第18話 自由の値段
王都下町のはずれ。狭い路地に面した古い隠れ家の板間で、アンナはひどく疲れた顔をして座り込んでいた。
彼女の周りには、同じように肩を落とす五人の若い女性たちがいる。数日前、月無し運送の手引きによって、過酷な借金と暴力に縛られていた洗濯工房から一斉に逃げ出した仲間たちだ。
「……今日も、駄目だった」
アンナが絞り出すように言うと、隣に座っていた少女がボロボロと涙をこぼした。
「私もです。食堂の洗い場も、仕立屋のお針子も……『離籍証がない流れ者は雇えない』って、どこも門前払いでした。怪しい水商売の客引きには声をかけられましたが、怖くて逃げてきました」
重苦しい沈黙が部屋を満たした。
あの夜、馬車の隠し底から外へ出た瞬間、彼女たちは間違いなく自由の空気を吸った。これからは自分の意思で働き、自分の稼ぎでパンを食べられるのだと信じて疑わなかった。
しかし、現実は冷酷だった。
家籍離脱令という法が存在するこの国では、公的な手続きを踏まずに家籍を離れた者は、いかなる社会的信用も得られない。身分を証明する紙切れ一枚がないというだけで、王都の真っ当な経済活動からは締め出されてしまうのだ。
ただ檻の外へ出ただけでは、自由は完成しない。
稼げなければ、いずれ飢えて死ぬか、再びヴォスのような悪辣な業者の網にかかるしかない。これが、法を破って逃げ出した者に突きつけられる『自由の値段』だった。
「どうしよう……私たち、逃げてこない方がよかったのかな」
「馬鹿なこと言うな! あそこに戻れば、今度こそ殺されるまで使い潰されるだけだ!」
アンナは声を荒げたが、その声にも焦りと絶望が混じっていた。
そんな彼女たちの前に、扉を開けて二人の女性が入ってきた。月無し運送の会計係であるエマと、安全家屋の管理人を務めるマヤだ。
「皆さん、お腹が空いたでしょう。今日は野菜と豆の煮込みですよ」
マヤが抱えてきた大きな鍋から、温かく香ばしい匂いが立ち上る。彼女は手際よく木碗に煮込みを取り分け、冷え切った六人に配って回った。
「マヤさん、エマさん……ごめんなさい。私たち、まだ仕事が見つからなくて」
アンナが木碗を受け取りながら俯くと、エマは持っていた分厚い帳簿を開き、凛とした声で告げた。
「謝る必要はありません、アンナさん。公的な身分がない方を雇い入れてくれる真っ当な店がないことなど、私たちは最初から計算に入れています」
エマの言葉に、六人の女性たちが顔を上げた。
「仕事がないなら、自分たちで仕事を作るしかありません。皆さんは、あの劣悪な工房で何年間も高級なドレスやシーツを洗い続けてきた、熟練の洗濯職人です。その技術は、絶対に嘘をつきません」
エマは帳簿の間から、一枚の図面を取り出して床に広げた。
「これは、第五運河の近くにある空き倉庫の図面です。先日、ミレイユさんとラウルさんが下見に行き、水回りの設備が十分に使えることを確認しました。この倉庫を、私たちが管理する『救済基金』の資金で借り上げます」
「倉庫を、借りる……? 私たちが?」
「逃げる前に話した、共同工房の候補です。大家の同意がようやく取れました。ただ、こちらへ来ることを仕事の条件にはしません。別の勤め先を探し続けても構いません」
エマの力強い宣言に、アンナたちは息を呑んだ。
「もちろん、表立って看板は出せません。ですが、下町には公的な手続きを通さずに安く洗濯物を頼みたい安宿や、訳ありの酒場がいくらでもあります。月無し運送の情報網を使って、そうした非公式な顧客をあなたたちの工房へ斡旋します」
エマはペンを走らせ、具体的な数字を書き出した。
「当面の家賃と、機材の購入費、石鹸などの消耗品代は、基金の予算内で、まず支援として出します。追加の道具を借りる場合だけ、別に条件を相談しましょう。利益が出たら運営費を積み立て、生活が苦しくならない範囲で宿代を分担してください。……どうですか? 誰かに雇われるのではなく、自分たちの腕で、自分たちの城を持ってみませんか」
「自分たちの、工房……」
「やります!」アンナが勢いよく立ち上がった。「やらせてください! 朝早くから夜遅くまででも……」
「それは駄目です」エマが遮った。「休む時間を決めて、その中で引き受けられる量を計算しましょう」
アンナは口を開け、それから少し笑った。「分かりました。私たち、洗うことだけは誰にも負けませんから!」
「私もやります!」
「私も!」
六人の女性たちの顔に、再び希望の火が灯った。
マヤは優しく微笑み、アンナの肩を抱いた。
「よかったわね。工房が軌道に乗るまでの間は、私が毎日温かいご飯を作って届けるわ。まず三日、その先は一週間ごとに予算を確かめるわ。困る前に相談してね」
*
その日の深夜。
王都の裏通りを、一台の手押し車がゆっくりと進んでいた。
ミレイユは深いフードを被り、手押し車に積まれた大量の洗濯桶、干し場用の太い麻縄、特注の巨大な石鹸の塊などを黙々と運んでいた。アンナたちの共同工房を立ち上げるための初期機材だ。
霧が濃くなり始めた路地の交差点で、ミレイユは不意に足を止めた。
「……またあんたか。暇な治安官だな」
