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今夜、あなたを逃がします。~虐げられた人を救う夜逃げ屋と、追うはずだった堅物追跡官~  作者: 他力本願寺


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第16話 六人分の夜逃げ

王都の東区に位置する巨大な洗濯工房は、常に強い石鹸の匂いと、布を打つ鈍い音に満ちている。


 この工房の裏手にある細い路地で、ミレイユは古着の回収業者に偽装した粗末な外套を羽織り、六人の若い女性たちと向き合っていた。


「いいか。お前たちの代表であるアンナから話は聞いたが、私は本人の言葉しか信じない」


 ミレイユは、不安げに身を寄せ合う六人の目の中に、順番に視線を這わせた。


「親の借金の肩代わりや、食事代の前借りという名目で架空の債務を背負わされ、給料の出ない過酷な労働を強いられているそうだな。だが、家長の許可なく家籍を離れれば、お前たちは法的には無断離籍の犯罪者だ。見つかれば捕まり、今より酷い環境に売られる可能性もある。それでも行くか?」


 六人の女性たちは、互いの顔を見合わせた。長年の水仕事でひび割れた手、碌な食事を与えられず痩せ細った体。だが、その瞳の中には、もう限界だという強い切実さがあった。


「……行きます」


 最初に口を開いたのは、最年長のアンナだった。


「このままここで働き続けても、いつか体を壊して捨てられるだけです。借金なんて、最初から私たちが背負うべきものじゃなかった。……私たちは、私たちの人生を取り戻したいんです」


「私も行きます」


「私も、お願いします……!」


 次々と上がる六人の決意の声に、ミレイユは小さく頷いた。


「明日の夜、迎えに来る。その前に一人ずつ話す。ほかの五人が行っても、自分はやめると言っていい」


 裏の物干し場を借り、ミレイユは六人を一人ずつ呼んだ。アンナの隣にいたベラは、妹への仕送りが止まることを心配していた。ミレイユはそれを隠さず、当面できる支援とできないことを説明した。全員が一度目の希望を伝え終わるまで、予定より長くかかった。


 ミレイユは彼女たちに、荷造りの決まりである「荷物は三つまで」という条件を短く伝えると、路地裏の闇に紛れてその場を後にした。


 月無し運送の事務所に戻ったミレイユは、長机の上に王都の地図を広げ、深く息を吐き出した。


「六人、か……」


 これまでは、一度に逃がすのはせいぜい一人か二人だった。一人なら、馬車の座席の下や木箱の中に隠すなど、隙間を使ってどうにでもなる。


 しかし、成人女性六人を同時に運び出すとなれば話は違う。小さな車では重量にも広さにも余裕がない。息のできる場所を六人分作り、途中で具合が悪くなった時に全員を下ろせる道も必要だった。


 ミレイユが一人で腕を組んで思案していると、奥の部屋からエマが顔を出した。


「お帰りなさい、ミレイユさん。大口の依頼ですか?」


「ああ。洗濯工房の女たち六人だ。明日、一斉に離籍させたい」


 エマは目を丸くしたが、すぐに表情を引き締め、手元の帳簿を引き寄せた。


「六人分の当面の生活費と、滞在場所ですね。すぐに計算します」


「頼む。だが、それだけじゃない」


 ミレイユは地図の上の東区を指で叩いた。


「六人を一度に隠して運べるだけの大型の馬車と、人を押しつぶさず、息のできる仕切りがいる。それに、あの工房の裏口には、王都でも一番頑丈な南区産の南京錠が掛かっている。私が持っている道具では、音を立てずに素早く開けるのは不可能だ」


