第59話 見せる手
朝、母は木釘に引っかかった半端な麻紐を、すぐには外さなかった。
井戸の前に立ったまま、それをしばらく見ている。
結び損ねた短い端は、夜の湿り気を吸って少しだけ重たく見えた。
ノアもその横に立つ。
向こうは来た。
けれど昨日は、最後まで形を揃えられなかった。
少し遅れて、ハンスが来た。
木釘の先に残った麻紐を見て、目だけで形をなぞる。
「失敗してるな」
「うん」
ノアは頷いた。
「来たけど、結びきれなかった」
「見えてる手だけじゃ足りなかったんだろうな」
母がそこで初めて口を開いた。
「なら、次は見せる手を選ぶ」
ノアは母を見た。
ハンスも、ほんの少しだけ眉を動かす。
「選ぶ?」
「写されるなら、何を写させるかこっちで決める」
母は木釘から麻紐を外した。
「本当に守る流れは見せない。その代わり、見せても困らない形だけ前へ出す」
向こうは見ている。
なら、見えるところに何を置くかもまた、守りになる。
◇
集会所へ集まったのは、いつもの役目持ちだった。
卓の上には、黒い石と布の切れ端。
その横へ、昨夜の麻紐が置かれている。
父が腕を組む。
「囮か」
「囮ってほど派手じゃない」
母が答えた。
「ただ、前へ出す手を決めるだけだよ」
ベルンが鼻を鳴らす。
「ややこしいな」
「今さらだ」
ディルが言う。
「覚えられた形をそのまま晒すよりはましだろ」
ロッタは麻紐を見ながら、小さく息を吐いた。
「わざと見せるって、どこまで?」
「結び方ひとつ」
母が答える。
「札を抜く順。手を止める場所。そういう“見えやすい手”だけ揃える」
「本当の流れは?」
ノアが訊く。
「別に持つ」
母は短く言った。
「昨日までと逆だよ。見えるところを揃えて、要るところは揃えない」
ハンスが麻紐を指で弾いた。
「いいな」
「何が」
ベルンが訊く。
「向こうが見て真似したくなる形を、こっちで前に置ける」
ハンスは言った。
「昨日は覗かれた。今日は選ばせる」
その言い方に、ノアの胸の奥が少しだけ動いた。
◇
昼前、井戸の前には、また麻紐の輪が掛けられた。
昨日までとは少し違う。
今度の輪は、結び目を木釘の真下へきっちり落とし、余った端もぴたりと同じ長さに揃えてある。
見ればすぐ覚えられる形だった。
だが、それを作ったのは母ひとりではない。
母が輪を作り、ノアが結び目を寄せ、ロッタが端を揃えた。
見た目はひとつの手だ。
けれど実際には、三つの手が継いでいる。
井戸の前では、札もまた同じだった。
母が腰紐から青札を抜く。
ロッタが受け取って示す。
下ろした札は、今度はノアが受ける。
昨日よりも、見た目は揃っている。
だが、揃っているのは表だけだ。
「やりにくいな」
ベルンが井戸の前を通りながら言った。
「慣れろ」
母が返す。
「今日は見せる日だよ」
ミリアは井戸の前で一度立ち止まり、麻紐の輪を見上げた。
「今日は掛けてる」
「そうだよ」
母が答える。
「昨日と違う?」
「違う」
「また変わる?」
「変わる」
ミリアは「ふうん」とだけ言って、すぐに走っていった。
村の者にとっては、その程度の違いだ。
けれど、見て覚える相手にとっては、その程度の違いこそ拾いたくなる。
ノアは井戸の縁に手を置いた。
水面は静かだった。
何も返さない。
その静けさの中で、今日は向こうを待っているのが自分たちの方だということだけが、少し妙だった。
◇
いちばん落ち着かない顔をしていたのは、ロッタだった。
札を示す高さが少しずれる。
麻紐の輪を見たあと、無意識に自分の手元を見てしまう。
「気になる?」
ノアが小さく訊くと、ロッタは口を尖らせた。
「気になる」
「うん」
「これ、見せてるんだよね」
「うん」
「見せたくないのに見せるの、変な感じ」
ノアは少しだけ笑いそうになったが、すぐにやめた。
「わかる」
「そっちは平気なの」
「平気じゃない」
「じゃあ同じだ」
ロッタは井戸脇の麻紐を見る。
「でも、真似されるなら、こっちで選んだ方がまだまし」
母がその横へ来た。
「それでいい」
「よくない」
ロッタはすぐ言い返す。
「気味悪い」
「うん」
母は頷いた。
「でも、何でも向こうに決められる方がもっと嫌だ」
そう言って、母は青札を抜いた。
今度はほんの少しだけ、わざと手を止める。
ロッタが受け取り、高く示す。
ノアが戻す。
止める位置。
受ける高さ。
戻す間。
見えやすい手だけが、ゆっくり揃えられていく。
◇
日が傾くころ、井戸脇の輪はそのまま残されていた。
誰も触らない。
けれど、そこにあるだけで目に入る形だった。
母は石槽を見に行き、ロッタは水樽の数を確かめ、ノアは井戸のそばを離れない。
火は生きている。
水は回っている。
北には見張りが混ざっている。
暮らしは崩れていない。
その表面だけが、今日はこちらの選んだ形になっていた。
ふいに、ディルが外れから戻ってくる足を止めた。
「……ノア」
低い声だった。
ノアはすぐには駆けない。
普通の歩幅で井戸脇へ寄る。
麻紐の輪は、見た目にはそのままだった。
けれど、結び目の裏に、もうひとつ浅い折り目がついている。
余った端も、昨日までなかった向きへ一度だけ撫でられた跡がある。
母が近づき、輪を見上げた。
触れない。
ただ、目だけで追う。
「……なぞってる」
母が言った。
「真似じゃない」
ハンスが背後から低く続ける。
「確認だ」
ノアは輪から目を離せなかった。
向こうは来た。
触れた。
でも、置いた形をそのまま持っていけたわけじゃない。
「乗ったな」
ベルンが嫌そうに言う。
「うん」
ディルが答える。
「見た」
「でも、持っていけてねえ」
ハンスが輪を見たまま言った。
「今のところはな」
ノアは木釘の先を見る。
輪はそこにある。
けれど、あれはもう“村のいつも”ではない。
こちらが前へ出した形だ。
向こうはそれに触れた。
確かめた。
でも、奥まではまだ届いていない。
◇
夜、麻紐の輪は外された。
火は生きていた。
水は回っていた。
北には見張りが混ざっている。
村の形は、今日も崩れていない。
ノアは暗い井戸のそばに立ち、木釘の先を見ていた。
今夜そこには何も掛かっていない。
けれど昼の輪の感触だけが、まだその場所に残っている気がした。
向こうは来た。
見せた手に触れた。
でも、村の中で本当に動いている流れまでは持ち帰れなかった。
井戸の水面は静かだった。
風も弱い。
何もない木釘の先で、月の光だけが薄く揺れている。
ノアは井戸の縁に手を置いた。
冷たい石の感触は、今日も変わらない。
その変わらなさの上へ、変えるべきものだけを重ねていく。
そうしてようやく、触れられても持ち去られない形が残るのかもしれない。
月の下で何も掛かっていない木釘だけが、昼に一度見せた形の名残みたいに、静かに光っていた。