街灯の薄明かりの下、壁に背を預けて立っていたのは、ヨレのあるコートを着たカインだった。彼は手押し車に積まれた大量の物資を一瞥し、短く鼻を鳴らした。
「一時休戦中とはいえ、お前がどこで何をしているのかは把握しておきたくてな」
カインは壁から離れ、ミレイユの隣に並ぶように歩き始めた。
「洗濯桶に、麻縄の束。大方、先日逃がした六人の女たちのために、新しい仕事場でも用意してやっているんだろう」
「……」
ミレイユは無言で手押し車を押し続けた。肯定も否定もしない。
「正直に言えば、驚いている」
カインが、低く落ち着いた声で言った。
「俺はこれまで、違法な逃がし屋や仲介業者を腐るほど見てきた。だが、あいつらの目的は『人間を移動させて手数料を取ること』だけだ。対象者を外へ出した後、その人間がどう生きようが、どこで野垂れ死のうが一切関知しない。逃がして終わりだ」
カインの視線が、ミレイユの横顔に向けられる。
「だが、お前たちは違う。わざわざ自分の金と労力を使って、身分のない逃亡者たちが自立するための基盤まで作ろうとしている。……なぜ、そこまでやる」
「うちは『運送屋』だからな」
ミレイユは前を見たまま、淡々と答えた。
「荷物をただ外に放り出して仕事完了、なんてずさんな業者は信用されない。依頼人が自分の足で立って、自分の名義で生きていける状態まで運ぶ。それが私の仕事の『完結』だ」
「立派な職業倫理だ。だが、お前がやっていることは、どこまで行っても法を犯す違法行為だ。記録から人間を消し去るという行為の恐ろしさを、お前は分かっていない」
「またその話か。あんたの言う正規の記録がヴォスに悪用された結果は、この前たっぷり見ただろう」
ミレイユが皮肉を込めると、カインは歩みを止め、深い溜息をついた。
「……俺が、なぜそこまで『記録から消えること』を憎んでいるか、分かるか」
言葉の終わりがかすれた。ミレイユは手押し車を止めた。
霧の立ち込める路地裏で、二人は初めて正面から向き合った。
「俺には、四つ下の妹がいる。ノラという名前だ」
カインはコートのポケットに手を突っ込み、夜空の暗闇を見上げたまま語り始めた。
「俺たちが十代の頃だ。うちは貧しい平民で、ノラはある商家に住み込みで奉公に出されていた。だが、そこでの扱いが酷く、あいつは毎日泣いていたらしい。……俺は治安局の下働きをしていて、自分のことで精一杯で、あいつの苦しみに気づいてやれなかった」
カインの拳が、ポケットの中で強く握りしめられるのが分かった。
「ある日、ノラは商家の家籍から姿を消した。俺が慌てて探し回った時、彼女は一人の男と接触していたことが分かった。『辛い家籍から、安全に逃がしてやる』と甘い言葉を囁く、悪質な仲介業者だ。今のヴォスと同じような手合いさ」
ミレイユは息を呑んだ。
「ノラはそいつの言葉を信じ、公的な離籍証を持たないまま王都を離れた。……法的な『記録』から消え去ったんだ」
カインは一度口を閉じ、息を整えた。
「記録がないということは、存在しないのと同じだ。あいつがどこへ連れて行かれたのか、誰に売られたのか、移送先へ照会しても、別の名前で登録されていて見つからなかった。誘拐の疑いを訴えても、最初は本人が出ていったのだと取り合われなかった」
数年後、カインはようやく執念で妹の行方を突き止めたという。だが、彼女は遠方の不衛生な労働施設で搾取され尽くし、心身ともに深い傷を負っていた。
「今でもノラは生きている。王都を離れ、静かな場所で暮らしている。……だが、正式な移送先が残っていれば、もっと早く見つけられたのではないか。ずっとそう思っている。手続きさえすれば必ず守れたと、証明できるわけじゃないが」
カインは深く息を吸い込み、ミレイユを真っ直ぐに見据えた。
「だから俺は、正規の手続にこだわる。記録を残すことに固執する。違法な逃亡幇助は、弱い人間を法外の闇に放り出し、食い物にされる隙を与えるだけだからだ。……俺は二度と、あんな思いはごめんだ」
雨上がりの冷たい風が、二人の間をすり抜けていった。
ミレイユは無言のまま、カインの顔を見つめていた。
「……そうか」
ミレイユは視線を伏せ、手押し車の取っ手を握り直した。
「あんたの怒りの理由は分かった。記録から消えることが、どれほど人間を無防備にするか。身分を持たない人間がどんな末路を辿るか、私だって嫌というほど知っている」
だからこそ、エマの救済基金を使い、アンナたちに自立のための共同工房を用意しようとしているのだ。まず暮らしを支え、その間に本人のための記録を取り戻す必要がある。
「私は私のやり方で、逃がした連中の人生を最後まで守り抜く。あんたの過去には同情するが、だからといって、今の私のやり方を曲げる気はないよ」
「だろうな。お前はそういう女だ」
カインは自嘲気味に笑い、壁から背を離した。
「せいぜい、その重い荷物を最後まで運び切ることだな、運送屋」
「言われるまでもない」
ミレイユが車を押すと、段差で車輪が止まった。カインは何も言わず、反対の取っ手を持った。
「こっちまで重さを寄こすなよ」
「そっちが持ったんだろう」
一緒に持ち上げた時、指先が触れた。ミレイユは荷より先に、その温度を意識した。坂を上り切るとカインは手を離し、住所を尋ねずに帰っていった。




