第12話 途中で帰る依頼人
王都の下町。入り組んだ路地の奥にある、外見は古びた長屋の一室。
煙突から細い煙が立ち上るその部屋の中では、温かいスープの匂いがふわりと漂っていた。
「ミナ、お皿を並べてちょうだい。今夜は、新しいお客さんが来るかもしれないからね」
「うん、わかった!」
かまどの前で鍋をかき混ぜるマヤの言葉に、六歳になる娘のミナが元気よく返事をした。
ここは、月無し運送の会計係であるエマが『救済基金』を担保にして借り上げた、身元証明のない逃亡者たちを一時的に匿うための安全家屋だ。
マヤの七十二時間の保護は、診療記録と元同僚の証言を受けた判事によって延長された。その後の審理で移送契約が差し止められ、母娘の別籍が認められた。食事を作るのは、恩を返すための義務ではない。エマと報酬を決めて引き受けた、安全家屋の管理人の仕事だった。
「……美味しい」
味見をしたマヤの顔に、自然な笑みがこぼれる。
主人の顔色を窺いながら作る料理ではなく、傷つき、逃げてきた人々の心を温めるための料理。彼女が月無し運送の事務所で三つの荷物として選んだ『自分の料理帳』は、今ここで確かな価値を持って息づいている。
月無し運送の仕事は、人を外へ出して終わりではない。逃げた後の人生を再建する基盤が、エマの頭脳とマヤの生活管理能力によって、少しずつ、だが確実に機能し始めていた。
同じ頃。路地裏の月無し運送の事務所には、一人の初老の男性が丸椅子に背を丸めて座っていた。
白髪交じりの頭と、長年の労働で節くれだった太い指。彼は王都の東区にある老舗の商家で、四十年間休むことなく奉公してきたトーマスという男だった。
「……旦那様が、私を地方の寒村にある古い倉庫の管理へ回すとおっしゃるのです」
トーマスは、搾り出すような掠れた声でミレイユに語った。
「私は、十二の時からあの店で丁稚奉公を始め、文字通り馬車馬のように働いてきました。先代の旦那様には目をかけていただき、番頭の手前まで取り立ててもらった。ですが、代替わりして今の若い旦那様になってからは、少しでも動きが鈍いと怒鳴られるようになり……先日、重い荷下ろしで腰を痛めた途端に、これです」
トーマスの肩が、小さく震えていた。
「家籍離脱令のもとでは、私のような住み込み奉公人の家籍は主人に握られている。厄介払いとして地方へ飛ばされれば、二度と王都の土を踏むことはできないでしょう。妻の墓も、この街にあるというのに」
「だから、自分の意思で家籍から出たいということか」
ミレイユは手元の羊皮紙に目を落としたまま、淡々と確認した。
「はい。どうせ見捨てられるのなら、飼い殺しにされる前に、自分の足で出て行きたいのです。少しばかりの貯蓄はあります。下町で日雇いの仕事でもしながら、残りの人生をひっそりと生きたい」
悲哀に満ちた理由だった。長年組織に尽くした人間が、使えなくなった途端に切り捨てられる。王都では珍しくもない、よくある光景だ。
「今の希望は聞いた。出発前に、もう一度確かめる」
ミレイユは羽ペンを置き、立ち上がった。
「依頼を受けよう。逃げた後の三日間は、こちらで用意した安全家屋で寝食を保証する。だが、その前に一つだけやらなければならないことがある」
ミレイユは引き出しから白紙を取り出し、トーマスの前に置いた。
「荷造りについては、一つ決まりがある。荷物は三つまで。それ以上は運ばない。衣服、薬、身分証明の書類、最低限の現金は『生活必需品』だから数えなくていい。それ以外の、これからも持っていたい私物を三つ、選べ」
トーマスは少しの間呆然としていたが、やがて足元に置いていた古びた革鞄の中から、慎重な手つきで三つの品を取り出し、机の上に並べた。