 ミレイユは自分の弱点をよく理解している。彼女は段取りの天才だが、戦闘員でもなければ万能の魔法使いでもない。壁を前にすれば、手詰まりになることもある。


「それなら、適任がいますよ」


 事務所の扉が開き、油の匂いを漂わせた若い男が入ってきた。かつて月無し運送を通じて悪辣な親方から逃げ出し、今は別の工房で正当な職人として腕を振るっているラウルだ。


「ミレイユさん、ちょうど顔を出そうと思ってたんです。……で、どうやら俺の腕が必要みたいですね」


 ラウルはニッと笑い、持っていた工具箱を床に置いた。


「俺が逃げた時、あんたは『失敗した依頼も、逃がした後の依頼人も見捨てない』って言ってくれた。今度は俺たちが、あんたの背中を押す番だ」


「ラウル……」


「大型の幌馬車なら、二日借りられます。二重底と言っても、六人も寝かせる深さはありません。積荷の中央に通気する仕切りを作って、座れるようにしましょう。下見と試乗は必要です。それと、南京錠の型は?」


 ラウルは工具箱から、自作の真鍮の測定具を取り出して見せた。工房を出る朝、彼が三つの私物として選んだ品の一つだ。


「明日の昼、回収業者に混じって寸法を測ります。同じ型の錠を工房で試して、使える開錠具を準備する。無理なら、他の戸を探してください。この測定具は、鍵にはなりませんよ」


 ラウルの頼もしい言葉に、ミレイユは僅かに目元を和らげた。


「……そこまで言うなら、お前の腕をアテにさせてもらおう」


「資金の裏付けは私に任せてください」


 エマが帳簿から顔を上げ、力強く言った。


「六人が逃げた後、一時的な安全家屋に押し込めておくだけでは、すぐに資金がショートします。ですが、彼女たちは長年厳しい環境で鍛えられた『熟練の洗濯職人』です。その技術を生かさない手はありません」


 エマの指先が、地図の片隅を叩いた。


「下町のはずれに、井戸付きの小さな空き倉庫があります。救済基金の資金を使ってそこを借り上げ、彼女たちが自立して仕事を受けられる『共同工房』にする手筈を整えます。許可が出るまでは、うちの運送事業が受ける洗濯物の下請けとして始める案です。離籍の手続きまで、それで済むわけではありません」


 ミレイユは、目の前にいる二人の若者を見つめた。


 ただ怯え、助けを求めてきたかつての依頼人たち。彼らは今、逃がされたことで取り戻した自分たちの能力――実務の才能や職人の技術をフルに使い、次の誰かを外へ出すための『戦力』として機能し始めている。


「上等だ」


 ミレイユの暗い瞳に、確かな熱が宿った。


「マヤに伝えてくれ。明日の夜、六人分の腹を空かせた客が来る。とびきり温かいスープと、毛布を用意して待っていろ、とな」


「はいっ!」


   *


 翌日の深夜。


 王都を薄い霧が包み込む中、洗濯工房の裏通りに、一台の巨大な幌馬車が音もなく滑り込んできた。


 御者席にはミレイユ。その後ろの荷台には、ラウルが息を殺して控えている。


 馬車は、いつも洗濯物を引き取る時と同じ位置へ止めた。借り受けた車には修繕の記録もあり、六人が乗る重さを含めて試走を済ませてある。


 ラウルが裏戸の錠に開錠具を入れた。昼に調べた型だったが、最後の一枚が動かない。額から汗が落ちる。ミレイユは急げと言いかけ、御者席で口を閉じた。


 二度やり直した後、錠が外れた。短い金属音を、ラウルの掌が包む。


 扉が開き、暗がりの中で身を寄せ合っていたアンナたち六人が姿を現した。


「一人ずつ来て。返事を変えた者はいないね?」


 ミレイユは荷台へ上がる前に、一人ずつの返事を聞いた。最後のベラには、皆から離れた場所でもう一度確かめた。


 ミレイユの合図で、ラウルが馬車の荷台の仕切りの戸を開いた。


 六人の女性たちは、生活必需品を詰めた袋とは別に、それぞれが選び抜いた『三つの私物』だけを胸に抱いていた。


 ある者は母から譲り受けた手鏡を。ある者は恋人からもらった銀の指輪を。ある者は、自分が最初に縫い上げた小さな刺繍布を。


 彼女たち一人一人の人生の重みが、その三つの荷物に凝縮されている。


「さあ、乗って」


 ラウルの誘導で、六人が順番に仕切りの内側へと潜り込む。全員が収まったのを確認し、ラウルは仕切りの戸を閉め、外側に空の洗濯籠を固定した。人の上には重い物を置かず、両側に通気口を残す。


