第11話 買われる家籍
深夜の王都下町。しとしとと降り続く冷たい雨が、石畳を濡らしている。
月無し運送の事務所の重い木扉を押し開けると、中にはランプの暖かな光と、羽ペンが羊皮紙の上を滑る微かな摩擦音だけが満ちていた。
「ただいま。まだ起きていたのか、エマ」
雨水を弾く外套を脱ぎながらミレイユが声をかけると、長机の奥で書類の山に埋もれていたエマが、パッと顔を上げた。
「おかえりなさい、ミレイユさん。夜の物流手配、お疲れ様でした。……少し、計算が気になってしまって」
エマの目の下には薄く隈ができているが、その翡翠色の瞳は奇妙なほどの熱を帯びて爛々と輝いていた。
長机の上には、ミレイユが見たこともない量の書類が広げられている。月無し運送の帳簿だけではない。ラウルの契約審査で提示され、本人に交付された債権譲渡契約の控えや、エマが街の情報屋を使って買い集めさせた、各区画での『家籍移動』に関する公的記録の写しだった。
「なんだ、その量は。救済基金の設立に必要な書類か?」
「いえ。基金の立ち上げと並行して、少し気になっていたことを調べていたんです」
エマは手元の書類をトントンと机で揃え、真剣な眼差しでミレイユを見つめた。
「先日、ラウルさんの徒弟契約を買い取り、返還令状を使って彼を連れ去ろうとした男……公認家籍移送仲介人のマレク・ヴォス。彼らの組織が、裏でどのような資金繰りをしているのか、帳簿の端くれと市場の動きから追ってみました」
ミレイユは丸椅子を引き寄せ、エマの向かいに腰を下ろした。
ヴァンデル伯爵家という巨大な組織の家計を、誰にも頼らず一人で回し続けてきたエマの計算能力と証憑整理の力は、ミレイユの想像を遥かに超えていた。彼女がわざわざ夜更けまで起きて報告するということは、何かよほど重大な真実を見つけたということだ。
「結論から言います。マレク・ヴォスは、単なる『逃亡者の連れ戻し屋』ではありません。彼がやっているのは、王国の法律を悪用した、正規の届出を装った、大規模な『人身取引』です」
「人身取引……」
ミレイユの眉がピクリと動いた。
「説明してくれ」
「はい」エマは一枚の相関図のようなものを書き込んだ羊皮紙をミレイユの前に押し出した。「通常、奉公人や徒弟が無断で家籍を離れた場合、元の家長や親方は治安局に届けを出して連れ戻そうとします。ですが、治安局の手続きは時間がかかり、世間体も悪い。そこでヴォスのような仲介業者が現れます」
エマの指先が、紙の上の矢印をなぞる。
「ここまでは想定の範囲内でした。彼らは依頼主から手数料をもらって逃亡者を捕まえるのだと、私たちは考えていましたよね。でも、ラウルに交付された譲渡契約の代金欄を見て気づいたんです。ヴォスは親方から手数料をもらっていない。むしろ、親方に『現金を支払って』いました」
「逃げられた側に、仲介業者が金を払う?」
「そうです。ヴォスは、家長や親方が持て余している逃亡者の『債権』『後見権』『徒弟権』といった家籍上の権利を、二束三文で一括して買い取っているんです」
ミレイユは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
権利を買い取る。本人への請求や後見先の変更を、ヴォスがまとめて扱う形になる。
「……それで、買い取った後どうするんだ。ただ請求権を持っていても、金にはならないだろう」
「再配置するんです」
エマの声が、一段と低くなった。
「彼らは治安局より早く逃亡者を捕縛します。そして、買い取った正当な権利を盾にして、彼らを元の家や工房には戻さない。その代わり、王都から遠く離れた北の鉄鉱山や、劣悪な環境の地方の紡績工場など、常に安価な労働力を求めている過酷な現場へ『合法的』に家籍を移送するのです」
エマが提示した公的記録の写しには、王都から地方の鉱山へと、十把一絡げに家籍が移された名簿が連なっていた。
「移送先の工場や鉱山は、労働力一人につき、仲介業者であるヴォスに多額の紹介料を支払います。さらに、移送された者たちの賃金の大半は『買い取った債務の返済』という名目で、ヴォスの懐に入り続ける仕組みです。……これが、彼のビジネスモデルの全貌です」
ミレイユは息を呑んだ。
個人の悪意や、一つの劣悪な工房の問題ではない。
家長の許可なく家籍を離れることを罪とする『家籍離脱令』。本来は内戦後の人身売買を防ぐために作られたはずのその法律の抜け穴を突き、人間の自由意思を金銭価値に換算して売り捌く、巨大な市場構造。
ヴォスはその市場の元締めとして、合法の皮を被りながら血をすする吸血鬼だったのだ。
(あの追跡官……カインは、この構造に気づいていたのか)
返還令状の印章番号を確かめていた、カインの手つきを思い出した。彼は既に、ヴォスの書類を調べていた。
「ミレイユさん、夜逃げ屋として人を外へ出すだけでは、彼らから逃げ切れません」