一つ目は、表紙が擦り切れ、ページがふくらんだ分厚い手帳だった。
「私が長年、商家の品物の出入りや得意客の好みを書き留めてきたメモ帳です。今の旦那様は『そんな古いやり方はもういらない』と笑いますが、私にとっては仕事の歴史そのものです」
二つ目は、銀色の小さな懐中時計。
「これは、亡くなった妻が、私が番頭補佐になった祝いに買ってくれたものです。時間は少しずれますが、これを手放すことはできません」
そして三つ目。トーマスが最も大事そうに、両手で包み込むようにして取り出したのは、黒ずんだ一枚の『銅貨』だった。
「……ただの銅貨じゃないな」
ミレイユの問いに、トーマスは少しだけ誇らしげに目を細めた。
「ええ。私がまだ十五の頃。嵐の夜に、一人で店の品物を雨から守り抜いたことがありました。その時、今は亡き先代の旦那様が、『よくやった、お前はうちの誇りだ』と言って、特別に褒美としてくださった銅貨です。私のお守りです」
手帳、時計、そして銅貨。
そこにあるのは、トーマスという一人の男が、四十年という歳月をかけて積み上げてきた誠実さと、愛の証だった。
ミレイユは静かに頷き、三つの品を厚手の布で包んだ。
「確認した。これで契約成立だ。今夜の夜半過ぎ、商家の裏口に馬車を回す」
*
深夜。
老舗商家の裏口から続く狭い路地に、ミレイユは御者席に座ったまま幌馬車を停めていた。
雨は上がっていたが、雲が月を隠し、王都は深い闇に沈んでいる。
ミレイユの計算通り、商家の見張りが交代する一瞬の隙を突き、裏口の勝手口からトーマスが音もなく姿を現した。彼は長年この屋敷に住み込んでいるため、どこを歩けば床板が鳴らないか、誰がどの時間帯に深く眠っているかを熟知していた。
トーマスは片手に生活必需品を詰めた小さな鞄を持ち、もう一方の腕に、ミレイユが布で包んだ『三つの私物』をしっかりと抱えている。
「時間通りだ。乗れ」
ミレイユが低く声をかけると、トーマスは無言で頷き、馬車の荷台へと足をかけた。
あとは、このまま下町にあるマヤの安全家屋へ向かうだけだ。マヤが温かいスープを作って待っている。その後に控える住まい探しと離籍の申立てについても、昼の面談で話してある。
だが。
荷台に片足を乗せたまま、トーマスの動きが不自然に止まった。
「……どうした。早く乗れ、見張りが戻ってくるぞ」
ミレイユの催促に、トーマスは答えなかった。
彼は荷台に足をかけた体勢のまま、自分の胸に抱えた三つの私物――布越しに感じる、手帳の分厚さと、時計の硬さと、たった一枚の銅貨の感触を、じっと確かめていた。
「……ミレイユさん」
トーマスの声は、ひどく震えていた。恐怖によるものではない。自分自身の魂の底から湧き上がる、抑えきれない感情による震えだった。
「私は、逃げたいと願いました。役に立たなくなった自分をゴミのように捨てる、今の旦那様が許せなかった。だから、ここから消えてやろうと」
トーマスは馬車から足を下ろし、商家を見上げた。
立派な漆喰の壁。長年磨き上げられてきた木の柱。その一つ一つに、彼自身の四十年の汗が染み込んでいる。
「ですが……逃げたら、四十年の仕事まで消えてしまう気がするのです。そんなはずはないと、頭では分かっているのに」
「消えないよ」
ミレイユは荷台から手を離した。
「ここを出ても、残っても、あんたがした仕事は変わらない。その上で、どうしたい?」
トーマスはゆっくりと振り返り、ミレイユを真っ直ぐに見上げた。
「ミレイユさん。申し訳ありません。……私は、行きません」
張り詰めた空気が、路地に漂う。
