第62話 残らない重さ
朝、母は井戸の横に並んだ木桶のひとつを持ち上げて、すぐに戻した。
音はほとんどしなかった。
けれど、その戻し方だけで、ノアには何か引っかかったのがわかった。
「どうしたの」
訊くと、母は桶の柄へ目を落としたまま言う。
「こっちじゃない」
並んだ桶はどれも似ている。
同じ木。
同じ大きさ。
昨日洗ったばかりで、見た目だけなら差はほとんどない。
母は隣の桶を持ち上げた。
今度はそれをそのまま脇へ寄せる。
「こっち」
「見た目じゃわかんない」
ロッタが言う。
母は桶の柄を親指で撫でた。
「手がかかってる」
ノアも近づく。
柄の真ん中より、少しだけ右寄り。
そこだけ木肌がわずかに黒ずみ、繰り返し握られたせいか、ほかより少しだけなめらかになっていた。
昨日も、一昨日も、その前も。
水を汲み、運び、置いて、また持ち上げる。
そのたびに手がかかる場所。
「……母さんの?」
「私も使うけど、今はロッタの手だね」
母は答えた。
ロッタは少しだけ眉を寄せた。
「そんなの残る?」
「残るよ」
母は桶を持ち直す。
「重いものは、持った手の方に残る」
その言葉が、朝の冷えた空気の中で妙に長く残った。
◇
昼前、ディルがまた北東の外れから戻ってきた。
前みたいに急いだ顔ではない。
けれど、急がないぶんだけ、嫌なものを見たあとの硬さがあった。
「変わってる」
それだけ言う。
ノアとハンス、母、ロッタは黙って森へ入った。
倒れた石柱のさらに奥。
あの空き地は、昨日と同じ場所にあった。
細い枝。
麻紐の輪。
三つの石。
浅い窪みの水。
横倒しだった木の器。
けれど今日は、その器が起きていた。
底を下にして、浅い窪みのすぐ脇に置かれている。
水も少しだけ入っていた。
器の縁には泥がつき、片側だけが濡れている。
そして枝に掛かった麻紐の輪は、昨日より少し低い位置へずれていた。
いかにも、使ったあとの形だった。
ベルンが顔をしかめる。
「……真似してきやがった」
ハンスは答えなかった。
ノアは木の器へ近づく。
濡れている。
でも、そこで足が止まった。
器の置かれた地面が、ほとんど沈んでいない。
水が入っているなら、もう少し土が押されるはずだった。
泥も、縁の片側に塗ったみたいについているだけで、運んだ時の揺れ方ではない。
「軽い」
ノアは小さく言った。
母が横へ来る。
器には触れず、柄のない縁を目で追う。
「うん」
「使った形なのに」
「使ってないね」
ロッタは黙って、枝の輪と器を交互に見ていた。
やがて、低い声で言う。
「……昨日より気持ち悪い」
誰もすぐには返さなかった。
ロッタは視線を器から外さないまま、続ける。
「昨日は並べただけだった。今日は、使ったみたいにしてる」
「うん」
母が短く答える。
ロッタの喉が小さく動いた。
「でも、違う」
「違うね」
「見ればわかる」
そこでようやくノアを見た。
「わかるのに、ぱっと見たら、わからなくなりそうで嫌」
その言い方に、ノアは返す言葉を持てなかった。
ハンスが、ようやく浅い窪みのそばへしゃがみ込む。
「器の縁は濡れてる」
指は出さず、目だけで追う。
「でも、持った跡がない」
母も頷いた。
器に取っ手はない。
それでも、使うなら持ち上げる時に親指の位置が偏る。
濡れ方も、泥のつき方も、少しずつ崩れる。
目の前のそれは、綺麗すぎた。
見せようとして、置いた形だった。
◇
「壊すか」
父が低く言う。
「触るな」
ハンスが先に返した。
「また来る」
「いつまで見てる」
ベルンが苛立つ。
「向こうが覚え損ねるまでだ」
ハンスの声は低かった。
「今は、まだ損ねてる」
母は器を見たまま言った。
「重さが残ってない」
ロッタがそちらを見る。
「重さ」
「朝の桶と同じだよ」
母は答えた。
「手がかかった場所は残る。持ち上げた時の傾きも残る。置いた時の土も沈む」
少しだけ間を置く。
「これは、そうなってない」
ノアは空き地を見回した。
枝。
輪。
三つの石。
浅い水。
器。
昨日より、村に近い。
でも近づいたぶんだけ、何が足りないかが余計にはっきり見える。
ロッタが小さく息を吐く。
「……あっちは、持ってないんだ」
「うん」
母が答える。
「手も、重さも」
その声は静かだった。
でも、静かなぶんだけ、森の奥へまっすぐ落ちた。
◇
村へ戻ってからも、役目は止めなかった。
火は生かす。
水は止めない。
北は空けない。
いつもと同じように回す。
けれどノアは、水を運ぶたびに朝の桶の柄を思い出した。
黒ずんだ木。
少しだけなめらかな指の場所。
同じ手が、何度も重さを受けた跡。
あの空き地の器には、それがなかった。
見える形は作れる。
並びも真似できる。
濡れた縁も、泥も、水も置ける。
でも、持ったあとのわずかな片寄りだけは、置いて作れない。
ノアはそのことを考えるたび、少しだけ胸の奥が噛み合うのを感じた。
怖さは消えない。
でも、全部は持っていかれていない。
◇
夕方、ロッタはひとりで井戸の横に立っていた。
母はいない。
ノアが少し離れたところから見ていると、ロッタは並んだ桶のひとつを持ち上げる。
一度、下ろす。
次に別の桶を持ち上げる。
そして、今度は迷わずそのまま運んだ。
ノアが近づくと、ロッタは少しだけ肩をすくめた。
「わかった?」
「うん」
ロッタは短く答えた。
「今日はこっち」
「見た目で?」
「違う」
桶の柄を見たまま言う。
「手が残ってる」
それから、少しだけ口元を歪めた。
「嫌だけど」
「うん」
「でも、あっちにはこれ、ない」
その言い方は強がりにも聞こえた。
けれど、強がりのままでも前へ出る時の声だった。
◇
日が落ちる前、ハンスとディルがもう一度だけ北東を見に行った。
戻ってきた時、二人とも顔色は変わらなかった。
ただ、ハンスが言ったのは一言だけだった。
「器、割れてた」
ノアが顔を上げる。
「割れた?」
「縁が欠けてた」
「誰かが触ったのか」
父が訊く。
「たぶんな」
ハンスは答えた。
「持ち上げそこねたみてえな欠け方だった」
ロッタがその言葉で、ほんの少しだけ顔を上げた。
誰も続けて何も言わない。
でも、それで十分だった。
向こうは、真似しようとした。
使ったみたいに置いて。
たぶん、今度は持とうとした。
でも、うまくいかなかった。
◇
夜、ノアは井戸のそばに立っていた。
水面は静かだ。
風も弱い。
石槽も、暗がりの中ではただの影に見える。
村の形は今日も崩れていない。
ノアは井戸の横の桶へ目をやった。
昼のあいだ、何度も持ち上げられた柄のところだけが、月の下でわずかに鈍く光って見えた。
森の外れの空き地にも、今夜きっと器はまだある。
浅い水のそばに。
欠けた縁のまま。
ノアは井戸の縁に手を置いた。
冷たい石の感触は変わらない。
月の下、村の中では手を覚えた桶の柄だけが静かに残り、森の外れでは、持てなかった器の欠けた縁だけが薄く光っている気がした。




