第6話 逃げた後にも住所がいる
「検問だ。荷台の幌を開けろ」
マヤの救出から二日後、白昼の王都レグナ。西区から南区へ抜ける区画門で、気怠げな治安官が槍を片手に歩み寄ってきた。
御者席に座るミレイユは、つばの広い帽子をわずかに持ち上げ、愛想の良い笑みを浮かべた。
「お疲れ様です。南区の仕立て屋に卸す反物ですよ。ほら、この通り」
ミレイユが幌の紐を解くと、荷台には色とりどりの絹や綿の反物が山のように積まれていた。治安官は荷台の隙間を適当に槍の柄で突いたが、布が鈍い音を立てるだけで、怪しいものは何も出てこない。
「よし、通っていいぞ」
「ありがとうございます。良い一日を」
ミレイユは手綱を軽く弾き、荷車をゆっくりと前進させた。
門を抜け、人通りの少ない裏路地に入ったところで、ミレイユは荷台に向かって低く声をかけた。
「……もう顔を出していい。苦しくなかったか」
その声に応じるように、反物の山の一部がモゾモゾと動き、中から一人の若い男が顔を出した。
彼は王都の悪質な織物工房で、違法な長時間労働と暴力に耐えかねていた若き職人だった。ミレイユは工房の納品スケジュールを把握し、空になった反物の芯筒を巧妙に組み合わせて、荷台の中に人間一人が横たわれる『空洞』を作り出していたのだ。
「はぁっ、はぁっ……! 門を、抜けたんですか……?」
「ああ。追手はいない。今夜はあの工房へ戻らずに済む」
荷台から這い出した若者は、眩しそうに自由の空を見上げた。その手には、布に包まれた三つの私物がしっかりと抱きしめられている。
自分の手に一番馴染む裁ち鋏。故郷の姉から届いた古い手紙。そして、幼い頃に父親が作ってくれたお守りの木彫り。
彼という人間を証明する、たった三つの荷物。
「やった……! 俺は、俺は自由になったんだ!」
若者は三つの荷物を抱え直した。まだ息は弾んでいたが、もう後ろを見なかった。
ミレイユは彼を、予約していた三日分の寝床へ届けた。宿の主人には、離籍の手続きが済んでいないことも伝えてある。
「食事は朝晩、昼はこの引換券を使え。困ったら店へ来るか、主人に伝言を預ける。次の部屋も探すが、急いで怪しい契約には名前を書くな」
若者は頷いた。ただ、三日後にも誰かの世話になると思うと落ち着かなかった。自分で探してみたい、と言う彼に、ミレイユは下町の大家を二軒紹介した。
だが、その日の夕刻。
ミレイユが手配した若き職人は、下町の安宿が立ち並ぶ路地で、絶望に暮れて立ち尽くしていた。
「だから、ダメだって言ってんだろ! 帰った帰った!」
「お願いします! 金ならあるんです、ひと月分の家賃を先払いしますから!」
「金の問題じゃねえんだよ!」
安下宿の不機嫌そうな大家は、若者の鼻先でピシャリと扉を閉めた。
若者はその場にへたり込んだ。紹介された二軒を含め、これで五軒目だ。三日分の寝床へ帰る道はある。それでも、その後が見えなかった。どこへ行っても、同じ言葉で追い返される。
『離籍証は見せられるか?』
『身元保証人はいるのか?』
家籍離脱令が敷かれたこの国では、公的な『離籍証』を持たない者は、いかなる社会的信用も得られない。部屋や勤め先を見つけようとすると、家長の同意か、審理中であることを証明する書面を求められる。金だけで解決する問題ではなかった。
工房から逃げ出すことには成功した。だが、社会的な記録を持たない彼には、王都の中で生きるための『住所』がなかったのだ。
自由の空は、ただ外へ出るだけで手に入るほど、甘いものではなかった。
*
「……やはり、私名義で部屋を借りるのは無理でした」
月無し運送の事務所の片隅で、ヴァンデル伯爵家の次女であったエマが、小さなため息をついた。
ミレイユが保護した元依頼人たちを一時的に匿うための『隠れ家』。エマも現在、そこに身を寄せている一人だ。彼女は先日、自分の足で自立するために不動産屋を回ったが、身元を証明できない彼女に部屋を貸してくれる真っ当な業者は一つもなかった。
「すまない、エマ。うちの隠れ家はあくまで一時的な避難所だ。長居させるのはお前たちにとっても安全じゃないんだが……」
長机で帳簿とにらめっこをしていたミレイユが、羽ペンを置いて眉間を揉んだ。
「謝らないでください、ミレイユさん。あなたが私をあの家から出してくれただけで、私は十分に救われているんですから」
エマは微かに微笑み、ふとミレイユの手元にある帳簿に視線を落とした。
「……ミレイユさん。失礼ですが、その帳簿、少し拝見してもよろしいですか?」
「ん? ああ、構わないが……数字が合わなくて頭が痛いところだ」
エマは帳簿を引き寄せ、ページをめくった。その瞬間、彼女の目の色が変わった。
幼い頃から計算を手伝い、近年は屋敷の支払いの取りまとめを任されてきた『実務の天才』の顔だった。
「ミレイユさん。これは……ひどすぎます」
「なっ、なんだ。そんなに間違っているか」
「計算間違いではありません。経営構造が破綻しています」
エマは帳簿の項目を指差した。
