第49話 残ることを選ぶ
個人籍法の移行案が可決されたのは、公開審理から数週間後だった。
すべての窓口が、その日に新しくなったわけではない。古い台帳から移す順番を決め、書類の足りない人の申告を聞き、家長の同意をまだ求める窓口へ指示を出す。街は喜びながら、同じくらい戸惑っていた。
オルフェンは失職し、違法収容の継続と証拠隠滅に関する責任を問われた。個々の被害の賠償や、末端の担当者の関与を調べる仕事は続く。
ヴォスの偽造と虚偽告訴も、別の事件として裁かれた。
旧法下の離籍と、本人の意思に基づく離籍幇助には、移行措置が設けられた。ただし暴行や詐欺まで免除するものではない。ミレイユも施設への侵入の事情聴取を受け、救命に至る経緯を含めた審査の結果を、書面で受け取った。処罰は求められなかったが、独断が正しかったと認められたのだとは考えなかった。
あの二人がいなくなったからといって、全ての家で扉が開くわけではない。それでも、閉じた扉を開けるよう求める時、本人が示せる根拠が変わった。
ルカとシフォンは、移送の停止と契約の再審査を経て、王都へ戻った。
ダニエルの居場所も、その後の照会で分かった。病気の治療を続けるため、しばらく今の町に残りたいという。ミレイユは帰還を成功の条件にせず、連絡先と支援の担当者を確かめた。
彼からの手紙には、仕事はまだ決めていない、とあった。
決めていないことを、謝らず書けるようになったのならよい。ミレイユは返事に、急がなくていいと書いた。
エマには、妹から短い便りが届いた。今度は眠っていない自分を描いてほしい、と。父との和解が済んだわけではないが、妹と連絡する道は代理人を通して確保できた。
エマはその手紙を、三年前の寝顔の絵の横へ置いた。
午後、事務所に一人残ったミレイユは、床板を上げた。
油紙の鞄を取り出す。金や着替えを点検するたび触れてきた鞄だった。だが、別に包んだ三つの私物は、生活の場所へ戻さないままでいた。
いつでも出られるように。
それがなければ十年を過ごせなかったのだから、臆病だったと笑う気はない。
今日は、自分で紐を解いた。
母の針箱。蓋に小さな染みがある。
父が使っていた王都の古地図。今とは違う橋の名が書かれている。
伯父の家で無給の仕事をしていた頃の、自分の帳簿。紙の薄い所は、文字の裏が透ける。
古地図を仕事に使い続けていたわけではない。今の道は、その後自分の足で覚え、別の紙に書いてきた。この地図は、父がどこを歩いたかを思い出すために持っていた。
針箱も、帳簿も、持って逃げるためだけに生まれた品ではない。
ミレイユは針箱を机の引き出しへ置いた。外套のほつれを、今日ここで直せるように。
古地図は現在の図の隣へ留める。帳簿は、エマの新しい帳簿と並べた。
鞄は空になった。
捨てずに底を拭き、棚へ戻した。出る必要ができたら、また使えばいい。
カインが来た時、彼女は針へ糸を通すのに手間取っていた。
「貸そうか」
「追跡官は針穴まで見つけるのかい」
「見えるかどうかは、やってみないと分からない」
彼は糸を受け取り、一度失敗してから通した。
停職は解かれた。今は新制度の準備室で、記録の閲覧と保護手続きを整える仕事に就いている。権限を戻されたから、また何でも自分で決められるようになったのではない。むしろ、誰が止められるかを考える仕事になったという。
「店への問い合わせは、別の担当に回す。お前と俺の関係が、相談者に不利になってもいけない」
「仕事は分けるわけだ」
「ああ」
「夕飯まで分けなくていいからね」
カインが顔を上げた。
ミレイユは縫い目を見たまま、口元だけで笑った。
彼は新しく壁に掛かった地図へ目を向けた。
「荷解きか」
「今夜ここで、必要になった」
説明はそれで十分だった。
しばらくして、ミレイユは自分から言い足した。
「残るよ。この店で、仕事を続ける」
「もう逃げない、とは言わないんだな」
「逃げるなと言われるのが、嫌で始めた仕事だからね。自分にも言わない」
カインは頷いた。
彼女は針を箱へ戻し、顔を上げる。
「あんたがいるから残る、だけではない。皆もいるし、ここでやりたい仕事がある。……その中に、あんたとの生活も入れたい」
言ってしまうと、外套の縫い目より、相手の返事の方が気になった。
カインは椅子を近づけた。
「俺も、考えていた」
「考えるばかりで、書面を作るなよ」
「必要な条件は、口でも確かめられる」
ミレイユは笑い、彼の手を取った。今度はどちらかが助け起こすためではない。
触れた手は温かかった。
夕方、看板屋が新しい板を届けに来た。
板を支える位置を、ラウルとカインが言い合っていた。エマが水平を確かめ、マヤがミナを脚立から離す。
ミレイユは下から見上げた。
看板を掛け直すことさえ、一人でやらなくてよい。




