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外れスキル《導き》を授かった俺、辺境の村を最強にする 〜みんなの可能性が見える力で、今度こそ誰かの役に立てる〜  作者: 冬月 しるべ
第八章 継ぎ目の外

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第56話 揃えない形


 朝、母は戻された青札をしばらく洗っていた。


 井戸の水を張った桶に沈め、布でこすり、紐まで指で撫でる。

 泥も、指の跡も、目に見えるものはもう残っていない。


 それでも、母はすぐには井戸脇の杭へ掛けなかった。


 青札を膝に置いたまま、集会所の戸口から井戸を見ている。

 その横顔は静かだったが、静かなぶんだけ、昨夜からの嫌さがまだ残っているのがわかった。


「掛けないの」

 ロッタが小さく訊いた。


 母は少しだけ考えて、それから首を振る。


「今日は、ここには掛けない」


 ノアはその言葉で顔を上げた。


     ◇


 集会所には、いつもの役目持ちが集まっていた。


 卓の上には、布の切れ端と黒い石。

 その脇に、洗ったばかりの青札。

 火床の赤は低く生きていて、エンツがときどき目をやっている。


「戻されたのは札だけだ」

 父が言った。

「でも、見られてるのは札だけじゃねえ」


 誰もすぐには答えなかった。


 井戸脇の札の向き。

 母の手つき。

 村の“いつも”。


 向こうはそこを見て、覚えて、何もなかったみたいに戻してきた。


「決まりは残す」

 ノアが言った。

「でも、癖は残さない」


 ベルンが眉をひそめる。


「どう違う」

「火を絶やさない、水を止めない、北を空けない」

 ノアは卓の上の青札を見た。

「そこは変えない。でも、札をどこに掛けるか、桶をどっちへ並べるか、誰がどの順番で手を出すか、そういう“いつも”は一つにしない」


 ディルが腕を組む。

「揃えないってことか」

「うん」

「ややこしくならねえか」

「なる」

 ノアは正直に答えた。

「でも、覚えられたままの方がもっと嫌だ」


 母が青札を持ち上げた。


「見るべきものを、杭から人に戻すよ」


 短い声だったが、よく通った。


「札は掛けっぱなしにしない。上げる時だけ出す。終わったら戻す」

「じゃあ、井戸番の人が持つのかい」

 ミナ婆が訊く。

「今日は私。明日はロッタ。その次はまた変える」

 母は答えた。

「意味は同じ。見せ方だけ変える」


 ロッタが少しだけ唇を結ぶ。


「……覚えられるかな」

「覚えるんじゃないよ」

 母が言う。

「見るんだよ。札がどこにあるかじゃなく、今、誰の手にあるかを」


 その言葉は、ロッタだけじゃなく、ノアの胸にも落ちた。


     ◇


 昼前、井戸の前の見え方が少しだけ変わった。


 青札は杭に掛かっていない。

 母の腰紐の内側へ差し込まれ、必要な時だけ抜かれる。


 赤札は石槽の裏の布袋へ入れた。

 ロッタが袋の口を縛り、使う時だけそこから取り出す。


 井戸脇の杭には、何も掛かっていない。


 空っぽの木釘だけが、昼の光の中へ小さく突き出ていた。


 見慣れていたはずの場所が、何もないだけで妙に心細く見える。


「変な感じだな」

 ベルンが井戸の前を通りながら言った。

「慣れろ」

 母が返す。

「慣れた頃にまた変える」


 エンツは火床の薪を積み直しながら、時々井戸の方を見る。

 ミリアは二回ほど「あれ、札どこ?」と訊いて、結局「ふうん」で済ませた。

 村の者たちは少しだけきょろきょろしたが、何かが大きく乱れるほどではなかった。


 暮らしは回る。


 ただ、その回り方の表面だけが、昨日までと違っていた。


     ◇


 いちばん困った顔をしたのは、ロッタだった。


 昼のあと、石槽のそばで水樽を見ながら、何度も井戸脇の杭へ視線が行く。

 何も掛かっていないたびに、少しだけ肩が強張る。


「見ちゃう?」

 ノアが声をかけると、ロッタは苦い顔で頷いた。


「見る。勝手に」

「うん」

「札があそこにないと、今どっちなのかわかんなくなる気がする」


 ノアは少し考えてから言った。


「じゃあ、札じゃなくて順番を見る」

「順番?」

「母さんが先に何を見たか。樽か、井戸か、石槽か」

 ロッタは黙った。

 ノアは続ける。

「札が杭にあるかどうかじゃなくて、今どこから始めたか」

