第4話 母だけが残る夜
夜の王都に、冷たい雨が降っていた。
豪商の屋敷に隣接する共同洗濯場で、ミレイユは回収する布の数を確かめるふりをしていた。仕事の合間に話せるのは今だけだと、使いの女から伝言があったのだ。
乾燥小屋の戸が閉じると、濡れた外套の女が、子供を抱いて腰を下ろした。ミレイユ以外の者はいない。
「お願いです。私とこの子を、あの家から逃がしてください」
女はマヤと名乗った。年齢は二十九。王都の西区に広大な屋敷を構える豪商のもとで、十代の頃から住み込みの奉公人として働いているという。
マヤの腕の中で不安そうに身を縮めているのは、娘のミナだ。まだ六歳になったばかりだという。
長机を挟んで向かい合うミレイユは、表情を変えずにマヤを観察していた。長年の過酷な労働を示す荒れた手。だが、その背筋は娘を守るようにピンと伸びている。
「理由は?」
ミレイユが短く問うと、マヤは血の気の引いた唇を噛み締めた。
「旦那様が……ミナを、地方の紡績工場へ働きに出すと言い出したのです。名目は私の住み込みの食費と借金の返済ですが、あんな小さな子を遠方へ送ればどうなるか。奴隷同然に使い潰されるか、もっと酷いところへ売られるに決まっています」
王国の家籍離脱令のもとでは、住み込み奉公人の家籍は雇用主である家長に握られている。通常の離籍には家長の同意を求められる。虐待を理由に異議を申し立てる道はあっても、審理を待つ間に身柄を移されるおそれがあった。親の意見を無視した子供の処遇も、書類の上では後見先の変更として通されかねない。
「主人は、私への見せしめにミナを奪おうとしているのです。私一人なら、どんなに過酷な労働でも耐えられます。でも、この子だけは……ミナの人生だけは、絶対に主人の好きにはさせません」
マヤは娘を抱く腕に力を込めた。
「娘さんと一緒に、出たいということだね」
ミレイユは声を落とした。母親としての理由を捨ててからでなければ助けない、という話ではない。誰かに言わされた返事でないことを、確かめたいのだ。
「はい。私も、この子と一緒に暮らしたいです」
マヤは足首をかばって座り直した。昨日、重い鍋を運んで転び、足を捻ったという。ミレイユは歩ける範囲を確かめた。
今夜のうちに保護を求める方法も話したが、娘の薬と移送契約の控えがまだ屋敷にあった。翌日の移送ではなく明後日だと聞いているため、明日の夜、厨房の裏戸から出ることにする。出発前にもう一度、母親の希望を確かめる。ミナにも、母と一緒に別の寝床へ行くことを説明した。
ミレイユは鞄から一枚の白紙を取り出し、マヤの前に置いた。
「荷造りについては、一つ決まりがある。荷物は三つまで。それ以上は運ばない」
「三つ……ですか。ミナの着替えや、寒さを凌ぐ毛布は……」
「子供の衣服、薬、当面の食事といった『生活必需品』は荷物に数えない。それは別枠で持っていって構わない」
ミレイユはマヤの目を真っ直ぐに見つめた。
「あんたが選ぶのは、どうしても持っていきたい私物だ。三つ選んでくれ」
マヤは少し考え込み、やがて持参した古びた鞄から三つの品を取り出した。
一つ目は、色褪せて綻びの目立つ『布人形』だった。
「ミナが赤ん坊の頃、私が端切れを縫い合わせて作ったものです。この子が初めて笑ってくれた時の記憶が詰まっています」
二つ目は、油じみと水濡れでふくらんだ分厚いノート。
「私の『料理帳』です。屋敷の厨房で働きながら、十年間書き溜めました。私の腕と、技術のすべてです」
そして最後の一つとしてマヤが取り出したのは、意匠の擦り切れた『古い髪留め』だった。
