第50話 最後の客は三つだけ
数か月後、ミレイユ運送の戸は、昼間も開いていた。
新しい制度で、自分の名前を取り戻した人々の引越しが続いている。もう荷台へ隠れる必要がない客は、御者の隣で行先を眺めた。
それでも夜の依頼は残った。昼に家を出れば止められる人、同居人に知られず相談したい人。法律が変わっても、すぐには変わらない扉がある。
ミレイユはそのたび、相手の話を聞き、必要な保護と運送を分けて手配した。
「今夜なら、出られます」
若い客が言った。
「では、出発前にもう一度聞く。返事を変えてもいい」
その仕事の言葉は、看板を替えても残った。
エマは賃金の帳簿を締め、ラウルへ請求書を突き返した。
「部品代だけです。作業代を入れてください」
「知り合いの子なんですよ」
「値引きするなら、元の料金と値引きを別に書いて。自分の仕事が無料だと教えないでください」
ラウルは苦笑して、書き直した。
彼は自分の小さな工房を持ち、運送の車を請け負いで整備している。店の者だから何でもただで直せ、とは誰も言わない。
隣の相談室では、マヤが新しい滞在者へ食事の時刻を説明していた。ミナは学校で書いた字を見せたくて、話が終わるのを待っている。
アルマからは、薬草用の鉢を二つ増やしてほしいという注文が来た。診療所の庭に空きができたらしい。
セラは静かな町へ移り、必要な時だけ記録の照会に答えている。昨日の手紙には、今日は何もしなかった、と誇らしげに書いてあった。
トーマスは契約の終わりを話合いで決め、妻の墓に通える場所で荷札の整理を請け負うようになった。リゼットとセリアは、まだ片づかない書類を抱えながらも、同じ家で別々の鍵を持って暮らしている。
皆が毎日ここへ集まるわけではない。
集まらなくても暮らせるようになったことを、ミレイユは少し寂しく、嬉しく思った。
昼過ぎ、カインが古い革鞄を提げて来た。
「客だ」
「見れば分かる。役所の紙を持っていないからね」
ミレイユは机の書類を片づけた。
カインは、最近よく相談していた二階の部屋を見上げた。二人で寸法を測り、窓の建付けを直し、家賃と生活費も話してある。いきなり鞄を持って押しかけてきたわけではない。
「官舎を引き払う日が決まった」
「聞いた。家具を運ぶ車も取ってある」
「最後の確認に来たんだ」
彼は鞄を机に置いた。
ミレイユは腕を組み、わざと客用の声になった。
「では、ご本人の希望を。ここへ来たいのかい」
「来たい」
「仕事の都合や、私への義理ではなく?」
「俺が、ここでお前と暮らしたい」
横で書類を揃えていたエマが、何も聞こえなかった顔をして立ち上がった。ラウルまで連れて表へ出ていく。
ミレイユは、耳が熱くなるのを感じた。
「分かった。私も、来てほしい」
自分の返事も必要なのだと、言ってから改めて思った。
「荷物は三つだ」
カインが鞄を開けた。
「今は、家具も普通に運ぶんだけどね」
「これは、手で持って来たかった分だ」
一つ目は、擦れた手帳だった。
公式の事件簿ではない。相談者の住所や個人情報は職場の管理記録へ移し、私物として持ち歩かない。ここに残っているのは、自分の判断を間違えた時の覚えと、仕事の手順について考えたことだという。
ミレイユは開かず、表紙に触れた。
「私の悪口も?」
「本人へ言った分は、繰り返し書いていない」
「ずいぶん薄くなるね」
カインが笑った。
二つ目は、ノラから届いた手紙だった。
彼女は既に何年も前に搾取の場所を離れ、遠くで暮らしている。新法が命を救ったという手紙ではない。自分の名で部屋の契約を更新できたことと、パン屋の仕事で朝が早いことが、短く書かれていた。
最後に、兄の同居の話を聞いたとあり、『相手の予定表を勝手に作らないこと』と釘を刺されている。
「会ったこともないのに、私の味方かい」
「俺の妹だからな。俺の面倒な所は知っている」
カインは手紙を畳み直した。その手つきだけで、彼女が自分の暮らしを報告してくれることが、どれほど嬉しいか分かった。
三つ目は、古い靴だった。
底を何度も張り替え、ついに革そのものが薄くなった一足。綺麗に泥を落とし、別の布で包んである。
「これを机へ置く?」
「布の上だ」
「そういう問題だけじゃないんだけど」
言いながら、ミレイユは笑ってしまった。
あの靴の音を聞けば、かつては隠れる場所を探した。今は戸が開く方を見て、食事の人数を一人増やす。
手帳。手紙。靴。
自分の仕事も、家族も、歩いてきた道も、捨てずに来るつもりなのだ。
ミレイユは、それがよかった。
「茶を飲む間に、もう一度考えな」
彼女は言った。
「ここの女主人は、仕事を抱え込むし、気が短い。最近は少し、人に頼むようになったが」
「知っている。こっちも、確認が多い」
「それも知ってる」
二人は台所へ行った。
茶葉が足りず、カインが買い足そうとする。ミレイユは今日は薄くてもよいと言い、明日の買物に書き込んだ。どちらかが正しいと決めるほどのことではない、小さな生活の相談だった。
カインは空になった茶碗を置いた。
「答えは同じだ」
「私も」
彼女は二階の鍵を渡した。鍵は二つ作ってある。どちらか一人が、もう一人を出入りさせるための物ではない。
「荷解きは、自分でやりな」
「ああ。釘を打つ場所だけ、後で相談したい」
「壁一面に勤務表を貼るのは駄目だよ」
「地図なら?」
ミレイユは階段の途中で振り返った。
「それは、一緒に選ぼう」
表の戸で、ベルが鳴った。
エマの、いらっしゃいませ、という声がする。
ミレイユはカインへ先に荷を置くよう言い、一階へ戻った。今日は彼に、帰る部屋がある。呼び止めなければ消える客ではない。
机の前には、小さな鞄を抱えた人が座っていた。
「こちらで、引越しの相談ができると聞いて」
「できるよ」
ミレイユは椅子を引いた。
「どこへ行きたいか、まだ決まっていなくても構わない。まず、あんたの話を聞こう」
開いた窓から、午後の風が入ってきた。
表の看板には、運送・引越し・住居相談、ミレイユ運送。
奥の壁では、古い『月無し運送』の看板が、新しい看板と同じ光を受けていた。
了