「……そんなの、見てる余裕ない時もある」

「ある」

「じゃあ無理じゃん」

「無理じゃない」


 今度は母が来た。


 青札はまだ腰に差したままだ。

 母はロッタの横へ立って、石槽を一度見てから、井戸へ目をやる。


「今、何から見た?」

 ロッタは少し考えて、答える。

「石槽」

「そう。札が見えなくても、最初にどこを見たかは消えない」

 母は言った。

「向こうは杭を見てる。あんたは私を見る」


 ロッタはしばらく黙っていた。

 それから小さく頷く。


「わかった」

「ほんとに?」

「半分」

「それで十分」


 母はそれだけ言って、青札を抜いた。

 左手で高く上げる。


 ロッタは今度、杭を見なかった。


 母の手を見る。

 石槽へ動く。

 止まる。

 戻る。


 ぎこちなさはまだ残る。

 でも、さっきより迷いは短かった。


     ◇


 午後、村の中の小さな“いつも”が、少しずつずらされた。


 井戸の柄杓は右ではなく左へ置いた。

 洗った椀は三枚重ねではなく、二枚と一枚に分けた。

 薪束は集会所の壁沿いではなく、戸口の陰へ半分だけ寄せた。

 石槽の横の桶も、今日はきっちり揃えず、一つだけ間を空けた。


 どれも小さい。

 暮らしに困るほどではない。

 でも、見て覚える者にとっては、昨日までの“普通”が役に立たなくなる程度には違う。


 ミナ婆が干し布を広げながら笑った。


「なんだか村じゅうが落ち着かないねえ」

「落ち着かなくていい」

 ハンスが答える。

「向こうが落ち着くよりはな」


 ベルンは薪束を抱えたまま鼻を鳴らした。


「気に食わねえが、理屈はわかる」

「気に食わないくらいでちょうどいい」

 ディルが言う。

「慣れすぎると、また覚えられる」


 ノアは井戸の縁へ手を置き、静かな水面を見た。


 変えてもいいのだ。


 少なくとも、杭に札を掛ける向きや、桶の並び方までは求められていない。

 そこが少しだけ救いだった。


     ◇


 日が傾くころ、母はいつもより遅れて青札を上げた。


 ロッタは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに母の手を見て動いた。

 石槽へ。

 確認。

 戻る。


 迷いはまだある。

 でも、杭は見ない。


 ノアはその様子を見ていた。


 向こうが覚えた“正しい向き”は、もうそこにはない。

 あるのは、動く人と、手の中にある札だけだ。


 その時だった。


 井戸の前を通りかかったミリアが、何も掛かっていない木釘を指さした。


「これ、今日はずっと空っぽなんだね」

「そうだよ」

 母が答える。

「なんで?」

「今日はそうする日だから」

「また変わる?」

「変わる」

「ふうん」


 ミリアはそれで満足したらしく、すぐにエンツのいる集会所へ走っていった。


 ノアはその背中を見送りながら、少しだけ息を吐いた。


 子どもには“今日はそうする日”で足りる。

 それでいい。


     ◇


 夜、井戸脇の杭は最後まで空っぽのままだった。


 青札は母の腰にあり、赤札は布袋に入っている。

 火は生きていて、水は回っていて、北には見張りが混ざっている。


 村の形は、今日も崩れていない。


 ノアは暗い井戸のそばに立ち、何も掛かっていない杭を見ていた。


 昨日なら、あそこに札があった。

 向こうはそれを見て、触って、元に戻してきた。


 でも今日は、何もない。


 見えるはずの“いつも”が、そこにはない。


 井戸の水面は静かだった。

 風も弱い。

 木釘の先にだけ、かすかな月の光が乗っている。


 しばらくして、ノアはその木釘の表面に、小さな擦れ跡が増えているのに気づいた。


 爪で軽く引っかいたような、薄い白い筋だ。

 昼にはなかった。


 ノアは動かなかった。


 触れない。

 呼ばない。

 ただ、見る。


 向こうは来た。

 来て、そこにあるはずのものがないことを知った。


 井戸の縁に手を置く。


 冷たい石の感触は変わらない。


 けれど今夜のノアには、何も掛かっていないその杭の方が、昨日の札より少しだけ守られているように見えた。


 何も掛かっていない杭の先で、月の光だけが、触れ損ねたものみたいにかすかに揺れていた。

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