「これは……私が奉公に出る前、母が持たせてくれたものです。屋敷では派手な飾りは禁止されていたので、ずっと鞄の奥に隠していました。母親である前に、私という人間の証です」
ミレイユは一つ一つを確かめるように見つめ、小さく頷いた。
「預かるよ。明日の夜、迎えに行く。危険になったら、薬以外の荷物は置いて先に出るんだ」
*
翌日の深夜。
豪商の屋敷の裏口付近は、異様な空気に包まれていた。
屋敷の壁沿いの暗がりに潜んだミレイユは、舌打ちをこらえた。
(……様子がおかしい)
事前の調べでは、裏口の警備は老いた門番が一人いるだけのはずだった。しかし今、裏門の前には揃いの黒い革鎧を着た屈強な男たちが三人、鋭い視線で周囲を警戒している。素人ではない。荒事を生業とする私兵の動きだ。
さらに悪いことに、屋敷に面した表通りには、治安局の制服を着た巡回兵が等間隔で松明を掲げ、行き交う荷車を一台残らず止めて積荷を検めていた。
(あの追跡官……カイン、だったか)
錠前工房の件以来、夜の運送に対する照会が増えていた。移送業者の不審な動きも調べていると、組合から聞いている。今夜は、その検問が予定の通りに重なっていた。
カインが敷いた公的な包囲網と、屋敷の主人が独自に雇い入れた私兵の壁。
二つの網が、奇しくも同時にミレイユの退路を塞いでいた。
だが、立ち止まっている時間はない。約束の時刻、屋敷の裏庭にあるゴミ捨て場の陰に、合鍵を使って抜け出してきたマヤとミナが姿を現した。
「こっちだ」
ミレイユは暗がりから短く声をかけ、母子を壁の影へと誘導した。
「ミレイユさん……表通りに、治安局の兵士が」
「ああ、最悪のタイミングで検問をやっている。予定していた回収馬車は使えない。徒歩で路地裏を抜ける」
ミレイユは、裏戸に現れたマヤへ、今も二人で出たいかと確かめた。マヤは頷き、はっきり答えた。「出ます」
ミナを抱き上げ、マヤを支えて雨の路地へ出た。
戦闘はミレイユの専門ではない。彼女の武器は、段取りと時間差だ。暴力に訴えれば、たとえその場を切り抜けても、翌日には強盗誘拐犯として王都中の手配書に顔が乗る。
迷路のようなスラムの路地を抜け、旧市街へ繋がる運河沿いまで出ようとした時だった。
「おい、あそこの路地! 誰か走っていったぞ!」
背後から怒声が響いた。屋敷の周囲を固めていた私兵の一部が、逃亡に気づいて追いすがってきたのだ。彼らは主人の命令で動く『家籍移送仲介業者』の手先だった。
「チッ……」
ミレイユは路地を曲がり、放置された廃倉庫の中へと身を隠した。
屋根には無数の穴が空き、雨漏りの音がひどく反響している。外からは、私兵たちの足音と松明の明かりが刻一刻と近づいてきていた。
「……ミレイユさん」
壁を背にして荒い息を吐くマヤが、絶望的な声を出した。
「もう、無理ですね」
ミレイユは無言で周囲の地形と、私兵たちの配置を頭の中で計算していた。
倉庫の裏手には、運河へ続く雨水用の狭い排水管がある。そこを這って進めば、私兵たちの包囲を抜けて安全圏へ出られる。
だが、その排水管の直径はひどく狭い。
ミナとミレイユなら、身を伏せて抜けられる。マヤも幅だけなら通れるはずだったが、腫れた足首が入口の曲がりを越えられなかった。もう一度試すと、痛みに声が漏れる。排水は浅いが、雨で増える前に抜けなければならない。別の迂回路を探すには、外を固める私兵と治安局の目があまりにも多すぎる。
ミレイユが足の怪我を見積もった時より、腫れがひどくなっていた。運ぶ順番を、最初から変えるべきだった。いま別の戸へ戻るには、追手が近すぎた。
