第58話 写された手
朝、ノアは井戸脇の杭に掛かった麻紐の輪を見て、昨日までとは違う冷たさを覚えた。
輪そのものは、ただの麻紐だ。
青札を杭から外して以降、誰かが触れたかどうかを見るためだけに、母が昨日から掛けていたものだった。
けれど今朝、それは昨日の形ではなかった。
結び目が少し左へ寄っている。
余った端は、長さまで揃っていた。
ただ触っただけではこうならない。
ノアが見ているうちに、母も井戸の前で足を止めた。
しばらく何も言わない。
それから、輪の余りを指先でつまむ。
「……私のやり方だね」
低い声だった。
ノアの喉が少し渇く。
「見てたんだ」
「うん」
母は紐から手を離した。
「札だけじゃない。手つきも」
ロッタが遅れて来て、輪を見上げた。
「戻したの?」
「戻した」
母は答えた。
「しかも、真似して」
その言葉だけで、昨日までとは違う嫌さが村へ落ちた気がした。
◇
集会所へ集まったのは、いつもの役目持ちだった。
卓の上には黒い石と布の切れ端。
その脇へ、外してきた麻紐の輪が置かれている。
ハンスが輪を持ち上げた。
指で結び目を転がし、短く息を吐く。
「雑じゃねえな」
「うん」
ノアは頷いた。
「見よう見まねじゃない。何回か見てる形だ」
ベルンが顔をしかめる。
「気味悪ぃな。今度は手か」
「物より嫌だ」
ディルが言った。
「置き方や向きならまだ変えられる。手つきまで見られてたら、癖そのものだ」
父が腕を組む。
「どこまで見られてる」
「わからない」
ノアは正直に答えた。
「でも、少なくとも井戸の前で母さんがどう紐を扱うかまでは見てる」
母は麻紐を見たまま言った。
「なら、形だけ変えても足りないね」
誰もすぐには返せなかった。
杭に掛ける向き。
札の置き場所。
桶の並び。
それをずらしても、同じ人間が同じ手で扱っていれば、そこに“いつも”が残る。
「じゃあどうする」
父が問う。
母は顔を上げた。
「ひとりで終わらせない」
ノアはその言葉を頭の中で反芻する。
母は続けた。
「紐を掛けるなら、掛け始める手と終える手を分ける。札を上げるなら、抜く人と示す人を分ける。井戸も石槽も、ひとつの手つきで済ませない」
「手そのものを揃えないってことか」
ロッタが言う。
「そう」
母は頷いた。
「写されるなら、写せない形にする」
ハンスが小さく笑った。
「いいな。それなら覚えにくい」
◇
昼前、井戸の前ではいつもよりぎこちない動きが続いていた。
母が腰紐から青札を抜く。
だが上げるのはロッタだ。
ロッタが札を高く示し、下ろしたところで、今度は母が受け取る。
麻紐の輪も同じだった。
結び始めるのは母。
締めるのはノア。
外すのはまた別の手。
ひとつひとつは大した動きではない。
けれど、途中で手が替わるだけで、見た目の流れが少しずつ途切れる。
ベルンが井戸の前を通りながら、面倒そうに鼻を鳴らした。
「やりにくいな」
「やりにくくていい」
母が返す。
「向こうが覚える方がもっと嫌だ」
エンツは火床の薪を積み直しながら、何度も井戸の方を見ていた。
ミリアは「今日は誰が札持つの」と二回訊いて、二回とも違う答えを返され、最後は首を傾げてどこかへ走っていった。
村の形は保たれている。
けれど、その表面だけが微妙に噛み合わない。
ノアは井戸の縁に手を置いた。
冷たい石の感触はいつもと同じだ。
ただ、その同じ石の前で動く手だけが、今日はひとつに揃わない。
◇
いちばん苦い顔をしていたのは、ロッタだった。
札を受け取るタイミングを一度外し、麻紐の輪を戻す手がノアと重なる。
それだけで頬が少し強張る。
「難しい?」
ノアが訊くと、ロッタは眉を寄せたまま頷いた。
「いつもの方が早い」
「うん」
「手が止まると、変な感じがする」
「うん」
「でも」
ロッタは井戸脇の杭を見たあと、すぐに母の手へ視線を戻した。
「真似されるよりはまし」
母がそれを聞いて、小さく息を吐いた。
「十分だよ」
「十分って顔じゃない」
「最初から上手くやれる方が気味悪い」
ロッタは少しだけ笑って、それから青札を受け取った。
今度は前より短い迷いで、高く上げる。
母の手が止まり、ノアの手が継ぎ、ロッタが戻す。
ぎこちなさはまだある。
でも、そのぎこちなさそのものが、今日は守りになっている気がした。
◇
日が傾くころ、井戸脇の杭はまた空のままだった。
何も掛かっていない。
それでもノアは、その何もない場所から目を離せなかった。
昨日、向こうはそこに掛かるはずのものを探しに来た。
今日は、掛かるものだけじゃなく、動く手の流れまでずらしてある。
見ているなら、きっと気づく。
ロッタが石槽の方から戻ってきた時、ふいに足を止めた。
「……あれ」
ノアもそちらを見る。
杭の根元に、麻紐の端が少しだけ垂れていた。
掛けた覚えのない短い切れ端だ。
しかもただ落ちているのではない。
木釘へ一度巻こうとして、途中でやめたみたいに、半端な位置で引っかかっている。
母が近づく。
誰もすぐには触れない。
ハンスが目だけで形を追って、低く言った。
「結べてねえな」
「うん」
ノアは答えた。
「結び方がない」
母が昨日までの自分の結び方を崩した。
ノアが途中を継ぎ、ロッタが受けた。
今日そこには、写せるひとつの手がなかった。
だから向こうは、来たのに、残せなかった。
ベルンが息を吐いた。
「気味悪ぃままだな」
「うん」
ディルが答える。
「でも、昨日とは違う」
ノアは木釘の先を見る。
月の前の薄明かりの中で、半端な麻紐の端がわずかに揺れていた。
触れた。
けれど、揃えられなかった。
それだけで、胸の奥の噛み合いが少しだけ変わる。
◇
夜、火は生きていた。
水は回っていた。
北には見張りが混ざっている。
村の形は、今日も崩れていない。
ノアは暗い井戸のそばに立ち、木釘に残った半端な麻紐を見ていた。
完成しなかった輪。
途中で止まった手。
そこまで来て、同じ形には届かなかった痕。
井戸の水面は静かだった。
風も弱い。
何も掛かっていない杭の先で、その短い麻紐だけが、触れようとして触れきれなかったものみたいに揺れている。
向こうは来た。
でも今日は、村の“いつも”をそのままは持ち帰れなかった。
ノアは井戸の縁に手を置いた。
冷たい石の感触は変わらない。
けれど今夜の村には、昨日までとは違う守り方がひとつ増えていた。
揃わないこと。
途切れること。
ひとつの手で終わらせないこと。
何も掛かっていない杭の先で、結び損ねた麻紐だけが、月の下で小さく揺れていた。




