第10話 最初の共闘
ラウルの寝床は、治安局が手配した短期保護宿へ移った。
自由になったわけではない。元の工房にもヴォスにも返さず、契約の真偽を調べるための措置だった。出かける時は宿へ行先を告げる。面談の日時も決まっている。
「もう一度閉じ込められるのかと思った」
面会に来たミレイユに、ラウルは小さく笑った。
「鍵は、内側にもあるんだな」
笑い返す代わりに、ミレイユは卓へ紙を広げた。
「十歳で契約した時、その場に誰がいた?」
「親方と、役所の人と……隣町で錠前を作っていた爺さん。ヒューズって呼ばれてた」
「そこを、詳しく」
カインは朝一番に、押収した返還令状を上官へ提出した。
公印の番号は、古い事件で封印された印と一致した。ただし、その一致だけでは、誰が押したかまでは分からない。旧印の使用が認められた例外がないか、発行簿を確認する必要がある。
「だからこそ、執行を止めてください。人を運んだ後では遅い」
上官は、同じ印影を重ねて何度も見た。
「家籍局と揉めるぞ」
「揉めないために、この男を引き渡すんですか」
沈黙が落ちた。上官は正式な執行停止の申請に署名し、当番判事へ送る使いを呼んだ。
カインは勝った気にはなれなかった。押せる印が一つ違うだけで、救える人間も違う。それが記録を扱う仕事の強さであり、嫌なところでもあった。
ヒューズの工房は、王都の東門から荷車で半日の場所にあった。
ミレイユは運送組合の古い名簿から住所を探し、エマに通常配送の組替えを頼んだ。自分が往復すれば今日の荷が遅れる。人を救う仕事のためでも、他の約束を勝手に捨てるわけにはいかない。
老人は最初、契約書など覚えていないと言った。
「十二年前だぞ。うちも一度、店を移した」
「父親の折れた鍵を持っていた子だ。直してくれと頼んだって」
ラウルから聞いた話を出すと、老人の目が上がった。
「あの坊主か」
探し始めてから二時間かかった。倉庫の奥、雨漏りを避けて移した箱に、立会人用の契約原本があった。三者が署名したうちの一通だ。
年限は十二年。住込み中の食費は賃金から追加で請求しない、と小さな文字で記されている。
「これを持ち出させてほしい。あんたにも、説明を頼みたい」
「坊主は、どうして自分で来ない」
ミレイユは答える前に、紙の十二という数字を指でなぞった。
「これが十五に変わっていてね」
ヒューズは、作業用の前掛けを外した。
翌朝、元の親方は立会人の顔を見て舌打ちした。
話合いの場所は工房ではなく、治安局の小会議室だった。机を挟んでラウルと親方が座り、カインの同僚が記録を取る。ミレイユは後ろの壁際にいた。
「十五年で約束した。古い紙が間違っているんだ」
「なら、変更に本人が同意した書類を出してください」
カインが言った。
親方は、口約束だったと答えた。ラウルは首を振る。ヒューズは、当時なぜ十二年にしたかを説明した。父を亡くした子を預かる代わりに、二十二になれば独立させると親方自身が約束したのだ。
「こいつに独立なんかできるものか」
親方が声を上げた瞬間、ラウルの肩が縮んだ。
ミレイユは一歩動きかけ、止まった。ラウルが両手を机に置き直したからだ。
「できるかどうかは、俺がやって決めます。まず、終わった契約を終わりにしてください」
カインの同僚が、その言葉を書き留めた。
その日のうちに判事は返還請求を差し止め、原本の鑑定と台帳の訂正を命じた。ヴォスへ債権を譲っていても、元の請求に根拠がなければ拘束は続けられない。
数日後、契約満了と食費債務の不存在が確認され、ラウルの離籍証が出た。契約書を誰が改竄したかの捜査は、それとは別に続く。
ラウルは証書を受け取っても、しばらく紙を畳めなかった。
「これで、俺の名前で仕事を請けていいんだな」
「ああ。ただし、仕事は選べよ。休みのない契約に、喜んで飛びつくんじゃない」
「そんな間抜けなこと、しませんよ」
そう言いかけて、ラウルは口をつぐんだ。逃げる前なら、賃金が出ると聞いただけで署名していたかもしれない。
ミレイユが彼を送り出した後、カインが橋のたもとで待っていた。
「よく原本を見つけたな」
「あんたが足止めしなければ、探す時間もなかった」
二人とも、それ以上は褒めなかった。
「記録を消さずに済んだだろう」
カインが言う。
「本人が押しつぶされる前に、間に合えばね」
ミレイユは答えた。いま争う気はなかったが、それだけは譲れない。
すれ違いざま、カインが古い事件の話をした。
「K-04が使われた横領事件に、書記の名前がある。セラ・ヴィアン。処分を確かめようとしたが、記録が抜けていた」
ミレイユは歩みを止めた。
十年前、暗い戸口で手を伸ばした女。荷物は三つ、と言った声。捕まった後、処刑されたと聞かされた人。
「知っているのか」
「……その名前を使った脅しなら、高くつくよ」
「脅すためなら、欠けた記録を調べたりしない」
ミレイユは返事をしなかった。
帰ったらエマの帳簿を確かめる。ラウルの次の仕事を探す。明日の荷車を組む。やることを頭に並べても、セラの名前だけが、その隙間から消えなかった。




