第13話 カインの勝ち
月無し運送の事務所の重い木扉が、乱暴な手つきで押し開けられた。
「頼む……! 私を、今夜すぐに王都の外へ逃がしてくれ!」
薄暗いランプの光の中に飛び込んできたのは、四十代半ばの、小太りで身なりの良い男だった。だが、その上等なウールの外套は雨と泥で汚れ、顔には脂汗がびっしりと浮いている。
長机の奥で帳簿整理をしていたミレイユは、静かに羽ペンを置き、男を観察した。
指先にはインクの染みが深く入り込み、身につけている時計の鎖や靴の仕立てから、それなりの規模の商店で実務を仕切る番頭クラスの人間であることが窺える。
「うちはただの運送屋だ。だが、運ぶ荷物によっては相談に乗らないこともない。座れ」
男は弾かれたように丸椅子に腰を下ろすと、ガロアと名乗った。王都南区にある、香辛料や茶葉を扱う中規模な商会の筆頭番頭だという。
「逃げたい理由はなんだ」
ミレイユの短く鋭い問いに、ガロアは両手で顔を覆い、芝居がかったように声を震わせた。
「旦那様の、事業の失敗です……。主人は無謀な投資に手を出し、商会に莫大な負債を抱え込みました。それだけならまだしも、主人はその負債の責任を、親族でもない私の家籍に押し付けようとしているのです」
ガロアは血走った目でミレイユを見つめた。
「私は三十年間、あの商会のために粉骨砕身働いてきました。なのに、明日になれば私は全財産を没収され、その上で借金のカタとして北の強制労働所へ売られてしまう。そんな理不尽な話があるでしょうか!」
家籍離脱令の下では、雇用主である家長は強大な権限を持つ。雇い人が主人の借金を法的に被らされるケースは、決して珍しいことではなかった。つい先日、エマが割り出した『マレク・ヴォス』のような悪辣な仲介業者が、そうした債務と労働力を買い取って暴利を貪っている現実を知ったばかりだ。
「なるほどな。それは災難だった」
ミレイユは感情を交えない声で返し、ガロアの目を真っ直ぐに射抜いた。
「だが、うちは人助けの慈善事業じゃない。お前自身の言葉でもう一度言え。お前は、自分の意思で家籍を出たいのか」
「出たい! こんな理不尽な家籍からは、一刻も早く抜け出したい!」
ガロアは机に身を乗り出して叫んだ。
「金ならあります。長年の貯えを、すべて現金と宝石に換えてきました。倍払ってもいい、だから……!」
「金の話は後だ」
ミレイユはガロアの言葉を遮り、引き出しから一枚の白紙を取り出した。
「希望は聞いた。だが、事情を確認してから受けるか決める。荷造りだけは説明しておく。私物は三つまでだ」
「み、三つ?」
「衣服、薬、身分を証明する書類、当面の生活費となる最低限の現金は『生活必需品』だから数えなくていい。それ以外の、これからも持っていたい私物を三つ選べ」
ガロアはひどく焦ったように眼球を動かしたが、すぐに「分かりました。それで構いません」と力強く頷いた。
「今夜、南区の第十二倉庫で、もう一度話を聞く。移動はその後だ。前金はまだ受け取らない」
「恩に着ます……! 必ず、行きます」
ガロアは何度も頭を下げ、逃げるように事務所を後にした。
木扉が閉まった後、奥の部屋からエマが不安げな顔を出した。
「ミレイユさん。あのガロアという方……少し、様子が不自然ではありませんでしたか?」
「ああ。ただ、慌て方だけで嘘とは決められない。確かめたいのは、借金が発生した時刻と、誰が請求しているかだ」
ミレイユは腕を組んで、壁の王都地図を見上げた。
「それに、主人の借金を押し付けられたと言う割には、持っているという現金の額が多すぎる」
「なら、依頼を断るべきでは……」
「断るとも受けるとも、まだ決めない。本人の意思を聞くことと、依頼の理由を確かめることは、別だ」
ミレイユは目を細めた。マレク・ヴォスが仕切る『買われる家籍』の巨大な市場構造が判明して以来、ミレイユは王都の家籍異動に対して過敏になっていた。目の前の依頼人が、ヴォスの網にかかるような末路を辿らないか、裏付けを取る必要がある。
「少し、裏を取る。エマ、南区の香辛料商会の直近の資金繰りについて、情報屋から調べられるか?」
「はい、やってみます」
エマが帳簿を広げたのを確認し、ミレイユは夜の作戦の準備に取り掛かった。
*
深夜の王都南区。
運河沿いに立ち並ぶレンガ造りの倉庫群は、濃い霧に包まれ、不気味な静寂に沈んでいた。
ミレイユは第十二倉庫の裏手、街灯の光が届かない深い暗がりに幌馬車を停め、御者席でじっと息を潜めていた。
時刻は夜半過ぎ。ガロアとの約束の時間だ。
遠くで、運河の水を割る小さな波の音が聞こえる。
(……遅いな)
ミレイユが懐中時計を確認しようと手を動かした、その時だった。
「随分と待ちわびているようだが、あんたの客はまだ来ないぜ、夜逃げ屋」
霧の向こうから、低く落ち着いた男の声が響いた。
ミレイユの背筋に、氷を当てられたような緊張が走る。
音もなく霧を切り裂いて現れたのは、ヨレのあるコートを着た大柄な男――王都治安局の追跡官、カインだった。
彼は右手に一枚の書類を持ち、余裕のある足取りでミレイユの馬車の前まで歩み寄ってきた。
「どうして、あんたがここにいる」
ミレイユは手綱を握る手に力を込め、冷たく問うた。
