第31話 王子の依頼料
「今ここにいるなら、もう逃げているんじゃないのかい」
ミレイユが言うと、アドリアンは頷いた。
「王宮の外へ出るだけなら、今夜まではできた。問題は、その先だ」
第三王子には、施療院を見回るための外出許可があった。護衛一人の協力で帰り道を外れ、月無し運送まで来たという。護衛は今、表通りで待っている。
三日後の夜まで有効な許可だが、明朝からはオルフェンの指示で随行者を入れ替えられる。王宮へ戻らなければ、その時点で連れ去られた王子として捜索が始まるだろう。
「なら、今夜のうちに町を出ればいい」
「宛先がない。王族だと分かれば、迎えた家は私を王宮へ返すか、別の取引に使う。大臣府から独立して、証言を受け取る場所へ行きたい」
男は、小さな封筒を出した。
王都の外、ファルエンにある巡回裁判所へ宛てた面談の申請だった。都の外の担当判事に、非常令への署名を強要された経緯を証言する予定だという。受入れの返事は来ているが、そこへ向かう警護も車も、大臣府の手を通る。
カインが書類を見た。受領番号と封印を確かめる。
「本物なら、先方にもう一度、到着条件を確認できます。返事の使いは最短でも往復二日です」
「その時間を作るために、一度戻るつもりだ」
アドリアンは言った。
「外出の途中で少し遅れただけにする。署名の予定は三日後の朝。そこまでに道を作れるか」
ミレイユは王子の手を見た。細いが、手綱を握る所に硬い皮がある。軍学校にいたというのは本当らしい。
「大臣の何に署名するんだ」
「非常令。家籍に関する保護審理を止め、行政命令だけで人を移送できるようにする。王族の署名が必要だ。父王は療養中で、兄たちは地方にいる。私が王都の代行を務めているから、印が欲しいのだ」
「断ればいい」
「断った。だから明朝から、訪問者も手紙も制限される。何日閉じ込めれば折れるか、試すのだろう」
王子の声が少し荒れた。
ミレイユは返事をせず、水を注いだ。王族にも飲む時間くらいは必要だ。
「王位を取るための逃亡じゃないんだね」
「違う。政争のために人を動かすなら、頼める貴族はいる。私は、自分が拒んだという証言を、自分の口から残したい」
「誰かを襲わせたり、兵を集めたりする仕事は受けない」
「求めていない」
ミレイユは、面談の内容を書いた。
外出許可の残る短い期間、王宮へ戻る理由、到着先。この三つが分からなければ、今いる客をわざわざ危険な場所へ返すだけになっていた。
「もう一度、護衛のいない場所で話を聞く。今夜は最初の確認だ。前金を払っても、断る権利は残る」
アドリアンは金袋を出した。ずっしりと重い。
「費用は惜しまない」
「惜しみな。派手に金を動かせば、道より先に噂ができる」
エマが必要な分だけ数え、残りを返した。彼女は最近、金袋を前にしても手が震えなくなった。
王子が選んだ私物は、木のチェス駒、母のオルゴール、軍学校の徽章だった。
チェス駒は馬だ。片耳が欠けている。
「これなら、いくらでも買い直せるのでは?」
エマが思わず尋ね、すぐに口を押さえた。
アドリアンは気にしなかった。
「兄に勝った時の駒だ。兄は負けたことを覚えていないと思う」
オルゴールは、蓋を開けても鳴らなかった。長く手入れしていないという。
「音が鳴る物は、移動中は困る。今はそのままでいい」
ミレイユが言うと、王子は少し笑った。
徽章を選んだ理由は、聞かなくても少し分かった。王族の印ではなく、訓練を終えた一人の生徒の証だった。
「この三つは、出発日に持つ。薬と書類は別。貴重品を増やしても、車は増やさない」
「王子でも?」
「馬に積める重さは同じだ」
帰る前、アドリアンは店の小さな台所を見た。
ミナが寝返りを打つ音が、二階から聞こえた。
「私の依頼で、この人たちを危険に巻き込むなら」
「その判断は、こちらで相談する。あんたの責任で勝手に辞退させることも、勝手に巻き込むこともしない」
ミレイユは戸を開けた。
表通りへ戻る王子の背中を見ながら、彼女は自分にもその言葉を聞かせていた。セラの名だけは、まだ皆へ十分に話していない。
王子を見送ったカインが、戻ってくる。
「大きな荷だな」
「荷は三つしかない」
ミレイユは地図を広げた。
「大きいのは、後ろについている連中だよ」