「準備完了です、ミレイユさん」


 ラウルが御者席に飛び乗り、小声で告げる。


「よし。しっかり掴まっていろ」


 ミレイユが手綱を引くと、大型馬車は再び霧の中へと滑り出した。


 道中、巡回兵が荷台へランプを向けた。ミレイユは本物の回収票を渡す。重い濡れ布を下ろした後の帰り荷として、別の店へ届ける洗濯物が表に積んである。


 今夜に限って奥まで検められれば、隠しきれない。ミレイユは開ける紐に手を添えたまま、待った。


 巡回兵は表の荷札を回収票と照らし、通行を認めた。


 角を曲がってから、仕切りを二度叩く音がした。ミレイユは予定していた空地に寄り、戸を開けた。ベラが肩で息をしている。閉じた場所が怖くなったのだという。


「少し休もう。あとの時間は組み直す」


 全員に水を回してから、再び車を出した。


 下町のはずれにある安全家屋に到着した時、扉の前には管理人のマヤが待ち構えていた。


 荷台の仕切りから這い出してきた六人は、初めて吸う自由な空気と、緊張の糸が切れた安堵で、その場にへたり込んだ。


「よく頑張りましたね。さあ、中へ入って。温かいスープができていますよ」


 マヤが優しく微笑みかけ、六人を暖かな室内へと招き入れる。


 部屋の奥には、エマが候補にしている共同工房の図面と、当面の生活費が置かれていた。


「……夢みたいだ」


 アンナが、温かいスープの入った木碗を両手で包み込みながら、涙をこぼした。


「私たち、本当にあの場所から出られたんですね」


「ああ。だが、本当の自由はこれからだ」


 ミレイユは壁際にもたれかかり、静かに告げた。


「明日は寝ていていい。仕事の話は、その後に聞いて、自分で選べ」


 六人の女性たちは、涙を流しながら深く頷いた。


   *


 翌朝。


 王都東区の洗濯工房は、パニックに陥っていた。


「どういうことだ! 六人だぞ、六人も一度に消えるわけがないだろう!」


 工房の主人が、空っぽになった従業員部屋で怒り狂って叫んでいた。今日納品しなければならない貴族のシーツやドレスが山のように積まれているが、それを洗う熟練の職人たちが一人残らず消え失せてしまったのだ。


 機能停止に陥った工房に、一人の男が足を踏み入れた。


 漆黒のフロックコートに、銀の徽章をつけた男。公認家籍移送仲介人のマレク・ヴォスである。


「おやおや。どうやら、随分と派手な逃亡劇があったようですね」


 ヴォスは怒鳴り散らす主人を無視し、工房の裏口へと向かった。


 そこには、外された南京錠が転がっていた。


 ヴォスはしゃがみ込み、その南京錠の鍵穴をじっと観察した。


「錠を壊していない。鍵を用意したか、錠前の分かる者が加わったか」


 ヴォスは立ち上がり、微かに残る馬車の轍の跡を見つめた。


 一人や二人なら、コソコソと逃げ出すこともできるだろう。だが、六人の人間を同時に、しかも警備の目を誤魔化して運び出すには、高度な物流の知識と、特殊な機材、そして何より『計算された連携』が必要不可欠だ。


「なるほど」


 ヴォスの薄い唇が、三日月のように歪んだ。


「ただの単独の運び屋かと思っていましたが、どうやら認識を改める必要がありそうだ。……あの夜逃げ屋の女、専門の技術を持つ人間を集めて『組織化』し始めている」


「面白くなってきましたね。法外のネズミどもが、どこまで私の市場を食い荒らせるか」


 ヴォスは主人に六人の家籍番号を書き出させた。紙を畳み、コートの内側へしまってから、工房を後にした。

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