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今夜、あなたを逃がします。~虐げられた人を救う夜逃げ屋と、追うはずだった堅物追跡官~  作者: 他力本願寺


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第14話 安全家屋が割れる

夕暮れの王都下町。家々の煙突から立ち上る煙が、どんよりとした曇り空に溶け込んでいく。


 月無し運送の会計係であるエマの『救済基金』によって借り上げられた安全家屋では、穏やかな時間が流れていた。


「ミナ、窓の鍵はしっかり閉めた? 少し冷えてきたからね」


「うん、閉めたよ! お母さん、今日のご飯なに?」


 管理人のマヤが台所で鍋を火にかけながら、娘のミナに微笑みかける。


 この家には現在、マヤ親子の他に、過酷な労働環境から逃げ出してきた二人の若い女性が身を寄せている。公的な身分証明がない彼女たちは、外の世界ではまだ堂々と生きられない。だが、この小さな家屋の中だけは、主人の怒声も暴力の気配もない、確かな安全圏だった。


 マヤがスープの味見をしようとした、その時だ。


 裏口の扉が、音もなく開いた。


 ビクリと肩をすくませたマヤの前に姿を現したのは、黒い外套を羽織ったミレイユだった。


「ミレイユさん……驚かせないでくださいよ。表から入ってくればいいのに」


 マヤが安堵の息を吐いたのも束の間、ミレイユの表情が氷のように強張っていることに気づいた。


「火を消せ、マヤ」


 ミレイユの低く鋭い声に、室内の空気が一瞬で凍りついた。


「荷物をまとめろ。生活必需品と、三つの私物だけだ。他のものはすべて置いていく」


「えっ……? どういうことですか?」


「ここが割れた」


 ミレイユは窓の隙間から、大通りの方角を顎でしゃくった。


「マレク・ヴォスの私兵だ。三人一組で、この区画の出口を塞ぐように動いている。まだこの家屋自体を特定したわけじゃないようだが、匂いを嗅ぎつけられているのは間違いない」


「ヴォス……!」


 マヤの顔から血の気が引いた。先日、彼女の元主人が家籍を売り払おうとしていた、あの悪辣な移送仲介業者だ。


「どうして、ここが……」


「理由は後だ。今は動け」


 ミレイユの指示は的確で、一切の無駄がなかった。


 彼女は隠れていた若い女性たちを呼び寄せると、事前に用意していた逃走用の分厚い外套を被せ、ミナを自分の腕に抱き上げた。


「いいか。表通りには絶対に出るな。裏の廃材置き場を抜けて、第五運河に出ろ。そこにラウルが荷車を用意して待っている。私は別ルートで追手たちの注意を引く」


「ミレイユさんは、どうするんですか!?」


「心配するな。暴力に付き合う気はない」


 ミレイユはミナをマヤへ渡し、二人が一緒に裏口を出たのを確かめた。他の滞在者がその後に続く。


 その直後、表の通りから、複数の重い足音が近づいてくるのが聞こえた。


「……この長屋のどこかだ。しらみ潰しに探せ」


 男たちの低い声。


 ミレイユは室内のランプをすべて吹き消し、暗闇の中で息を潜めた。


 扉のノブが、ガチャガチャと乱暴に回される。鍵がかかっていることを確認した男が、舌打ちをして力任せに扉を蹴破った。


「おい、誰もいねえぞ!」


「鍋が温かい。ついさっきまでいたはずだ、周辺を探せ!」


 男たちが怒鳴り合いながら裏口の方へ向かおうとした瞬間、ミレイユは窓枠を蹴って表通りへ飛び出し、意図的に大きな着地音を立てた。


「あっちだ! 女が逃げたぞ!」


 男たちの注意がミレイユに向く。


 ミレイユは迷路のような下町の路地を熟知していた。追いすがる私兵たちの足音を聞きながら、狭い路地を縫い、時には積み上げられた木箱を崩して障害物にし、闇の中を駆け抜ける。


 戦闘はしない。ただ、相手の動線を狂わせ、時間を稼ぐだけだ。


 十五分後。私兵たちが道を見失い、苛立ちの声を上げるのを遠くに聞きながら、ミレイユは旧市街の暗渠へと身を隠した。


(……間一髪だったな)


 ミレイユは荒い息を整えながら、暗闇の中で目を細めた。


 だが、安堵よりも先に、冷たい疑問が彼女の頭を支配していた。


 なぜ、あの安全家屋の場所がヴォスにバレたのか。


 この部屋は、営業実績のある宿主と月無し運送が契約し、マヤが管理を引き継いだ場所だった。近隣には短期の下宿と説明している。保護の審理で住所変更も届けたが、業者へ所在を知らせた覚えはない。


