第25話 私は誓約しません
アルマが最初に足を止めたのは、神殿の旗の下ではなかった。
申立て窓口の前に並ぶ人々を見た時だった。病人を背負った男、布に包んだ献金を握る老女。彼らの何人かが、すぐに彼女に気づいた。
「聖女様」
呼ばれると、背筋が伸びる。微笑もうとした口元が震えた。
ミレイユは隣へ並んだ。腕は掴まない。
「窓口へ行く。それでいいね?」
「はい」
荷台を出る前にも確認した。それでも、必要なら何度でも聞いてよい。二度の確認は、三度目を禁じる規則ではない。
アルマは三つの私物の入った袋を持ち直し、窓口まで歩いた。
「保護を、お願いします」
書記が顔を上げた。立会いの治安官が彼女を椅子へ案内し、氏名を確かめる。
「神殿の終身誓約は、自分の意思ではありません。私は署名しません。神殿へ戻すのを止めてください」
短い言葉だった。
広場全体に届くほど大きな声ではない。しかし近くにいた者が聞き、隣へ伝えた。人の流れが変わり始める。
「聖女様が、あちらにいらっしゃるぞ」
神殿の階段にいた司祭の顔が強張った。
ミレイユは群衆の中央へ娘を押し出さず、書記の机の横に立たせた。ここには保護を受けに来たのであり、観客の前で立派に話すことが条件ではない。
それでもアルマは、集まり始めた人々へ顔を向けた。
「私の治療には、できることと、できないことがあります。神殿が約束した全てを、私はできませんでした。それを言えずにいたことを、お詫びします」
怒声が一つ上がった。
「金を返せ!」
別の人が、その男を叱った。押し合いになりかけ、カインの班が間へ入る。
ミレイユはアルマへ視線を戻した。娘は青ざめていたが、目を逸らしていなかった。
「治療は続けたいです。でも、私の名で、治ると約束しないでください」
司祭が数人の護衛を伴って近づいた。
「この娘は疲れている。神殿で休ませればよい。さあ、アルマ、帰りましょう」
伸びた手の前へ、担当治安官が立つ。
「本人が拒否しています。事情聴取の間、距離を取ってください」
「養育契約がある。家籍の届けも正式なものだ」
エマが控えを提出した。公開用の紙には契約の番号と争点だけを記してある。原本を預けた先、村人の住所、今夜の保護先は、別に封じてある。
書記は紙を照合し、司祭にも提出を求めた。司祭が懐から取り出した誓約書には、まだアルマの署名がなかった。
「本人が署名を拒んだことも記録します」
ペンの音が、小さく続いた。
神殿の鐘が鳴った。本来なら誓約を祝う時刻だった。誰も階段の上へ娘を連れて行けず、鐘の音だけが広場に残った。
担当治安官は、契約の強要に加え、本人が帰還を拒んだ後も司祭が連れ帰ろうとした行為を、違法な拘束を疑う根拠として記録した。七十二時間の保護留保を開始する。場所は、事前に用意された裁判所の管理する宿舎である。明日には保護継続の審理をする。
司祭は上へ抗議すると言った。治安官はその権利を認め、同時に、本人へ近づかないよう繰り返した。
勝ち誇る声は上げなかった。周囲にはなお、娘を裏切者と呼ぶ者も、手に触れようとする者もいる。
「移るよ」
ミレイユが言った時、広場の端から押された人波が、窓口へ寄った。
予定の出口が狭まる。ラウルは回廊の扉を開いた。カインの班が柵を外へ向け、通路を一方通行にする。ミレイユはエマを先に、アルマとマヤをその後に通した。
別の場所に立つカインと、目が合った。
彼は追ってこなかった。次々に窓口へ押し寄せる人を止め、少女が通った道を開け続けた。
ミレイユは振り返らず、車の位置まで三人を導いた。
保護宿舎の戸が閉まると、アルマはようやく座り込んだ。
「足が、変です」
「ずっと力を入れていたからだ。痛む所は?」
「ありません。ただ……私、怒られましたね」
ミレイユは濡れた布を渡した。
「そうだね」
「みんなが分かってくれるわけでは、ないんですね」
「ない。だが、誰かが怒ったからといって、あんたの返事が無かったことにはならない」
アルマは布を目元へ当てた。神殿を離れてから一度も泣かなかった娘が、ここで声を漏らした。
マヤは湯を沸かしに行き、エマは食事を頼みに出た。ミレイユは、泣きやむようにとは言わず、隣の椅子に腰掛けた。
しばらくして、アルマが土の袋を開いた。
乾いた土の匂いは、広場の香や群衆の汗とは違っていた。
「薬草を植えられるでしょうか。ほんの少しでも」
「植える鉢なら運べるよ」
ミレイユが答えると、娘は赤い目のまま笑った。
夕方、神殿は式を延期する掲示を出した。
その下で、献金の返還を求める人々が列を作った。すぐに神殿全体が倒れることはない。それでも、いつもなら頭を下げる側が、今日は説明を待って立っていた。
ミレイユは通りの向こうから、その列を見た。
帰り道にはカインがいた。泥で汚れた柵を片づけながら、いつもの顔で言う。
「お前の車、通行票の提出が遅れている」
「礼の一つも先に言わせないのかい」
「聞く時間はある」
ミレイユは少し迷った。
「助かった」
彼は頷いた。冗談にされなかったので、かえって胸の辺りが落ち着かなくなった。




