第21話 聖女を名乗らない娘
白い髪を煤で汚した娘は、勧められた椅子の前で立ち止まった。
「こちらで、人を運んでいただけると聞きました」
「荷物を、だよ」
ミレイユは返しかけ、娘の右手を見た。指先に細かな火傷がある。飾りの多い神官服からは想像しにくい傷だった。
娘は深く頭を下げた。
「大神殿のアルマと申します。どうか私を、ここから出してください」
エマのペンが止まった。
王都の聖女。その顔は祭礼の絵札になり、加護を受けた水や薬草には何倍もの値がつく。本人は、戸口の敷居を越えるにも許しを求めるように立っていた。
「一人かい」
「護衛は、まだ門前の薬種問屋にいるはずです。村へ出す薬の立会いで外へ出られて……奥の荷捌き場から抜けました」
「追手が来る。エマ、表の客は予定通り受けて。ラウルが戻ったら、裏に人がいるとだけ伝えてくれ」
ミレイユはアルマを奥の休憩室へ通した。
逃げる準備のない客が、先に逃げてきた。珍しくはない。危険なのは、その焦りにこちらまで引きずられることだった。
「水を飲んでから話しな」
アルマは両手でコップを持った。十九の娘は、手の震えを止めようとして、かえって水をこぼした。
「四日後に、終身誓約を結ばされます」
神殿が生活を保障する代わりに、死ぬまで奉仕するという契約だった。本人の意思で結ぶもののはずだが、断れるとは教えられなかったという。
「今までは、病気の人を治せるならと思っていました。でも、私の手では治せない病まで治ると宣伝して……高い献金を払った人を、何時間も待たせるんです」
娘は火傷の指へ目を落とした。
「熱を和らげたり、小さな傷を塞いだりすることしかできません。薬も休息も要ります。死んだ人を戻せない。なのに、できなかったのは信仰が足りないからだと、患者さんに言わせるんです」
「断れば?」
「私を育てるのに使った金を、村に請求すると。村の寄進帳に、私の名があるそうです」
ミレイユは椅子に座り直した。
「その書類を、自分の目で見たかい」
「全部は。昨日、署名する所だけ示されました」
見せない紙に、人は縛られる。
セラの行先を隠した紙のことが頭をよぎり、ミレイユは意識して押し戻した。いま目の前にいるのは、別の客だった。
「帰れとは言わない。今夜の安全な場所は作る。だが、この店を出ただけで誓約も村への請求も片づくわけじゃない。本人が決めるまで隠れて待つ方法と、保護を求めて契約を争う方法がある」
「聖女のまま、逃げられますか」
「何を残したい?」
「治療です。病気の人に会うことを、やめたいわけではないんです」
ミレイユは頷いた。
「じゃあ、やめたいのは何だ」
アルマは少し考えた。コップを持つ手から、力が抜けていく。
「治せないのに、治せる顔をすることです」
その夜、アルマはマヤの管理する別の短期宿へ移った。
銀髪は布で隠したが、それだけで分からなくなる顔ではない。表を歩かせず、食材の配送に合わせ、途中で車を替えた。マヤには正体と危険を伝え、引き受けられるかを確かめた。他の滞在者の住所を一緒に知られない部屋を使う。
「持っていきたい物はあるかい」
荷物を分ける時、ミレイユが尋ねた。
アルマの鞄から出てきたのは、小さな土の袋、薬草を書き留めた帳面、洗いすぎて薄くなった前掛けだった。
「土は、故郷の庭のものです。出てくる日に母がくれました。帰れなくても、草の匂いを忘れないように」
前掛けには焦げ跡があった。村で薬を煮出した時のものだという。
宝石も聖具もなかった。神殿から借りた飾りは問屋で外し、元の箱へ戻したという。持ち出したのは本人の小さな品と着替えだけだった。
「数えてきたのかい」
「三つまで、と聞いたので」
「薬と身分の紙は別だ。必要な物まで置いてくるな」
アルマは小さく笑い、それから笑ってよいかを確かめるようにマヤを見た。
マヤはベッドの端に温めた布を置いた。
「明日の話は、明日で大丈夫。夜中に目が覚めたら、そちらの鈴を鳴らして」
ミレイユが帰ろうとすると、アルマに袖をつままれた。
「お礼に、あなたの疲れを取れます。少しだけなら」
「料金に治療を足すな。今夜はあんたが休む番だ」
事務所では、エマが夕方の掲示を写して待っていた。
大神殿は聖女の失踪を公表していない。四日後の終身誓約式も、予定通り行うとしている。
「捜索は内々でしょうか」
「ああ。自分で出ていったとは、まだ言えないんだろう」
ミレイユは白紙へ四本の線を引いた。今夜が一本目。
カインへ届ける依頼は、居場所ではなく、誓約書と村の債務の確認だけにした。本人の許しを得た範囲で動く。
ペンを置いた時、表の扉が鳴った。
神殿の紋章をつけた男が、聖女の似顔絵を手に立っていた。
「この娘を、見ませんでしたか」




