顔を上げた。
「だが、この印章番号の振り方はおかしい。現在、家籍局が発行している令状の連番は、頭文字が発行年の下二桁から始まる規則になっている。だが、この印章番号は『K-04』から始まっているな」
ヴォスの表情が、ほんの一瞬だけ強張った。
「それが何か? 古い保管印を使っただけでしょう」
「古いなんてもんじゃない。この書式の印章番号は、俺が治安局に入るよりずっと前、十年以上前に使われていた旧規格だ。しかも、特定の部署でしか使われない特殊な刻印が混じっている」
カインは令状をヴォスに突き返さず、そのまま二つに折ってポケットにしまった。
「この令状は、偽造の疑いが極めて強い。よって、この令状の効力は本局で裏付け調査が終わるまで一時停止とする」
「なっ……! 言いがかりだ! 公的な印章が押された書類を、一介の追跡官ごときが勝手に差し止められると思っているのか!」
ヴォスが激昂して叫ぶが、カインは冷酷に言い放った。
「言いがかりかどうかは、本局の書類保管庫と照らし合わせればすぐに分かることだ。それとも、今ここでこの馬車を差し押さえ、あんたを公文書偽造の疑いで連行しようか?」
その言葉に、ヴォスは奥歯を強く噛み締めた。ここで強行突破すれば、それこそ治安局を敵に回すことになる。彼はまだ、表向きは『合法的な業者』の皮を被っていたいのだ。
「……結構。調べれば、その令状が本物であることが分かるはずです。ですが、私の業務を不当に妨害したこと、後で必ず上層部に抗議させていただきますよ」
ヴォスは吐き捨てるように言い、荷台の奥に向かって顎をしゃくった。
「おい、その男を下ろせ。今日は運が良かったな、逃亡者殿」
私兵によって荷台から蹴り出されたラウルが、石畳の上に転がった。縄を解かれ、信じられないという顔でカインを見上げている。
「俺は……捕まらないのか?」
「勘違いするな。令状の真贋が確定するまで、お前の身柄は一旦宙に浮いただけだ」
カインはラウルを一瞥し、冷たく告げた。
「申立てを聞く。今夜は短期保護宿へ移ってもらうが、そこでもお前の希望を確認する。少なくとも、この連中には渡さない」
ヴォスは馬車へ戻る時、右の踵を浮かせて身体を回した。先日、荷下ろしで足を痛めたのだと私兵を怒鳴る。カインはその動きを一度見てから、ラウルの負傷へ目を戻した。
馬車は方向を変え、去っていった。
ミレイユは最後の空箱を荷車へ戻した。手の震えが、ようやく収まった。
(あの書類を止められる者が来なければ、時間を稼ぐだけでは終わらなかった)
人を外へ出すために動くミレイユと、記録の不自然さを追うカイン。
二人は全く別々の理由から動き、決して手を組んだわけではない。だが、結果として彼らは同じ敵――人を縛り、売り捌く巨大な悪意を前にして、一つの結果へと合流していた。
ミレイユは足音を殺し、保護宿の行先を確認するため、同行の治安官に声を掛けた。
*
その夜。
王都治安局の薄暗い資料室で、カインは埃を被った古い事件簿の束をひっくり返していた。
今日、マレク・ヴォスから押収した『返還令状』。その右下に押されていた、不自然な旧規格の印章番号「K-04」。
カインは旧印の管理番号を書いた索引を一冊ずつ調べた。見覚えのある番号だったが、記憶だけで差し止めを続けるわけにはいかない。
「……あったぞ」
カインは一番底の棚から、分厚い革張りのバインダーを引きずり出した。
それは、十年前に発生し、不可解な理由で捜査が打ち切られて『封印』扱いとなっている、家籍局内部の大規模な横領と移送記録の事件簿だった。
カインはバインダーの紐を解き、中にある公文書の写しと、今日押収した令状を見比べた。
印章番号が、一致している。
「ヴォスの野郎……十年前の家籍局の事件で使われた『本物の印章』を、裏から手に入れて使い回していやがるのか」
印影そのものを真似た偽物とは限らない。本物の旧印を無断で使った疑いがある。ならば、印の保管先と持出し記録を調べる必要があった。
カインは事件簿のページをめくった。
古い調書の公印番号は、目の前の返還令状と同じだった。
カインは両方の番号を別紙に写し、資料室の当直に閲覧記録へ署名を求めた。記憶にある、だけでは役所を動かせない。
その横で、旧事件の処分記録に一枚だけ抜けが見つかった。
誰が抜いたのか。いつから無いのか。
彼は明日の仕事を、手帳へ二行書き加えた。




