第15話 敵との情報交換
雨上がりの王都。冷えた空気が、石畳に溜まった水たまりの表面を微かに揺らしている。
深夜の王都治安局の裏手は、表の物々しい警備とは打って変わり、人気のない静寂に包まれていた。
建物の陰に深く身を沈め、ミレイユはただじっと、裏口の重い鉄扉が開くのを待っていた。
仲間たちには「自分が探る」とだけ言い残し、単独でここへ来た。マヤたちの命運を握る情報漏洩の核心を、これ以上仲間に背負わせるわけにはいかない。危険と判断は、自分一人でコントロールする。それがミレイユの長年の生存戦略だった。
やがて、鉄扉が軋む音を立てて開き、一人の大柄な男が姿を現した。
ヨレのあるコートの襟を立て、ポケットに両手を突っ込んだまま歩き出す男。逃亡者追跡官、カイン。
ミレイユは足音を殺し、彼が治安局の敷地から離れて細い路地へ入るのを見計らってから、その背中へ向かって低い声を投げた。
「……あんたが残してくれた立派な『記録』のせいで、うちの安全家屋が一つ潰れたよ」
カインの足が、ピタリと止まった。
彼は振り返ることなく、首だけをわずかに巡らせて暗がりに立つミレイユを視界の端に捉えた。
「夜逃げ屋が、わざわざ治安局の裏口まで足を運んでくるとはな。自分の首を差し出しに来たのか?」
「馬鹿を言え。そんな暇はない」
ミレイユは建物の壁から離れ、カインから一定の距離を保ったまま向かい合った。
「単刀直入に言う。先日、あんたがマヤという女に『保護留保』をかけた際、治安局の内部台帳に一時保護先の住所と保証人の名前を記録したな」
「……ああ。正規の手順だ。対象者の身柄を法的に保護する以上、どこで誰が預かっているのかを明確にしなければ、それはただの誘拐と同じになるからな」
「その立派な正規の記録が、そっくりそのままマレク・ヴォスの手に渡ったんだよ」
カインの鋭い眼光が、微かに揺らいだ。
「どういうことだ」
「ヴォスの組織が、家籍局の内部台帳を覗き見しているんだ。あんたがマヤを守るために残した保護先――つまりうちの安全家屋の住所が、家籍局への引継ぎ記録から漏れた。今日の夕方、ヴォスの私兵どもが長屋の周囲を嗅ぎ回っていた。間一髪で逃がしたが、あの家屋はもう使えない」
ミレイユの言葉に、カインは眉間を深く刻み、懐から手帳を取り出した。
「……俺が残した保護記録が、ヴォスに漏れただと? だが、治安局の台帳は厳重に管理されている。民間人が金を積んだ程度で閲覧できるものじゃない」
「治安局から漏れたとは言っていない。あんたも気づいているはずだ。治安局の記録は、対象者の家籍を管轄する『家籍局』の支局へ必ず引き継がれる。……腐っているのは、家籍局の内部だ」
カインは手帳のページをめくり、ある一行を見つめた。
マヤの保護留保を発動した後、彼が書類を回した先。
「……家籍局、南区支局」
「ビンゴだ」
ミレイユは短く応じた。
「情報屋が、ヴォスは南区支局の内部資料を買っていると言った。それだけなら噂だ。だが、あんたが送った先と重なるなら、閲覧の控えを確かめる価値はあるだろう」
二人は、全く異なるアプローチ――情報屋からのタレコミと帳簿の分析、そして公的な手続きの引継ぎ記録から、同じ『家籍局南区支局』という腐敗の温床に行き着いていた。
路地裏に、重い沈黙が落ちた。
カインは手帳をゆっくりと閉じ、コートのポケットにしまった。
「可能性はある。まだ言い切れないが、閲覧者と中央へ送った写しを調べる」
「ああ。あんたが『人を守る』と信じて書いたその紙切れが、今度はヴォスが届出を盾に人を狩り立て、売り飛ばすための名簿として機能している。これが現実だ」
ミレイユの声には、冷ややかな怒りが混じっていた。
「お前たち役人は、何かにつけて記録を残したがる。だが、その記録こそが人を家籍に縛り付け、逃げ場をなくし、最後には金に換えるための道具になるんだ。記録なんてものは、力を持つ側が弱い人間を管理するための鎖でしかない」
