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外れスキル《導き》を授かった俺、辺境の村を最強にする 〜みんなの可能性が見える力で、今度こそ誰かの役に立てる〜  作者: 冬月 しるべ
第八章 継ぎ目の外

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第57話 意味を散らす


 朝、ノアは井戸脇の杭を見て、足を止めた。


 木釘の表面に、薄い白い擦れ跡が残っている。

 爪で軽く引っかいたような、細い筋だ。


 母もすぐ横へ来て、その跡を見た。


「昼にはなかった」

 ノアが言う。


 母は頷いたが、すぐには触れなかった。

 しばらく見てから、ようやく指先で木釘の脇をなぞる。


「来たんだね」

「うん」

「何もないのを見た」


 母はそう言って、少しだけ目を細めた。


「空っぽのままでも駄目か」

 ノアが小さく言うと、母は首を振る。


「空っぽも、もう形になった」


 その言い方に、ノアは息を止めた。


 札を掛ける形を崩した。

 けれど今度は、何も掛かっていないこと自体が、向こうにとっての“いつも”になりかけている。


 守るために空けた場所が、また見られる場所になっていた。


     ◇


 集会所には、いつもの役目持ちが集まっていた。


 卓の上には布の切れ端と黒い石。

 火床の赤は低く生き、エンツが薪を寄せるたび、小さく揺れる。


 母が木釘の擦れ跡のことを話すと、ベルンが露骨に顔をしかめた。


「空でも見に来るのかよ」

「空だからだろ」

 ハンスが短く言う。

「あそこが目印のままなんだ」


 父が腕を組む。


「札を隠したら、今度は何もないことを確かめに来たってわけか」

「たぶん」

 ノアは頷いた。

「まだ、あそこに意味があると思ってる」


 しばらく沈黙が落ちる。


 そのあと、ノアは言った。


「じゃあ、意味を散らそう」


 ディルが顔を上げる。


「散らす?」

「空のままにしない。でも、札の場所にも戻さない」

 ノアは木釘の方を思い浮かべた。

「掛かるものを一つにしない」


 ベルンが眉をひそめる。


「余りもの置き場にするってことか」

「そんなところ」

「気に食わねえな」

 ベルンは吐き捨てるように言った。

「あそこだけは、ちゃんとして見えててほしい」

「井戸の前まで崩れたら、村まで崩れたみてえだ」


 誰もすぐには返さなかった。


 その沈黙を割ったのは母だった。


「ちゃんとしてるよ」

 静かな声だった。

「見え方を崩すだけだ」


 ベルンはまだ不満そうだったが、黙った。


 ロッタが青札の入った布包みを見た。


「札は昨日と同じ?」

「同じだよ」

 母が答える。

「持つ人を変える。出す時だけ出す。そこは続ける」


 ハンスが火床の方を見たまま言う。


「揃えないだけじゃ足りねえなら、混ぜる」

「うん」

 ノアは答えた。

「見たいものだけ、見つけにくくする」


     ◇


 昼前、井戸脇の杭には、青札ではなく濡れた布が掛かっていた。


 朝の洗い物で使った、小さな麻布だ。

 端が少しほつれていて、水を含んだぶんだけ重く垂れている。


 その布はしばらくして外された。

 代わりに掛けられたのは、短い麻紐の輪だった。


 井戸脇の見え方が、半日も経たないうちに変わる。


 ミリアが木釘を見上げて首を傾げた。


「今日は、いろいろ掛かってるね」

「そうだよ」

 母が答える。

「なんで?」

「使ったから」

「ふうん」


 それだけで、ミリアはもう気にしなかった。

 そのまま水樽の方へ走っていく。


 ベルンは井戸の前を通るたびに、まだ居心地悪そうな顔をした。


「村じゃねえみたいだな」

「そう見えれば十分だ」

 ハンスが答える。

「見てるだけのやつにはな」


 母はそれを聞きながら、腰の内側に差した青札を指先で確かめる。

 必要な時だけ抜く。

 終わればまた戻す。


     ◇


