第61話 合わない場所
朝、ロッタは桶へ触れる前に、ほんの少しだけ指を止めた。
昨日から続いている“見える順”は、もう村の中に混ざっている。
井戸を見る。
石槽を見る。
樽を見る。
最後に桶へ触れる。
頭ではわかっている。
理屈でも、もう間違っていない。
けれど、手だけがまだ時々ためらう。
「嫌のままでやりな」
母が横で言った。
「慣れた顔をしなくていい」
「……うん」
ロッタは小さく返し、石槽へ目をやった。
その時、北東の外れから戻ってきたディルが、井戸の前で足を止めた。
「ノア」
低い声だった。
それだけで、ノアは振り向く。
ディルの顔は、いつもの無愛想なままだった。
けれど、その目の奥だけが少し硬い。
「見つけた」
「何を」
ノアが訊く。
ディルは少しだけ言葉を選んで、それから言った。
「……村みたいなものを」
◇
北東の森は、朝でも少し暗かった。
倒れた石柱のある場所より、さらに少しだけ奥。
木がまばらになった小さな空き地で、ディルは立ち止まった。
「ここだ」
最初、ノアには何があるのかわからなかった。
ただの枝。
ただの石。
ただの窪み。
けれど、一歩近づいた瞬間、喉の奥がひやりとした。
地面に細い枝が一本、まっすぐ刺してある。
その先には、短い麻紐の輪。
少し離れて、黒っぽい石が三つ。
さらにその横には、浅く掘っただけの窪みがあり、底に水が薄く溜まっている。
いちばん端には、口を横へ倒した小さな木の器。
並べ方が、綺麗すぎた。
「……何これ」
ロッタが小さく言う。
母は答えなかった。
ただ、その並びをじっと見ている。
井戸の木釘。
麻紐の輪。
三つの石。
浅い水。
横倒しの器。
村の中で見せていたものが、そのまま縮められて、ひとところへ押し込まれている。
でも、違う。
枝は木釘に似せてあるだけで、何も支えていない。
石は三つ並んでいるだけで、中身がない。
浅い窪みの水は、ただそこにあるだけで、誰の手も通っていない。
村に似ている。
けれど、村ではない。
ノアは息を吸い忘れたみたいに、しばらく何も言えなかった。
「……真似してる」
やっとそれだけ出た。
ハンスが後ろで短く息を吐く。
「真似というより」
そこで少し止まり、目だけで枝から石、窪み、器へと追っていく。
「覚えようとしてるな」
ベルンが顔をしかめた。
「気味悪ぃな」
「うん」
ノアは答えたが、視線は空き地から動かなかった。
ロッタもその場で動かなかった。
視線だけが、浅い窪みの水へ落ちる。
「……これ、井戸のつもり?」
誰に向けたともつかない声だった。
母が、ようやく口を開いた。
「井戸の代わりだね」
「代わり」
「見えていたものだけで、置き直してる」
ディルが地面の器を顎で示す。
「桶もある」
「ある」
母は頷いた。
「でも、置かれてるだけだ」
ノアは空き地の並びを見たまま、息を詰めた。
近い。
なのに、届いていない。
それがわかるぶんだけ、余計に気味が悪かった。
◇
「壊すか」
父が低く言った。
ハンスが首を振る。
「触るな」
「でも」
ベルンが苛立った声を出す。
「こんなの置かせとくのか」
「見たなら、また来る」
ハンスは答えた。
「次に何を足すか見た方が早い」
母はまだ、浅い窪みの水を見ていた。
「ここには、暮らしがないね」
静かな声だった。
ロッタが顔を上げる。
「え」
「並びは似てる」
母は言う。
「でも、使われてない。井戸も、石槽も、桶も、ただ置いてあるだけだ」
ロッタはずっと黙っていた。
やがて、小さく言う。
「……練習されてるみたい」
誰もすぐには答えなかった。
ロッタはもう一度、今度は少し低く続けた。
「村の外で、私たちの手を並べ直されてるみたいで、気持ち悪い」
その声は震えていなかった。
泣いているわけでもない。
だから余計に、真ん中に落ちた。
母がロッタを見る。
でも、すぐに慰める言葉は出さない。
「うん」
短く頷く。
「気持ち悪いよ」
ロッタは唇を噛んだ。
「見てたんだ」
「見てた」
「今日のも?」
「たぶんね」
「……そっか」
それだけ言って、ロッタは自分の手を見た。
今朝、桶へ触れる前に少しだけ止まった指先。
その指が、今は何も持っていないのに固く見えた。
◇
村へ戻ってからも、いつもの役目は止めなかった。
火は生かす。
水は止めない。
北は空けない。
でも、そのたびにノアの頭の奥では、森の空き地がちらついた。
刺した枝。
麻紐の輪。
三つの石。
浅い水。
横倒しの器。
全部、見えていたものばかりだ。
だからこそ嫌だった。
それなのに、あの空き地には、喉を潤したあとの桶の重さもない。
それを思い出すたびに、ノアは背中の奥が冷えた。
◇
日が暮れる前、ハンスとディルはもう一度だけ北東を見に行った。
戻ってきた時、二人とも顔色は変わらなかった。
でも、ハンスが最初に言った言葉だけは短かった。
「水、減ってた」
ノアが顔を上げる。
「窪みの?」
「少しだけな」
「蒸発じゃなくて?」
ロッタが訊く。
「夕方だけであんな減り方はしねえ」
ハンスは答えた。
「誰かが触ってる」
それだけで十分だった。
向こうは昼のあとにも、もう一度あそこへ来た。
並べたものを見たのか。
直したのか。
それとも、ただ水に触れただけなのか。
わからない。
わからないままなのが、いちばん嫌だった。
◇
夜、ノアは井戸のそばに立っていた。
水面は静かだ。
風も弱い。
石槽も、暗がりの中ではただの影に見える。
村の形は今日も崩れていない。
それでも、森の外れに置かれた“村みたいなもの”が、頭から離れなかった。
月が少し高くなったころ、井戸の縁へ置いた手のひらに冷たさが染みてくる。
ノアは目を閉じなかった。
閉じると、あの空き地の浅い窪みが見える気がしたからだ。
井戸に似せた浅い水。
でも誰の喉も潤さない水。
村の中では今日も水が回った。
けれど森の空き地では、置かれた順のまま、使われない水だけが残っている。
ノアは井戸の縁に置いた手へ、もう片方の手を重ねた。
冷たい石の感触は変わらない。
月の下、村の外れの空き地で、いちばん井戸に似せられた浅い窪みの水だけが、今夜も誰にも使われないまま薄く光っている気がした。




