第48話 誰の名前か
公開審理の日、ミレイユは傍聴席の端に座った。
出入口に近い席を選ぶ癖は、まだ残っている。だが今日は、逃げるためだけではなかった。セラが疲れた時に、静かに外へ出られるようにしておきたかった。
証言台の向かいに、オルフェンがいた。
高い椅子も、机の大きさも、大臣府とは違う。彼の言葉だけを書き取る部屋ではない。
審理を進める検察官が、回収資料を順に示した。アドリアンは検察官の代わりではなく、署名を求められた当事者として証言席にいた。
最初に、セラの記録と公式の移送簿が照合された。
私的なメモだから正しいとも、収容者が書いたから嘘だとも決めず、日付、施設の受領印、元の申立書を一件ずつ合わせる。
「この箇所は、覚えているのですか」
問われ、セラは首を振った。
「細かな会話までは覚えていません。ここに書いたのは、受け取った申立書の日付と、それを収容台帳へ移すよう命じられた時刻です」
覚えていないと言えることが、ミレイユには救いだった。十年分を一言も間違えず話さなければ信じない、という場であってはならない。
書記が原本を開いた。セラの索引が示す頁に、対応する印があった。
自分を閉じ込めるために使われた記録が、今日は彼女の言葉を支えている。
エマは、ヴォスの帳簿と神殿の支払い、旧税関の経費を説明した。
全ての金が一つの財布へ流れたわけではない。仲介業者には移送のたびに利益が入り、施設には人数に応じて管理費が出た。契約に問題があると報告されても、処理件数は実績として積み上げられていた。
決定的だったのは、監督部署が不備の報告を受けた後に、従来の処理を続けるよう指示した文書だった。控えだけでなく、大臣府側の発出簿にも同じ番号があった。
「秩序への影響を考えた、一時的な措置だ」
オルフェンが言った。
「その一時的な措置の間に、何人が移されたかを確認しています」
エマは答えた。
彼女は相手を罵らず、数字を一つ訂正した。重複する名前を二人に数えた箇所があったのだ。小さな減少を隠さず示すと、オルフェンの代理人は黙って書き留めた。
数字を大きく見せるための場ではない。そこで暮らした人の時間を、間違えずに数える場だった。
ラウルは、十二年を十五年に変えられた契約書を見た。
マヤはミナを法廷へ連れて来ず、本人だけで暴行と移送の経緯を話した。娘に何度も同じ恐怖を説明させる必要はないと、事前に医師と相談していた。
アルマは、誓約しない、と言った時と同じ声で、署名を拒んだ理由を述べた。
カインは保護情報が漏れた経路と、自分が行った対策の限界を話した。支局で閲覧を絞るだけでは、中央に残る写しを守れなかった。正しいつもりの記録も、渡る先を考えなければ人を傷つける。
ミレイユの番が来た。
不法に家籍を離れた人を運んだことを問われ、否定しなかった。本人の意思をどう確かめ、どこまで支援したかを話す。失敗した依頼も、単独で施設へ入ったことも隠さない。
「法に背く自分の判断を、常に正しいと考えていたのですか」
「いいえ。戻れと言われる前に、誰かが本人へ聞く時間を作りたかった。私が間違えた時に、止める者も必要でした」
彼女は仲間の席を見なかった。自分の行動の説明を、誰かの頷きに預けるわけにはいかない。
オルフェンは最後まで、自分が守ったものを語った。
戦乱の後、家に属さない者は住まいも食事も得にくかった。家長や親方に責任を持たせ、移動を管理することで、路上へ人が溢れるのを防いだ。今それを外せば、誰が保証するのか。
ミレイユは、彼の問いそのものには答えが要ると認めた。
悪人だと言って終わらせても、今夜の食事は出ない。
だからこそ、制度の見直しに関する別の意見聴取には、保護費用と窓口を含む案が用意されていた。公開審理で有罪を証明することと、新法が役に立つことは、同じではない。
休廷後の意見聴取で、アドリアンが草案を示した。
成人の籍は本人に属する。雇用や徒弟の契約違反は、金銭や契約の争いとして審査する。相手の身体を押さえて働かせる根拠にはしない。
緊急保護は本人の申告から始め、独立した審査を続ける。未成年者には利害のある家長と別の代理人をつけ、年齢に応じて本人の意見も聞く。保護先は一般公開せず、記録を見た者と理由を監査できるようにする。
「これで不正が無くなると?」
オルフェンが尋ねた。
カインは首を振った。
「無くなるとは言えません。だから、調べ直せる記録と、異議を申し立てる窓口を残します。人を守るための記録を、その人が抜けられない檻にしないためです」
大臣は、しばらく答えなかった。
納得した顔ではなかった。だが、自分以外の者が責任を持つ仕組みを、存在しないと言うこともできなくなっていた。
その日の審理では、違法収容の複数事案について責任を問うための証拠調べが進み、関係者への接触と記録処分の禁止が継続された。判決と法律の成立は、後日のそれぞれの手続きに残った。
拍手をする者もいたが、裁判長は静粛を求めた。
外へ出ると、セラが階段で立ち止まった。
「疲れた」
「車を回す」
「歩けるよ。ただ、少し待って」
ミレイユは隣で待った。
誰かを待てることが、今日は勝った証のように思えた。