「決まっているだろう。俺も、あんたと同じ『獲物』を待っているからさ」
カインは薄く笑い、手に持っていた書類をミレイユの目の前に突きつけた。
「今回は俺の勝ちだ、ミレイユ」
ミレイユは馬車のランプの光を頼りに、その書類に視線を落とした。
それは、判事が発付し、王都治安局が執行する『逮捕状』と『告発状』の写しだった。対象者の名前には、はっきりと『ガロア』と記されている。
「……どういうことだ」
「あんたの客が言っていた『主人の事業の失敗』というのは、真っ赤な嘘だ。俺は数日前から、南区の香辛料商会の不自然な帳簿の動きを内偵していてね」
カインは書類を指で弾きながら、事実を淡々と並べ立てた。
「ガロアは筆頭番頭という立場を悪用し、十年以上にわたって商会の売上を少しずつ、だが莫大な額にのぼるまで自分の懐へ横領していた。帳簿の偽装は巧妙だったが、数日前にとうとう主人に発覚した。主人は激怒し、全額の賠償と治安局への告発を通達した」
「……」
「つまり、ガロアが逃げたがっていた本当の理由は、理不尽な借金の押し付けでも、家籍の強制的な移送でもない。自分自身の犯罪の露見と、正当な賠償責任から逃れるためだ。あいつが持っているという『貯え』は、すべて店から盗んだ金だよ」
ミレイユは無言でカインの目を見返した。
エマに裏付けを頼んではいたが、時間が足りなかった。このまま逃がさないと決めて来てはいたが、自分の確認だけでは、断る根拠も揃えられていなかった。ヴォスの市場構造という巨大な敵に気を取られるあまり、目の前の個別の依頼人に対する『事前調査の甘さ』が露呈した形だ。
「あんたの夜逃げ屋は、金さえもらえれば、被害者から金を盗んで逃げるような犯罪者でも喜んで逃がすのか?」
カインの挑発的な言葉。だが、その底には『お前はそんな真似はしないはずだ』という、奇妙な信頼のようなものが微かに混じっていた。
ミレイユが答えようとした時、路地の奥から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「はぁっ、はぁっ……! す、すまない、遅くなった!」
巨大な革鞄を二つも引きずりながら、ガロアが霧の中から姿を現した。彼はミレイユの馬車を見て安堵の表情を浮かべたが、そのすぐ横に立っているコートの男――治安官のカインの姿に気づき、悲鳴のように息を呑んだ。
「ち、治安局……!? なぜ、こんなところに……!」
ガロアはパニックを起こし、革鞄を放り出して後退りした。
ミレイユは御者席から見下ろし、氷のように冷たい声で告げた。
「この依頼は受けない、ガロア」
「な、なんだと!? 金なら払うと言っているだろう! 早く私を乗せろ!」
「金の話じゃない。うちの原則の話だ」
ミレイユは冷酷に言い放った。
「本人の意思による脱出は助ける。だが、自分の犯罪責任や正当な賠償から逃れるための依頼は、絶対にお断りだ。うちはただの夜逃げ屋であって、犯罪者の隠避屋じゃない」
「ふ、ふざけるな! なら私はどうなる! あんな店、私が三十年支えてやったからこそ……!」
ガロアが逆上してミレイユに向かって突進しようとした瞬間、カインが横から鋭く踏み込んだ。
カインの手がガロアの腕を捉え、一切の無駄のない動きで捻り上げ、冷たいレンガの壁に押さえつける。
「ぐああっ!」
「横領の疑いで逮捕する。言い分は署で聞く。いまは手を動かすな」
カインは手慣れた動作でガロアの手に金属製の拘束具を嵌め、制圧した。ガロアは無様に泣き喚きながら、足掻くのをやめた。
深い霧の立ち込める運河沿い。
カインに捕らえられたガロアが、遠くの応援の治安官に引き渡されるのを、ミレイユは御者席から静かに見届けていた。
カインがゆっくりと馬車の方へ戻ってくる。
「……これで、あんたの仕事はなくなったな」
ミレイユは深く息を吐き出し、自嘲するように笑った。
「ああ。私の事前調査の甘さだ。今回は、あんたの勝ちだ、追跡官」
言い訳はしなかった。事情が確かめられるまで運ばないつもりではいた。だが、相手が盗んだ金を持って来るなら、待合せの場所そのものも変えるべきだった。
ミレイユが素直に敗北を認めたことに、カインは少しだけ意外そうな顔をした。
「……負け惜しみの一つも言わないのか」
「事実だからな。だが、勘違いするな。次も同じように尻尾を掴ませるつもりはない」
ミレイユは手綱を握り直し、カインを見下ろした。
「あんたの『記録の矛盾から真実を抽出する力』は、素直に評価するよ。今回は助かった」
カインはコートのポケットに両手を突っ込み、短く鼻を鳴らした。
「俺は、俺の仕事をしただけだ。それに……あんたが、犯罪者まで金で逃がすような浅ましい人間じゃないと、再確認できたからな」
その言葉には、リゼットの件で見せたような皮肉は混じっていなかった。
法と記録を守る男。法を破り、記録から人を消す女。
絶対に相容れないはずの二人の間に、敵対したままの奇妙な信頼が、確かな重さを持って根付き始めていた。
「行くぞ。今夜の稼ぎはゼロだ」
ミレイユが馬に合図を送ると、馬車は静かに霧の中へと滑り出していった。
カインはその轍の音が聞こえなくなるまで、暗い運河沿いの路地に立ち尽くしていた。




