第57話 意味を散らす
朝、ノアは井戸脇の杭を見て、足を止めた。
木釘の表面に、薄い白い擦れ跡が残っている。
爪で軽く引っかいたような、細い筋だ。
母もすぐ横へ来て、その跡を見た。
「昼にはなかった」
ノアが言う。
母は頷いたが、すぐには触れなかった。
しばらく見てから、ようやく指先で木釘の脇をなぞる。
「来たんだね」
「うん」
「何もないのを見た」
母はそう言って、少しだけ目を細めた。
「空っぽのままでも駄目か」
ノアが小さく言うと、母は首を振る。
「空っぽも、もう形になった」
その言い方に、ノアは息を止めた。
札を掛ける形を崩した。
けれど今度は、何も掛かっていないこと自体が、向こうにとっての“いつも”になりかけている。
守るために空けた場所が、また見られる場所になっていた。
◇
集会所には、いつもの役目持ちが集まっていた。
卓の上には布の切れ端と黒い石。
火床の赤は低く生き、エンツが薪を寄せるたび、小さく揺れる。
母が木釘の擦れ跡のことを話すと、ベルンが露骨に顔をしかめた。
「空でも見に来るのかよ」
「空だからだろ」
ハンスが短く言う。
「あそこが目印のままなんだ」
父が腕を組む。
「札を隠したら、今度は何もないことを確かめに来たってわけか」
「たぶん」
ノアは頷いた。
「まだ、あそこに意味があると思ってる」
しばらく沈黙が落ちる。
そのあと、ノアは言った。
「じゃあ、意味を散らそう」
ディルが顔を上げる。
「散らす?」
「空のままにしない。でも、札の場所にも戻さない」
ノアは木釘の方を思い浮かべた。
「掛かるものを一つにしない」
ベルンが眉をひそめる。
「余りもの置き場にするってことか」
「そんなところ」
「気に食わねえな」
ベルンは吐き捨てるように言った。
「あそこだけは、ちゃんとして見えててほしい」
「井戸の前まで崩れたら、村まで崩れたみてえだ」
誰もすぐには返さなかった。
その沈黙を割ったのは母だった。
「ちゃんとしてるよ」
静かな声だった。
「見え方を崩すだけだ」
ベルンはまだ不満そうだったが、黙った。
ロッタが青札の入った布包みを見た。
「札は昨日と同じ?」
「同じだよ」
母が答える。
「持つ人を変える。出す時だけ出す。そこは続ける」
ハンスが火床の方を見たまま言う。
「揃えないだけじゃ足りねえなら、混ぜる」
「うん」
ノアは答えた。
「見たいものだけ、見つけにくくする」
◇
昼前、井戸脇の杭には、青札ではなく濡れた布が掛かっていた。
朝の洗い物で使った、小さな麻布だ。
端が少しほつれていて、水を含んだぶんだけ重く垂れている。
その布はしばらくして外された。
代わりに掛けられたのは、短い麻紐の輪だった。
井戸脇の見え方が、半日も経たないうちに変わる。
ミリアが木釘を見上げて首を傾げた。
「今日は、いろいろ掛かってるね」
「そうだよ」
母が答える。
「なんで?」
「使ったから」
「ふうん」
それだけで、ミリアはもう気にしなかった。
そのまま水樽の方へ走っていく。
ベルンは井戸の前を通るたびに、まだ居心地悪そうな顔をした。
「村じゃねえみたいだな」
「そう見えれば十分だ」
ハンスが答える。
「見てるだけのやつにはな」
母はそれを聞きながら、腰の内側に差した青札を指先で確かめる。
必要な時だけ抜く。
終わればまた戻す。
◇
いちばん最初に困ったのは、やっぱりロッタだった。
昼のあと、石槽のそばで何度も井戸脇の杭を見てしまう。
見るたびに、掛かっているものが違う。
そのたびに、少しだけ眉が寄る。
「見ちゃう?」
ノアが声をかけると、ロッタは苦い顔で頷いた。
「見る」
「うん」
「見ても、わかんない」
「うん」
「それが落ち着かない」
「向こうもそうなる」
「……それは、わかる」
ロッタは小さく息を吐いた。
「でも、こっちまでそうなるの嫌だ」
「村の中まで、知らない場所みたいになる」
その言い方に、ノアは答えなかった。
答えられなかった。
母がふたりの横へ来る。
青札はまだ腰の内側だ。
「嫌でいいよ」
母は石槽を見てから、井戸へ目をやった。
「嫌でも見るんだ」
ロッタは黙る。
「向こうは杭を見る。あんたは私を見る」
母は言った。
「形がずれても、やることまで消えるわけじゃない」
そう言って、母は青札を抜いた。
左手で高く上げる。
ロッタは一瞬だけ杭を見そうになって、止めた。
母の手を見る。
石槽へ動く。
止まる。
戻る。
ぎこちなさはまだある。
でも、迷いは昨日より短かった。
そのかわり、動き終わったあとも、肩の強ばりだけが少し残っていた。
◇
午後、村のあちこちに、意味の薄いものが増えた。
井戸脇の杭には、乾かし途中の布。
集会所の戸口には、結び直す前の縄。
石槽の脇には、あとで使うだけの空の桶。
どれも、あってもなくても暮らしは回る。
けれど、見れば何か意味がありそうに見える。
ミナ婆が干し布を竿へ渡しながら笑った。
「なんだか今日は、村じゅうが余りものだらけだねえ」
「余ってるように見えれば十分だ」
ハンスが答える。
父が木片を削る手を止めずに言う。
「決まりは芯に残して、表は散らす」
ノアは井戸の縁へ手を置いた。
冷たい石の感触は変わらない。
水も静かに回っている。
必要なものは、崩れていない。
それでも、見える形がばらけているだけで、村は少し落ち着かなく見えた。
守るために崩しているのに、崩れて見える。
その噛み合わなさが、まだ身体のどこかに引っかかっていた。
◇
日が傾くころ、井戸脇の杭には細い麻紐の輪が掛かっていた。
朝の濡れ布でもない。
ただ、そこに掛けておいても誰も困らない、使いかけの短い紐だ。
ロッタは一度だけそれを見たが、すぐに視線を外した。
母の手を見る。
青札は腰の内側。
上げる時だけ出る。
迷いはまだ残る。
でも、もう杭に答えを求めてはいなかった。
ノアはその様子を見ながら、昨日までとは違う静けさを感じていた。
向こうが知っていた“正しい形”は、もうそこにはない。
あるのは、意味がありそうで、別に意味のないものばかりだ。
◇
夜、村が静まってから、ノアはひとりで井戸のそばへ立った。
風は弱い。
井戸の水面は暗く、木釘の先にだけ月の光がかすかに乗っている。
麻紐の輪が、ほとんど揺れずに掛かっていた。
ノアは昼に見た向きを思い出す。
輪の結び目は、たしか木釘の右側へ寄っていた。
今は、左へ寄っている。
ほんの少しだ。
見落とす者は、そのまま通り過ぎるくらいのずれだった。
ノアは動かなかった。
触れない。
呼ばない。
ただ、見る。
向こうは来た。
来て、そこに札がないことを知った。
それでも、手は木釘へ伸びた。
昼には、輪の結び目は右へ寄っていた。
今は左へ寄っているだけじゃない。
余りの端まで、母が紐を片づける時と同じ向きにきれいに揃っていた。
ノアの喉が、そこで初めてひどく乾いた。
月の下で、意味のない麻紐の輪だけが、誰かの指で一度ほどかれ、結び直されたみたいに、かすかに形を変えていた。