「極論を言うな」
カインが鋭く反論した。
「記録がなければ、人はどうなる? 法の手続きという後ろ盾がなければ、弱い人間は、誰にも気づかれないまま静かに闇に消されるだけだ。現に、あの夜俺が保護留保の記録を残さなければ、あの女は翌朝にはヴォスの手で、届出を盾に北の鉱山へ送られていた。……記録が人を守ることも、確かな事実だ」
「その結果がこれか? 結局、同じことの繰り返しじゃないか」
「制度の運用に腐敗が混じっていることと、制度そのものの必要性は別問題だ」
二人の視線が、暗がりの中で激しく火花を散らした。
カインは「人が記録から消されること」を心の底から憎んでいる。だからこそ、どんなに面倒でも正規の記録を残すことに固執する。
一方のミレイユは、「記録が人を縛り、追い詰めること」の恐ろしさを身を以て知っている。だからこそ、記録を偽装し、人を外へ逃がすことに命を懸ける。
ミレイユは、なぜこの男が記録を残すことにそこまでこだわるのか、まだ知らなかった。自分が十八歳の夜に受け取ったものも、話すつもりはなかった。互いに、相手の結論だけへ腹を立てていた。
「……まあいい」
先に口を開いたのは、ミレイユだった。
「あんたの思想を変えに来たわけじゃない。あんたはあんたの信じる正義をやればいいさ。だが、現実問題として、ヴォスが家籍局の内部経路を使っている以上、私がいくら人を逃がしても、追いつかれるのは時間の問題だ」
ミレイユは壁から背を離し、カインへ一歩近づいた。
「取引といこう。こっちも、あんたみたいな堅物と手を組む気はない。だが、マレク・ヴォスの資金源と、家籍局内部の繋がりを絶つまでは……互いの足は引っ張らないでおこうじゃないか」
それは、夜逃げ屋からの明確な一時休戦の申し出だった。
カインはミレイユの暗い瞳を見つめ返し、やがて短く息を吐いた。
「……俺が法に従って正しく残した保護記録が、ヴォスの漏洩経路に使われ、お前が匿っていた人間を危険に晒した可能性は、認める」
カインは、自分の行動が招いた結果から決して目を逸らさない男だった。
「俺の残した記録が悪用されたのなら、俺の責任でその穴を塞ぐ。南区支局の内部に巣食うネズミは、俺が必ず炙り出す」
カインはミレイユの提案に対する直接の返答を避けながらも、事実上の共闘を受け入れる言葉を口にした。
「だが、勘違いするなよ、夜逃げ屋。俺はお前たちの違法な逃亡幇助を免責したわけじゃない。ヴォスを潰せば、次はお前たちの番だ」
「上等だ。だが、今度はどの紙が誰に渡るかまで見てくれ」
ミレイユはフッと口角を上げ、そのまま踵を返した。
「待て」
背中を向けたミレイユに、カインが声をかけた。
「……一つだけ聞いておく。安全家屋を追われた女と子供は、無事なのか」
その問いには、追跡官としての冷徹さではなく、一人の人間としての純粋な気遣いが滲んでいた。
ミレイユは振り返らずに、ただ短く答えた。
「ああ。うちの仲間が、しっかりと守っている。あんたの心配はいらない」
「……そうか」
ミレイユが再び歩き出すと、カインはそれ以上彼女を止めることはなかった。
雨に濡れた石畳に、ミレイユの足音が遠ざかっていく。
カインは、保護記録の写しを送った部署を手帳へ書き出した。安全家屋の新しい住所は、今は尋ねなかった。まずは、自分が渡した古い住所の行方を確かめる。
敵対関係は変わらない。価値観の溝も埋まってはいない。
だが、ほんの少しの限定的な情報交換が、互いの間にある不透明な壁を打ち崩し、奇妙な信頼の糸を紡ぎ始めていた。
記録で人を守る男と、記録から人を逃がす女。
二人は別々の道を歩みながら、同じ家籍局の腐敗という巨大な標的を見据え、王都の深い闇の中へと消えていった。




