第5話 一度失敗した脱出
深夜の冷たい雨は、夜明けが近づくにつれて霧雨へと変わっていた。
下町の路地裏にある月無し運送の事務所では、ランプの暖かな光の下で、六歳になるミナが温かいスープを飲んでいた。その隣で、彼女の肩を優しく撫でているのは、先日この店を通じて伯爵家を出たエマだった。
「エマ。この子を少しの間、頼めるか」
ずぶ濡れの外套を脱ぎ捨て、革のベルトに幾つかの道具を仕込みながらミレイユが言った。
「はい。ミナちゃんのことは任せてください。でも、ミレイユさん……」
エマは不安げに視線をさまよわせた。
「本当に、たった一人で戻るおつもりですか? 相手は荒くれ者の私兵を雇っているのでしょう? いくらなんでも危険すぎます」
「時間が無さすぎるんだ。夜明けになれば、役所が開く。マヤの家籍が正式に仲介業者へ譲渡されてしまえば、移送先を特定するだけで何日もかかる」
ミレイユは濡れた前髪を掻き上げた。
普段の彼女のやり方は、徹底した事前準備と、物流の隙間を利用した『隠密の移動』だ。しかし、今回のように屋敷の周囲を包囲され、タイムリミットが数時間後に迫っている状況では、荷車の中に人を隠して運び出すような真似は通用しない。
相手の包囲網を力で突破する戦闘技術も、ミレイユにはない。
「隠して出すのが無理なら、堂々と正面から出すしかない」
「正面から……? でも、無断離籍は犯罪です。どうやってあの家長を納得させるんですか」
「納得などさせない。法の網目を使う。私には公的な権限がないが、その権限を持っている奴を巻き込めばいい」
あの追跡官なら、話だけで門を開けはしない。どこで何を見たか、自分の名で証言することになる。
ミレイユは濡れた袖を絞った。
「エマと待っていてくれ、ミナ。お母さんを迎えに行ってくる」
ミナの頭を一度だけ撫でると、ミレイユは再び雨の降る王都の闇へと飛び出していった。
*
西区にある豪商の屋敷。
表通りでは相変わらず治安局の兵士たちが検問を行っており、裏口付近には私兵たちが目を光らせていた。
ミレイユは表の検問へ歩み寄った。
「責任者を呼んでくれ。この家へ、足を痛めた女が縛られて連れ戻された」
呼ばれて来たのは、ヨレたコートの男だった。カインは門の方を顎で示した。
「私兵の出入りは見ていた。だが、主人は入門を拒んでいる。出入りがあるだけでは、踏み込めない」
「マヤという奉公人だ。縄を打たれて、ここへ連れて来られるのを見た。足を捻っていて、一人ではろくに歩けない」
「怪我も、その時に見たのか」
「足の怪我は、本人から先に聞いた。歩けないのは、私も確かめている」
カインが手帳を開いた。ミレイユは時刻と場所、私兵が通った道を順に話した。地下へ入れるという主人の命令も聞いた。ただし、中へ連れ込まれた後の様子は見ていない。
「夜が明けたら家籍を業者へ譲るとも言っていた。書類は持っていたが、中身までは読めなかった」
「見ていた場所は? 声まで届いたのか」
答えれば、あの路地を出たばかりの自分も調べられる。ミレイユは門を見た。
「運河の対岸。怒鳴り声は聞こえた。全部ではないが、今話した言葉は。必要なら、立っていた場所まで案内する」
「証言者として、名を書けるか。お前がそこへ行った事情は、別に聞く」
「書く。今は、マヤを診てもらってくれ」
カインは若い治安官に証言書を作らせ、彼女へ読み返した。ミレイユは自分が確かめた範囲を直し、末尾に署名した。
その紙を受け取ると、カインは門前へ進んだ。
「負傷した者が縛られて連れ込まれたという、署名のある目撃申告を受けた。違法な拘束の疑いがある。保護留保に必要な本人の状態を確認する。主人を呼び、地下へ案内しろ」
門番は屋敷へ使いを走らせたが、閂には手を掛けなかった。
「主人の返事を待てとのことです」
「怪我人がいる。確認を妨げるなら、誰の指示で、誰が止めたかも記録する」
若い治安官がペンを上げた。門番はその紙を見てから、閂を外した。
ミレイユは証言者として二人に付き添い、案内された地下へ下りた。
冷たい石の床に、後ろ手に縛られたマヤが座り込んでいた。その頬は赤く腫れ上がり、唇の端が切れている。私兵から暴力を受けたのは明らかだった。
「マヤ。ミナは無事だ。エマと待っている」
ミレイユが声を掛けると、マヤは顔を上げた。立とうとして足をかばう。その肩を支え、ミレイユはカインに場所を空けた。
カインはしゃがみ込み、マヤと視線を合わせた。
「答えろ。お前は、自分の意思でこの屋敷から逃げようとしたのか?」
マヤは震えながら、ミレイユとカインの顔を交互に見た。