エマが悲痛な顔で言った。
「私たちがいくら人を逃がしても、逃げた先で公的な住所と仕事がなければ、彼らは必ず貧困に陥り、ボロを出します。ヴォスの組織はそこを狙って網を張り、権利を買い取った上で、届出を盾に彼らを狩り立てているんです」
「……」
ミレイユは拳を強く握りしめた。
ただ扉の鍵を開け、壁の外へ出すだけでは自由は完成しない。逃げた後の人生――住居、仕事、身分、法的記録を取り戻して初めて『逃げた後』が成立する。
エマが提唱した救済基金は、まさにその防波堤となるべきものだった。三日分の支援は渡した。その後も本人へ連絡する約束はあった。それでも、連絡が途絶えた人を、仕事が決まって忙しいのだろうと考えていた。確かめきれていなかった。
「エマ。ヴォスが権利を買い取って地方へ再配置した連中のリストは作れるか」
「はい。不完全ですが、市場の記録の偏りと、情報屋からのタレコミを照合して、直近半年分で被害に遭ったと思われる人たちの名簿を作成しました。これです」
エマは数枚の羊皮紙を束ね、ミレイユへ手渡した。
ミレイユはその名簿を受け取り、一行ずつ目を通し始めた。
北の鉄鉱山へ送られた若者。地方の開拓村へ債務労働として移された女性。どれも、劣悪な環境から自力で逃げ出し、結局はヴォスの網に捕らえられた者たちだ。
だが。
ページをめくっていたミレイユの手が、唐突にピタリと止まった。
「……嘘だろ」
絞り出すような低い声が、ミレイユの唇から漏れた。
彼女の暗い瞳が、羊皮紙の一点に釘付けになっている。
「どうしたんですか、ミレイユさん」
「……ここにある名前」
ミレイユの指先が、名簿の中の三つの名前を指し示していた。
『ルカ』『シフォン』『ダニエル』。
一見すれば、ただのありふれた労働者の名前に過ぎない。
だが、ミレイユにとってはそのどれもが、決して忘れることのできない名前だった。
「この三人は……私が、逃がした人間だ」
エマが息を呑む音が聞こえた。
「このルカという男は半年前、借金で首が回らなくなった親の代わりに売られそうになっていたところを、私が荷馬車の床下に隠して王都の北へ逃がした。シフォンは三ヶ月前だ。ダニエルは一年前……」
ミレイユの声が微かに震えていた。
彼女は依頼人の意思を二度確認し、「荷物は三つまで」というルールに従って彼らを逃がした。作戦は完璧に成功し、彼らは自分の意思で自由の空気を吸ったはずだった。
だが、名簿に記された記録は残酷な真実を告げていた。
彼らは逃げ延びた先で公的な身分を得られず、最終的にヴォスの組織に見つかったのだ。そして、元の家籍から権利を買い取られ、今度は『合法的』に、以前よりもさらに絶望的な労働環境へと送られ、使い潰されている。
「……私が、不完全な逃がし方をしたせいで」
ミレイユは羊皮紙を握りしめ、ギリッと奥歯を噛んだ。
「あの追跡官の言う通りだ。私は他人の人生を動かしておきながら、その先の記録を守る術を持っていなかった。逃がしたつもりになっていただけだ」
それは、ミレイユ・月無し運送の女主人としての根幹を揺るがす痛烈な敗北感だった。
彼女の「本人の意思を尊重する」という信条は間違っていない。だが、制度の壁を越えられなければ、その意思は結局、より巨大な暴力の前に屈することになる。
「ミレイユさん、自分を責めないでください」
エマが立ち上がり、ミレイユの震える手を両手で包み込んだ。
「あなたが彼らを逃がさなければ、彼らはその瞬間に絶望して終わっていたはずです。彼らは確かに、一度は自分の人生を選び取った。……それに、まだ間に合います」
「間に合う?」
「はい。生存を確かめられた人もいます。全員はまだ分かりませんが、移送先へ照会する手掛かりはあります。居場所さえ分かれば……私たちが設立する救済基金を使って、彼らを法的に取り戻すことも、もう一度逃がすこともできるはずです」
エマの真っ直ぐな瞳に、ミレイユはハッと顔を上げた。
そうだ。失敗した依頼も、一度逃がした依頼人も、決して見捨てない。それが月無し運送の運用原則だ。
「……そうだな。ここで絶望している暇はない」
ミレイユは深く息を吐き出し、自らの心を冷たく研ぎ澄ませた。
相手は法を盾にした巨大な市場構造だ。物流の隙間だけでは勝てない。エマの実務能力と、彼らが合法であると信じ込んでいる制度そのものの矛盾を突く必要がある。
「エマ。この名簿にある人間たちの現在の居場所と、彼らを縛っている債権の正確な所在を洗い出せるか」
「やります。帳簿の裏付けなら、誰にも負けません」
エマが力強く頷いた。
買われる家籍。金に換えられる自由意思。
その巨大な暴力に対して、夜逃げ屋はただ逃げるだけの存在から、奪われた人生を再建し、取り戻すための戦いへと足を踏み入れようとしていた。
雨音の響く王都の片隅で、二人の女は反撃の狼煙を上げるための分厚い帳簿を開いた。