「あなたは依頼人から適正な報酬を受け取っていますが、その大半を、逃がした後の人々の生活支援や、協力者への口止め料、隠れ家の維持費に注ぎ込んでいる。自分の利益を削って、赤字を補填し続けている状態です」
「……仕事柄、足がつくような公的機関は頼れないからな。一時的な出費は仕方ない」
「一時的ではありません。今日逃がした職人の方もそうですが、身分のない彼らは自力で生活基盤を作れない。結果的に、あなたの隠れ家に滞留し続けることになります。このままでは、月無し運送はいずれ資金ショートを起こして倒産します」
ミレイユは痛いところを突かれ、言葉に詰まった。
彼女は物流の隙間を縫って人を逃がす天才だが、長期的な組織運営の専門家ではない。「逃げた後の人生」まで全てを背負うことは、彼女個人の財力では限界に達しつつあった。
「私に、提案があります」
エマは背筋を伸ばし、明確な意思を持ってミレイユを見た。
「逃げた後の最大の壁は『住所がないこと』です。住所がなければ仕事も得られない。ならば、私たちがその壁を壊せばいい」
「壊す? どうやって」
「『救済基金』を作るのです」
エマは白紙を引き寄せ、さらさらと流麗な文字で仕組みを書き出し始めた。
「まず運送の利益から、生活支援に使う金を分けます。頼める元依頼人には寄付を募る。ただし寄付を見込んで先に使ってはいけません。最初は二部屋、二か月分を確保します」
ミレイユの目が僅かに見開かれた。
「公的な離籍証がなくても、月無し運送が身元保証と資金保証を行う、というわけか」
「住所だけでは離籍証の代わりになりません。保護や離籍の申立ては、別に続けます。その間の短期宿泊として借りられる部屋を探すんです。保証も、積み立てた金額を超えてはしません」
エマのペンが止まらない。
「仕事が見つかれば、払える人から宿代を受け取る。でも、それを借金にして働く場所を縛っては駄目です。赤字は残ります。運送の通常料金と支援の予算を分けて、何人まで受けられるか分かるようにしましょう」
それは、ただ人を外へ逃がすだけの違法な夜逃げ屋から、逃げた後の人生を再建するための『社会機構』への進化だった。
そして何より、エマという女性が持つ圧倒的な実務能力が、初めて彼女自身の意思で、正当な価値として発揮された瞬間だった。
「……すごいな、お前は」
ミレイユは感嘆の息を漏らした。
「伯爵家は、お前のような逸材をただの帳簿付けの道具として扱っていたのか」
「私は……」
エマは少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「私はずっと、家族のために自分の能力を使うのは当たり前だと思っていました。対価を求めることに、罪悪感すらありました。でも、ミレイユさんが私を逃がしてくれた。私が選んだ『書きかけの家計帳』を、肯定してくれた」
エマは真っ直ぐに顔を上げた。
「ミレイユさん。私を、月無し運送の専属会計として雇ってください。私なら、あなたの背負っている荷物を軽くすることができます」
自らの意思で選び取った、新しい居場所。
ミレイユは迷うことなく頷き、エマに向かって右手を差し出した。
「歓迎する、エマ。だが、先に給料と休みを決める。恩返しを仕事の代金にするつもりはない」
エマは書きかけの紙を裏返した。自分の名前を、初めて雇われる側の欄に書いた。
*
数日後。
エマの手によって月無し運送の帳簿は美しく整備され、救済基金の原型が動き始めていた。あの日に逃がした若い職人も、エマが交渉した下町の大家のもとで無事に部屋を借り、知人の紹介で小さな修理屋の手伝いを始めている。
深夜の事務所で、エマは各地の協力者から集まってきた情報を整理していた。
「……ミレイユさん。少し、気になるデータがあります」
ランプの芯を調整していたミレイユが、振り返った。
「どうした?」
「ここ数ヶ月の間に、王都で発生した無断離籍者の情報です。私たちの店を通さず、過酷な環境から自力で逃げ出した奉公人や徒弟たちですが……彼らのほとんどが、数週間以内に元の家籍へ連れ戻されています」
「素人が自力で逃げても、すぐに行き詰まる。珍しい話じゃないだろう」
「ええ。問題はそこではありません。彼らを連れ戻すために発行された合法的な『返還令状』。その債権――つまり、逃げた彼らを捕まえて連れ戻す権利が、元の雇い主から別の業者へと買い取られているケースが多発しているんです」
エマは数枚の書類を机に並べた。
本来、家籍の返還請求は、逃げられた家長や雇い主が個別に行うものだ。しかし、エマが整理したデータには、奇妙な共通点があった。
「バラバラの事件のはずなのに、返還の権利を買い取って、実際に連れ戻しを実行している業者が、一つに集中しています」
エマが指差した書類の束。そのすべての債権者欄に、同じ名前が記されていた。
『公認家籍移送仲介人 マレク・ヴォス』
「マレク・ヴォス……」
ミレイユはその名を舌の上で転がし、僅かに目を細めた。
ミレイユは書類を一枚ずつ繰った。別々の家から出た人々が、同じ業者に連れ戻されている。
「この名前が出てくる紙を、もう少し集められるか」
エマは頷き、空いた帳簿を手元へ引き寄せた。