「……はい。私は、逃げたかった。娘を、守りたかったんです」
「この怪我は、誰にやられた」
「見張りの……男の人たちに」
カインは静かに立ち上がった。その横顔には、冷たい怒りが張り付いていた。
その時、地下牢へ続く階段から、慌ただしい足音がいくつも響いてきた。
「おい、お前ら! 誰の許可を得て私の屋敷の地下に入り込んでいる!」
怒号と共に現れたのは、豪奢なガウンを着た屋敷の主人と、三人の私兵たちだった。主人はカインと、見知らぬ女であるミレイユを見て顔を真っ赤にした。
「治安局の役人風情が、他人の所有物に勝手に手を出していいと思っているのか! その女は無断離籍を図った犯罪者だぞ!」
「犯罪者かどうかを決めるのは、手続と法だ。あんたじゃない」
カインは淡々と言い放った。
「ふん。手続と言うなら、これも法に則った立派な手続だ」
主人は懐から一枚の書類を取り出して見せつけた。それは、マヤの家籍を仲介業者に譲渡するための契約書だった。
「夜が明ければ、すぐに役所にこれを提出する。そうすれば、こいつの後見先は仲介業者が決める。書類が済んでからでは遅いぞ。分かったらさっさと出て行け!」
主人の横暴な言葉に、ミレイユは目を細めた。マヤを仲介業者に引き渡せば、彼女は過酷な労働環境に売られ、二度と日の目を見ることはない。後見先の変更を装った売買だ。家籍の届出は、暴力や売買そのものを許す法律ではない。それでも、被害を訴える前に遠くへ移されれば、証言は届かなくなる。
ミレイユが口を開きかけた時、カインが先に動いた。
彼は懐から治安官の身分証を取り出し、主人の目の前に突きつけた。
「王都治安局、逃亡者追跡官カインの名において通達する。現在、このマヤという女性には、明白な暴力の痕跡と、違法な身体拘束の疑いがある」
若い治安官が、執行の時刻を記すためにペンを構えた。
「よって、現職の治安官の権限に基づき、対象者に『七十二時間の保護留保』を発動する。対象の身柄は直ちに治安局の保護下へ移す」
「なっ……保護留保だと!?」
主人は狼狽して声を上ずらせた。
保護留保。それは、暴行や違法な拘束の疑いがある場合にのみ、現職の治安官が独自の判断で発動できる強力な緊急措置だ。
「待て! 家長の許可なく奉公人を連れ出すことは……!」
「異議は裁判所へ出せる。期限が来る前に、保護の継続を審理する」
カインは私兵たちを一瞥した。
「保護の執行を力ずくで妨げれば、公務妨害として扱う。誰が何をしたか、一人ずつ記録する」
私兵たちは互いに顔を見合わせ、階段の前を空けた。
「く、くそっ……! 覚えておけよ!」
主人は書類を握りつぶし、踵を返して階段を上がっていった。
地下には同僚の治安官が残り、暴行に関わった私兵の氏名を控えていた。ミレイユとカインはマヤのそばへ戻った。
カインは手帳を取り出し、素早い手つきで何かを書き込んでいる。
「保護留保の執行と、一時的な保護先を内部台帳に記録する。正規の手続を踏まなければ、俺のやっていることもただの誘拐になるからな」
ミレイユは、その様子を静かに見つめていた。
彼が「手続」にこだわる理由は知っている。手続が人を守ると信じているからだ。
「……助かった」
ミレイユが短く礼を言うと、カインは手帳を閉じて彼女を見た。
「勘違いするな。俺はお前の違法な逃亡幇助を認めたわけじゃない。目の前にある不当な暴力を見過ごせなかっただけだ」
「娘が待っている。まず医師に診てもらい、その後は二人を一緒にしてくれ。短期宿なら、うちの取引先に空きがある」
「営業と安全の確認が取れれば、指定先にできる。本人の希望も聞く」
カインはマヤへ向き直り、娘と同じ部屋を希望するという返事を記した。
カインは少しの間ミレイユの目を見つめ返し、やがて短く息を吐いた。
「まず七十二時間、その間に診療記録と移送契約を判事へ届ける。保護を続けるか決めるのは裁判所だ。元の家へ戻せという申立ても来るだろう。だから、俺も証拠を揃える」
「十分だ。彼女の娘も、待っているからな」
立会いの治安官が縄と負傷を記録してから外し、ミレイユがマヤの立ち上がるのを支えた。
マヤは痛む足を浮かせたまま、ミレイユの腕を掴んだ。
夜明けの光が、雨雲の切れ間から王都の石畳を照らし始めていた。
屋敷の正面玄関から、堂々と外へ出る三人。
カインが医師を呼ぶよう同僚へ頼んだ。その手帳には、ミレイユの署名した紙も挟まっている。
後で何を聞かれるのかは、まだ分からない。
ミレイユはマヤを支え直し、門の脇で車を待った。今日は裏口を探さなくてよかった。