 いちばん最初に困ったのは、やっぱりロッタだった。


 昼のあと、石槽のそばで何度も井戸脇の杭を見てしまう。

 見るたびに、掛かっているものが違う。

 そのたびに、少しだけ眉が寄る。


「見ちゃう?」

 ノアが声をかけると、ロッタは苦い顔で頷いた。


「見る」

「うん」

「見ても、わかんない」

「うん」

「それが落ち着かない」

「向こうもそうなる」

「……それは、わかる」


 ロッタは小さく息を吐いた。


「でも、こっちまでそうなるの嫌だ」

「村の中まで、知らない場所みたいになる」


 その言い方に、ノアは答えなかった。

 答えられなかった。


 母がふたりの横へ来る。

 青札はまだ腰の内側だ。


「嫌でいいよ」

 母は石槽を見てから、井戸へ目をやった。

「嫌でも見るんだ」


 ロッタは黙る。


「向こうは杭を見る。あんたは私を見る」

 母は言った。

「形がずれても、やることまで消えるわけじゃない」


 そう言って、母は青札を抜いた。

 左手で高く上げる。


 ロッタは一瞬だけ杭を見そうになって、止めた。


 母の手を見る。

 石槽へ動く。

 止まる。

 戻る。


 ぎこちなさはまだある。

 でも、迷いは昨日より短かった。


 そのかわり、動き終わったあとも、肩の強ばりだけが少し残っていた。


     ◇


 午後、村のあちこちに、意味の薄いものが増えた。


 井戸脇の杭には、乾かし途中の布。

 集会所の戸口には、結び直す前の縄。

 石槽の脇には、あとで使うだけの空の桶。


 どれも、あってもなくても暮らしは回る。

 けれど、見れば何か意味がありそうに見える。


 ミナ婆が干し布を竿へ渡しながら笑った。


「なんだか今日は、村じゅうが余りものだらけだねえ」

「余ってるように見えれば十分だ」

 ハンスが答える。


 父が木片を削る手を止めずに言う。


「決まりは芯に残して、表は散らす」


 ノアは井戸の縁へ手を置いた。


 冷たい石の感触は変わらない。

 水も静かに回っている。


 必要なものは、崩れていない。


 それでも、見える形がばらけているだけで、村は少し落ち着かなく見えた。

 守るために崩しているのに、崩れて見える。

 その噛み合わなさが、まだ身体のどこかに引っかかっていた。


     ◇


 日が傾くころ、井戸脇の杭には細い麻紐の輪が掛かっていた。


 朝の濡れ布でもない。

 ただ、そこに掛けておいても誰も困らない、使いかけの短い紐だ。


 ロッタは一度だけそれを見たが、すぐに視線を外した。

 母の手を見る。

 青札は腰の内側。

 上げる時だけ出る。


 迷いはまだ残る。

 でも、もう杭に答えを求めてはいなかった。


 ノアはその様子を見ながら、昨日までとは違う静けさを感じていた。


 向こうが知っていた“正しい形”は、もうそこにはない。

 あるのは、意味がありそうで、別に意味のないものばかりだ。


     ◇


 夜、村が静まってから、ノアはひとりで井戸のそばへ立った。


 風は弱い。

 井戸の水面は暗く、木釘の先にだけ月の光がかすかに乗っている。


 麻紐の輪が、ほとんど揺れずに掛かっていた。


 ノアは昼に見た向きを思い出す。

 輪の結び目は、たしか木釘の右側へ寄っていた。


 今は、左へ寄っている。


 ほんの少しだ。

 見落とす者は、そのまま通り過ぎるくらいのずれだった。


 ノアは動かなかった。


 触れない。

 呼ばない。

 ただ、見る。


 向こうは来た。


 来て、そこに札がないことを知った。

 それでも、手は木釘へ伸びた。


 昼には、輪の結び目は右へ寄っていた。

 今は左へ寄っているだけじゃない。

 余りの端まで、母が紐を片づける時と同じ向きにきれいに揃っていた。


 ノアの喉が、そこで初めてひどく乾いた。


 月の下で、意味のない麻紐の輪だけが、誰かの指で一度ほどかれ、結び直されたみたいに、かすかに形を変えていた。

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