「……マヤ。私とミナだけなら、ここを抜けられる」
ミレイユは事実だけを淡々と告げた。
「今、別の道を探せば、三人とも見つかる可能性が高い。私には、あの人数と争って勝てる腕はない」
マヤは震える手で、顔を伏せたミナの頭を撫でた。
娘を守るために逃げ出した。だが、自分が一緒では娘まで捕まってしまう。
マヤの決断は、一瞬だった。
「ミナをお願いします」
マヤはミレイユに深く頭を下げた。
「私が囮になります。その間に、この子を連れて逃げてください」
「あんたは捕まるぞ。屋敷に連れ戻されれば、無断離籍の罰としてどんな扱いを受けるか分からない」
「構いません。この子さえ、無事なら……」
マヤは娘の髪を撫でた。立派な決断をした顔ではない。どちらを選んでも失うものがある人の顔だった。
「娘さんを先へ出す。あんたの依頼は、取り消さない。それでいいね」
「はい。私は残りたいわけでは、ありません」
「分かってる」
ミレイユは彼女の肩へ手を置いた。従順にすれば安全だと保証することはできない。捕まる役を引き受けさせた時点で、段取りは失敗していた。
「痛む足は無理に動かすな。三つの荷物は、ミナと一緒に私が預かる」
ミレイユはマヤの返事を待ち、その手を握った。
「助けを呼んで、迎えに戻る。依頼は放棄しないから、生きていてくれ」
その言葉に、マヤは堰を切ったように泣き崩れ、ミレイユの手にすがりついた。
*
数分後。
廃倉庫に突入してきた私兵たちによって、マヤは床に押さえつけられ、乱暴に縄を打たれていた。
抵抗はしなかった。ただ、排水管の奥へと消えていった娘の無事だけを祈りながら、冷たい床に顔を押し付けていた。
「見つけたぞ! こいつだ!」
私兵の報告を受け、雨の中を悠然と歩いてきたのは、マヤの雇い主である豪商だった。
「この恩知らずの泥棒猫が。私の許可なく家籍から逃げられるとでも思ったか」
主人はマヤの髪を乱暴に掴み上げ、嘲笑した。
「ガキの姿がないようだが、まあいい。お前一人でも十分に金になるからな」
「……私を、どうするつもりですか」
「決まっているだろう。お前のような反抗的な女は、王都には置いておけん。北の鉱山街で娼婦を探している業者がいてな」
主人は懐から一枚の書類を取り出し、マヤの顔の前に突きつけた。
「明日の朝一番で、家籍移送仲介業者にお前の家籍を譲渡する手続きをとる。明日の朝、陽が昇れば、お前は正式に私の所有物から奴らの所有物になり、王都から運び出される。二度と太陽の光を拝めると思うな」
明日の朝。
それが、マヤに残されたタイムリミットだった。翌朝に遠方へ運び出されれば、行先を探す時間が必要になる。手段が消えるわけではないが、今ここで助けるより難しくなる。
「連れて行け。地下牢に放り込んでおけ」
主人の命令で、マヤは私兵たちに引きずられるようにして連行されていく。
その光景を、運河の対岸の暗がりから、雨に打たれながらじっと見つめている影があった。
ミレイユだ。
倉庫の戸は開いたままで、主人の怒鳴り声は、雨音の切れ間に水面を渡ってきた。朝一番の譲渡と、地下牢へ入れろという命令は聞き取れた。
彼女の外套の中では、ミナが音を立てずに泣きじゃくっていた。ミレイユはその背中を抱き、私兵たちがマヤを連れていく方を見ていた。
「……明日の朝までだ」
ミレイユの呟きは、雨音に掻き消された。
ミレイユはミナを抱き直した。まず、この子を雨の当たらない所へ。戻る道は、その間に考える。