「……情報が、漏れている」


 ミレイユの呟きは、暗渠の水音に吸い込まれた。


   *


 深夜。


 旧市街からさらに離れた、地下の貯蔵庫を改装した別の隠れ家。


 合流したマヤたちは、毛布にくるまりながら不安な夜を過ごしていた。そこへミレイユとエマ、そして荷車の手配をしたラウルが揃って顔を出した。


「ここまで追手は見えなかった。交代で外を確かめる。まず、よく全員を運んでくれた」


 ミレイユの言葉に、マヤは安堵の涙を浮かべた。


 だが、その場の空気はどこか重苦しかった。


「……ミレイユさん」


 ラウルが、重い口を開いた。


「どうして、あそこがヴォスにバレたんですか。俺たち元依頼人と、あんたとエマさんしか知らない場所だったのに」


 ラウルの言葉に、マヤや若い女性たちがビクッと肩を震わせ、互いの顔を見合わせた。


 無理もない。極秘の隠れ家がバレたということは、仲間の中に情報を売った『裏切り者』がいるのではないか。そう考えるのが自然だからだ。


 疑心暗鬼が、冷たい水のように部屋の空気を満たしていく。


「……やめろ」


 ミレイユは鋭い声で、その空気を一刀両断した。


「まだ出所は分からない。分からないことを理由に、隣の人を責めるな。誰が何を知っているか、順に調べる」


「でも、じゃあどうして……!」


「理由は私が探る」


 ミレイユは踵を返し、出口の扉へ向かった。


「ミレイユさん! 私も手伝います。帳簿から怪しい金の流れを……」


 エマが立ち上がりかけたが、ミレイユは片手でそれを制した。


「お前はここに残って、マヤたちの生活を整えてやれ。外の危険は、お前たちが首を突っ込む領域じゃない」


「そんな、ミレイユさん一人に背負わせるわけには……」


「私に任せろと言っているんだ」


 ミレイユの声は、有無を言わさぬほど強硬だった。


 荷運びや帳簿の整理は人に任せられても、組織の根幹に関わる危険や、核心の判断だけは決して他人に渡そうとしない。


 十年前、セラに助けられて家を出た夜、助けた側の彼女だけが捕まった。その夜から、他人に自分の運命を委ねることを極端に恐れる、ミレイユの根深い性質だった。


「……行ってくる」


 ミレイユはエマの心配そうな視線を振り切り、一人で重い扉を閉めた。


   *


 雨が再び降り始めた王都の裏通り。


 ミレイユは、違法な賭場が立ち並ぶ歓楽街の裏路地にある、煙草の煙が充満した酒場の奥の席に座っていた。


 向かいに座っているのは、王都の裏社会に顔が利く情報屋の男だ。


「……マレク・ヴォスが、どうやってあの長屋の場所を嗅ぎつけたか、だと?」


 情報屋はミレイユが差し出した銀貨の束を懐にしまい込みながら、ニヤリと笑った。


「あんたのところの身内が口を滑らせたわけじゃないぜ。ヴォスの野郎、最近やけに羽振りが良くてな。役所の内部情報を買うのに、惜しげもなく金をばら撒いてるって噂だ」


「役所の内部情報?」


 ミレイユは身を乗り出した。


「ああ。家籍局の奥深くにある、お堅い台帳の写しだよ」


 情報屋は声を潜め、テーブル越しに顔を近づけた。


「あんた、数週間前に西区の豪商のところから、女と子供を逃がそうとしただろ。その時、治安局の追跡官がしゃしゃり出てきて、『保護留保』ってのをかけやがった」


 ミレイユの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。


 以前、マヤを救うため、ミレイユは自分の見聞きした拘束の様子を証言し、署名した。それを根拠にカインが入門を求め、共に地下へ下りた。傷と拘束を確認したカインが七十二時間の保護留保を発動したため、マヤは業者へ引き渡されずに済んだ。


「それが、どうした」


「治安官が保護留保をかければ、その対象者の身柄は一時的に公的な保護下に入る。だが、治安局も暇じゃない。一時的な保護先として、身元のしっかりした保証人のもとへ預けるのが通例だ」


 情報屋は酒杯を傾けた。


「その際、対象者がどこに保護されているか、保証人は誰かという記録は、治安局から家籍局の『内部台帳』へ引き継がれる。正規の手続きだからな。……ヴォスの組織は、その家籍局の内部閲覧経路に金を突っ込んで、記録を覗き見したんだよ」


 ミレイユの頭の中で、すべての点と点が恐ろしい形に結びついた。


 カインがマヤを助けるために、正規の手順に則って書いた保護記録。


 そこには、マヤの一時保護先であるあの安全家屋の住所と、保証人として月無し運送の名前がはっきりと記載されていたはずだ。


 仲間が居場所を売ったと考える前に、確認すべき経路があった。


 記録を悪用できる閲覧経路が、漏洩元なのかもしれない。情報屋の話だけでは、まだ断定できなかった。


 酒場を出たミレイユは、雨の降る路地裏で足を止めた。


 外套のフードから滴る雨水が、冷たく頬を伝っていく。


 マヤの縄を解いた後も、カインは保護の記録を残すことを譲らなかった。彼は、手続と記録こそが弱者を不当な暴力から守る盾だと信じて疑っていなかった。


 だからこそ彼は、マヤを守るために正規の保護記録を残した。


 だが、結果はどうだ。


 彼が法に従って正しく残したその記録こそが、制度の腐敗した内部経路を通り、ヴォスという悪意の手へと渡った。結果として、マヤの居場所は筒抜けになり、安全家屋は失われ、仲間たちは再び恐怖に晒されることになったのだ。


「……皮肉な話だな、追跡官」


 ミレイユは虚空に向かって低く呟いた。


 手続が人を守るというカインの信念は、この国が抱える『家籍離脱令』という制度の腐敗の前では、致命的な欠陥を抱えていた。


 記録が人を消すのではない。


 記録が、人を縛り、売り飛ばすための『商品札』になっているのだ。


「私が……一人で決着をつける」


 ミレイユは雨の中で強く拳を握りしめ、誰にも頼らない冷たい瞳で王都の暗闇を見据えた。


 仲間に危険を及ぼした情報漏洩の経路。そして、合法の皮を被ったマレク・ヴォス。


 彼女は自分一人で、そのすべてを破壊する覚悟を決めていた。

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