第8話 逃げたくない人
金貨の袋が二つ、机に置かれた。
「妹を連れ出してください。今夜にでも」
セリアと名乗った女は、袋から手を離さなかった。小指に指輪の白い跡がある。金を作るために外したのだろう、とミレイユは思った。
妹のリゼットは、二年前に男爵家へ嫁いだ。最近は手紙が途絶え、面会も断られる。食事を減らされ、離れへ閉じ込められているらしい。
「誰から聞いた?」
「暇を出された侍女です。腕に痣があるのを見たと。父に訴えても、嫁ぎ先のことへ口を出すなと……」
「その侍女とは話せるかい」
「会わせます。ですから、どうか」
ミレイユは袋を押し戻した。
「連れ出す約束は、本人と話してからだ」
女の手に力が入った。
「妹は、ここへ来られません」
「なら、私が会いに行く。外へ出る手伝いと、誰かの望む場所へ運ぶ仕事は違う。姉さんの金で、妹さんの返事までは買えない」
セリアは泣きそうな顔をした。ミレイユは声を少し落とした。
「会う手配はするよ。見捨てると言っているんじゃない」
翌日、ミレイユは仕立屋の助手として男爵邸へ入った。
セリアが婚礼衣装を頼んだ店には、リゼットの衣服を直す仕事がまだ残っていた。辞めた侍女が預けていた注文票もある。店主は事情を聞き、採寸に一人付き添わせることを認めた。
門番は注文票と道具を調べた。隠す物はない。ミレイユが苦労したのは、逃げ道より、正当な用事を一つ確保することだった。
離れの戸には外から鍵が掛かっていた。
「採寸の間も、ここに立つつもりかい」
仕立屋の女主人が見張りを睨んだ。男が廊下へ退き、戸が閉まる。女主人には外で品物を数えてもらい、ミレイユはリゼットと二人になった。
袖口から見えた手首は細かった。卓上のパンは乾き、部屋には水差しが一つしかない。
「姉さんに頼まれて来た。あんたが望むなら、出る方法を考えられる」
リゼットは顔を上げたが、すぐに目を伏せた。
「私が逃げたら、実家への貸付けを取り立てると、夫が言っています」
「金の話は、あんたを殴っていい理由にはならない」
「分かっています。でも、父も姉も……領地の人たちまで困るかもしれない。夫は、私が言うことを聞いていれば誰にも手を出さないと」
ミレイユは口を閉じた。その約束を守る男なら、目の前の女を閉じ込めてはいない。そう言うのは簡単だった。しかし、この部屋に残されるのは自分ではない。
「今夜、出たいかい」
長い沈黙の末に、リゼットは首を横に振った。
「今は、決められません。申し訳ありません」
「謝ることじゃない」
机に腰掛けそうになり、ミレイユはやめた。部屋の物を勝手に使うことさえ、この人には断りにくいかもしれない。
「座ってもいい?」
頷きを待ってから、椅子を引いた。
「今日は連れ出さない。だが、一つ確認させてほしい。あんたが残れば、他の人が安全だと確かめられる物はあるかい。夫の言葉以外で」
リゼットは答えなかった。
「分からないことは、分からないままでいい。外で調べられることまで、一人で背負う必要はないんだよ」
ミレイユは、姉に伝えてよい範囲を一つずつ聞いた。痣のこと。食事のこと。実家への貸付けの話。リゼットは迷いながらも、それらを伝えることには同意した。
ただし、部屋へ怒鳴り込んでこないでほしい、と付け加えた。
「分かった。急いで出たい時は?」
直し物を出す籠は、毎週仕立屋へ届くという。袖に赤い糸を一筋縫えば、面談を頼む合図にできる。糸がなくても、口頭で水差しの修繕を頼めば伝わるようにした。
「返事を変えても、怒りませんか」
「変えるための連絡先を教えてるんだよ」
リゼットは、初めてミレイユの顔を長く見た。
帰り際、ミレイユは彼女の許しを得て仕立屋の女主人に腕の痣を見てもらった。今すぐ連れ出せなくても、外に残せる証言はある。
セリアは、一人で戻ったミレイユを見て立ち上がった。
「どうしてです。無理にでも乗せてくれれば、きっと後では……」
「感謝する、と決めるのは早い」
ミレイユは椅子を引いた。
「座って聞いてくれ。妹さんは、あんたが困ることを恐れている。金を返さなくて済む方法も、領民を守る方法も、自分が我慢する以外に知らないんだ」
「私は、そんなことを頼んでいません」
「だから、それを本人へ伝えよう。責めずに。借金の書類を確認し、あんた自身が何を引き受けられるかも、はっきりさせて」
セリアは袋を見下ろした。
「この金も、借りたのです。全部渡せば救えると思って」
「今は返せる分を返した方がいい。逃げる先に、もう一つ借金の檻を作りたくない」
目の前で女の顔が歪んだ。ミレイユは、彼女が泣きやむまで次の話をしなかった。
その晩、二人は仕立屋を連絡先に決め、医師を入れるための申立てを準備した。リゼットが望んだ範囲だけを記す。差し迫った危険があれば、公的な緊急保護も求める。
「必ず助かるとは言えない」
最後にミレイユは言った。
「だが、今日断られたから仕事が全部終わり、というわけでもない」
翌朝、役所へ出された申立てを、カインが確認した。
親族からの暴行調査の申立て。本人は現時点で移動を希望せず。面談の継続を希望。仕立屋の証言を添付。
セリアは自分の名で署名し、仲介した運送屋の名前も隠さなかった。
カインは、夜逃げ屋が多額の依頼料を返したという女の説明を、もう一度確かめた。
「本人が断ったからですか」
「ええ。でも、もう頼るなとは言われませんでした」
カインは申立書を受理箱へ入れた。
取り締まるべき相手が、取り締まる側より先に、本人の返事を待っている。その事実が、彼には少し腹立たしかった。