夜逃げの作戦中、最も危険なのは依頼人の土壇場での心変わりだ。予定が狂えば、見張りに見つかるリスクは跳ね上がり、ミレイユ自身が違法幇助で捕まる可能性もある。普通の裏業者なら、無理矢理にでも馬車に押し込んで連れ去るか、あるいは激怒して依頼人をその場に置き去りにするだろう。
だが、ミレイユの表情は少しも変わらなかった。
「依頼を撤回するということか」
「はい。私は、逃げるように去りたくはありません。明日、正面から旦那様の執務室へ行き、四十年の奉公に見合う正当な『暇』を出してもらえるよう、何度でも話し合います。明日は同業の先輩にも同席してもらいます。話合いを拒まれたら、また連絡してもいいでしょうか。」
ミレイユは少しの間、無言でトーマスを見つめていた。
やがて彼女は、手綱から手を離し、静かに頷いた。
「わかった。作戦は中止だ」
その声に、怒りや失望は一切混じっていなかった。
「本人が出たくない依頼は受けない。ただし、今夜の決断で明日のお前まで縛る必要はない」
「ミレイユさん……」
「連絡先は持っているね。荷物は、今使いたい場所に戻せばいい。やり直す時は、また包めばいいんだ」
トーマスは包みを解いた。時計を胸のポケットへ戻し、銅貨を財布の仕切りに入れる。手帳だけを、明日の話合いのために抱え直した。
トーマスは深く頭を下げた。そして手帳を胸へ寄せ、商家の裏口へと引き返していった。
ミレイユは彼が屋敷の中へ消え、扉が閉まるまで見届けた後、静かに馬車を発進させた。
今夜、用意した部屋は空いたままになる。マヤの作ったスープも、少し余ってしまうかもしれない。
だが、自分の人生を自分で選ぶ瞬間に立ち会えたことだけは、変わらない事実だった。
*
商家の裏路地から数十メートル離れた、使われていない倉庫の屋根の上。
王都治安局の追跡官カインは、冷たい夜風にコートの裾を揺らしながら、その一部始終をじっと見つめていた。
カインは昨日から、この老舗商家の周辺をマークしていた。家籍局の移送手続きの申請リストに、この商家の名前と不自然な地方移送の記録を見つけ、無断離籍が起きる可能性が高いと踏んでいたのだ。
読み通り、月無し運送の馬車は現れた。
だが、カインの目の前で起きたのは、逃亡劇ではなかった。
男が馬車に乗るのを直前でやめ、屋敷に戻っていく姿。そして、それを見届け、誰も攫わずに静かに去っていく夜逃げ屋の姿。
「……やはりな」
カインは低く呟き、手すりに置いていた手を引いた。
あの時、ミレイユは依頼人から間違いなく金を受け取っていたはずだ。裏の組織であれば、依頼人が直前で日和ったとしても、強引に連れ去って任務を完遂し、違約金まで巻き上げるのが普通だ。
だが彼女は、ただの一言も男を責めず、その選択を尊重して作戦を中止した。
(あいつらは、ただ金を稼ぐために人を攫う犯罪者じゃない)
カインの胸の中にあった一つの仮説が、今夜、完全な確信へと変わった。
彼女の倫理線は極めて明確だ。本人の『出たい』という意思がなければ動かない。そして、本人が『残りたい』と願った時、その自由も等しく尊重する。
それは、ただ法と記録を盲信し、枠から外れた人間を危険視するだけの旧来の治安維持の考え方とは、全く異なる次元の哲学だった。
「……お前のやり方は違法だ。だが、お前が何を守ろうとしているのかは、少しだけ分かった気がするぞ、ミレイユ」
カインは暗闇の中で薄く笑みを浮かべ、身を翻した。
人を記録から消すことを憎む彼にとって、ミレイユの行いは依然として許されざるものだ。だが、彼女が金や暴力で人を支配する人間ではないと分かった以上、彼女を単なる『敵』として扱うことは、もうできない。
追う側と逃がす側。
決して交わることのないはずの二つの視線が、夜の王都で静かに、だが確かに重なり始めていた。




