第36話 追わない男
「殿下」
門番の声で、列の空気が変わった。
アドリアンは馬上から、まだ有効な外出許可と、巡回裁判所の受入れ書を渡した。
「私の意思で出る。今日の訪問順は、この指示の通り変更した」
「ですが、大臣府から御動静について確認するようにと」
「確認してくれ。書記局の担当がここにいる」
書記が許可番号を読み、記録簿へ照らす。有効期限は今日の夜。取消しの正式通知は、まだ届いていなかった。
そこへ大臣府の役人が来た。
「通してはならない。至急、執務室へお戻りいただく」
「取消し通知をお持ちですか」
書記が尋ねた。声は震えていた。それでも、カインが準備した確認項目を飛ばさなかった。
「今、作成中だ。まず止めよ」
ミレイユは、毛布の受領控えを握ったまま立っていた。いま口を挟めば、怪しい運送人が王子を唆したという話になる。本人が答えるのを待つしかない。
アドリアンは役人を見た。
「私は署名を求められた非常令を拒んでいる。その経緯を証言しに行く。誘拐でも、無断の軍事行動でもない」
書記のペンが走った。
「拘束の命令があるなら、誰が出したかも記録してほしい」
門番は護送責任者を見た。責任者は、外出許可に従って同行すると答えた。
門を開ける権限は、目の前の門番長にある。彼は長く迷った後、書記の確認済の欄へ自分の名を書いた。
「許可の有効を確認した。通す」
役人が声を上げる。だが、取り消す紙が届く前に、二番目の列は動き始めていた。
宮門を出ても、王都は終わらない。
市門までの大通りには、朝の荷が溢れていた。ミレイユは先に出した車で一つ目の交差点を曲がり、二番目の列が来たのを確かめた。三番目の車は予定通り別の施療院へ行く。無関係な人を追手の囮にするのではなく、三つの本物の仕事を同じ朝に動かしている。
専用車を追った連絡役は、一番目の列で王子がいないと分かり、引き返していた。王宮へ戻る使いと、市門へ急ぐ使いが分かれる。
ミレイユは王子の列を細い道へ入れた。護送責任者とは事前に打ち合わせてある。大通りより短いが、急いだ馬車は通れない。
アドリアンは馬を降り、引いて進んだ。
「訓練で、こういう道は歩いた?」
「荷を背負ってなら」
「今日は荷より、頭を下げて。看板に当たる」
王子が首をすくめる。後ろの護送員が笑いかけ、すぐに表情を戻した。
市門の前にはエマが待っていた。先方の受入れ書と宮門の出発証明を、市門側の担当にも提出済みだった。
ここにも確認はある。馬も鞍袋も見られた。木の駒、鳴らないオルゴール、徽章。生活用品と証言のための書類。
「武器の持出しは?」
「護送員の支給品だけです」
責任者が答え、番号を照合する。
ミレイユは市内へ戻る立場なので、外へ出る許可は持っていない。最後の引継ぎは門の内側で済ませる。
「ここから先は、受領書の通り。今夜の宿、明日の昼の連絡先、三日目の食事まで確認してある」
「君は来ないのか」
「王都で別の荷が待っている」
アドリアンは少し寂しそうに笑い、自分の手で鞍袋を締めた。
「引越しの後が一番難しいと、君は言ったな」
「逃げた王子の暮らしは、うちでも初めてだ。困ったら連絡を」
市門が開く。
王子が外へ出たのを確認してから、エマは受領控えを二つに分けた。一通を護送責任者へ、もう一通を店へ持ち帰る。
その少し後、大臣府の使いが来た。門の担当者は、出発時刻と通過を認めた書類を示した。追うなら、外の裁判所へ正式な照会を出さなければならない。
帰り道で、ミレイユの足が止まった。
通った。息を詰め、返事を待ち、門の前で逃げることも争うこともできなかった時間が、一度に体へ戻ってきた。
壁へ手をつくと、カインが隣に来た。
「座るか」
「店まで歩ける」
「そうか」
肩を支えようとせず、横に立つ。その距離がありがたかった。
「私が走り出したら、追った?」
ミレイユは尋ねた。何を確かめたいのか、自分でも分かっていた。
「危ない方へ走るなら、声は掛ける」
「捕まえないんだね」
「今の俺には、その権限もない」
「そういう話じゃないよ」
カインは彼女を見た。
ミレイユは彼のコートを軽く掴み、顔を寄せた。唇が触れる直前に、彼が身を引かないことを確かめた。
短い口づけだった。
離れると、カインは一度息を吐いた。
「それは、予定表に無かった」
「追加料金だ」
「受け取る側なのか」
ミレイユは笑った。笑うと、ようやく膝の力が戻った。
店へ帰る。王子の到着を確かめる仕事も、残った客の食事も、自分が隠しているセラの紙も待っている。
何も終わってはいなかったが、隣にいる男から逃げたいとは思わなかった。




