第55話 戻された札
朝、母は井戸の前で足を止めた。
桶でもない。
水でもない。
井戸脇の杭に掛けてある青札を見たまま、しばらく動かなかった。
「どうしたの」
ノアが声をかけると、母は札を指さした。
「あれ、私が掛けた向きじゃない」
青札は薄い木片だった。
上の穴に紐を通し、井戸脇の木釘に掛けて使う。
水樽の数を見たあと、母はいつも、切り欠きのある角を右下へ向けて掛けている。
今朝、その切り欠きは左上を向いていた。
ただ裏返っただけではない。
紐の撚りまで逆になっている。
ノアは札へ近づいた。
昨日の夕方、確かに母が掛けていた。
ロッタもそのあと一度見ている。
夜のあいだ、井戸のそばへ来る用事があった者はいない。
「風じゃないね」
ロッタが低く言った。
母は無言で頷き、木札を摘んで外した。
紐を指でなぞり、目を細める。
「触ってる」
母が言った。
「一度抜いて、掛け直してる」
ノアの背に、冷たいものが落ちた。
石だけじゃない。
向こうはもう、村の中で毎日繰り返している手つきまで見ている。
◇
集会所へ集まったのは、いつもの顔ぶれだった。
卓の上には、布の切れ端と黒い石。
その横に、外してきた青札が置かれている。
ベルンが札を睨んだ。
「気味が悪いな」
父が低く言う。
「誰かが村の中まで入ったってことか」
「そこまでは言い切れない」
ハンスが札を取り、紐の通りを確かめる。
「けど、触れる距離には来てる」
ディルが眉を寄せた。
「石柱のところで返してきただけじゃなかったってことか」
「たぶん」
ノアは答えた。
「見てるだけじゃない。こっちの形を覚えてる」
母が静かに言う。
「触られたのは、この札だけ?」
「今のところは」
ロッタが答えた。
「でも、見つけたのがこれだけってだけかもしれない」
しばらく、誰も喋らなかった。
石を返してきた。
今度は札を掛け直した。
どちらも小さい。
けれど、小さいからこそ嫌だった。
騒がせるほど大きなことはしない。
こっちが気づいた時だけ、気づくように触る。
「直すか」
父が言う。
母は青札を見たまま、首を振った。
「直す」
少し間を置いて続ける。
「でも、それだけで終わらせたくない」
ハンスが目を細めた。
「返すか」
「返さない」
母は即座に言った。
「ただ、こっちも一回ずらす」
卓の上の空気が、そこで少し変わった。
◇
昼前、井戸の前で、母は青札を掛け直した。
いつもと同じ木釘。
同じ紐。
でも、向きだけを変える。
切り欠きのある角を、左下へ向けた。
村の者なら見ればすぐ違和感に気づく。
けれど、意味を持って見ていなければ、見落とす程度のずれだった。
「これでいい」
母が言う。
その向きを覚えるのは、ノアとロッタ、それにハンスだけ。
ほかには言わない。
ミリアは井戸のそばを通りかかった時に首を傾げたが、母に呼ばれてすぐ走っていった。
エンツは火床の薪を運ぶのに忙しく、青札までは見ていない。
暮らしはそのまま回る。
けれどノアには、井戸の前の小さな札だけが妙に目立って見えた。
◇
午後、見張りは昨日と同じように混ぜられた。
ディルが縄を持って外れへ出る。
ベルンが薪束を担ぐ。
ロッタは石槽の水を見て、母は札を上げ下ろし、エンツは火床を整える。
何も変わっていないように見える。
見えるだけで、みんな少しずつ張っていた。
ノアも井戸のそばを離れない。
青札は昼の風の中で、小さく揺れている。
左下。
いつもではない向き。
何度も目で確かめながら、見すぎないようにする。
見ていると知られたくなかった。
井戸の縁に手を置く。
冷たい石の感触は変わらない。
水面も静かだ。
黒い石を近づけた時のような返りもない。
平常に見える。
けれど、見ている相手がいる。
それがわかっている平常は、もう前と同じじゃなかった。
◇
日が傾き始めたころ、ロッタが先に井戸へ戻った。
青札を見た瞬間、顔が止まる。
「ノア」
低い声だった。
それだけで、ノアはもうわかった。
井戸へ走らない。
早足にもならない。
普通の歩幅で寄る。
青札は、いつもの向きに戻っていた。
切り欠きのある角が、右下を向いている。
母が何も言わずに近づいてくる。
札を見て、目だけが硬くなった。
「……触ってる」
いつの間にか背後にいたハンスが言った。
母は札に触れなかった。
ただ、見た。
「私が昼に掛けた向きじゃない」
「うん」
ノアの喉は少し詰まっていた。
「戻されてる」
ディルも戻ってきて、井戸の前で足を止める。
「何だ」
「札だ」
ベルンが先に言った。
「戻されてる」
誰も大声を出さない。
けれど、その静けさの方が嫌だった。
向こうは見ていた。
ずれたことに気づいた。
そして、何もなかったみたいに戻した。
村の“いつも”を、向こうが知っている。
ノアは青札を見たまま、指先が冷えていくのを感じていた。
石を返してきた時より、こっちの方が近い。
あれは外から置かれたものだった。
でも、これは違う。
村が毎日繰り返している形の中へ、黙って手を入れられている。
「直すな」
ハンスが言った。
母が目だけで問う。
「今はこのままにしろ。触れば、また向こうに渡る」
「……わかった」
母はそう言って、ようやく一歩だけ下がった。
◇
夜、青札はそのまま井戸脇に掛けられていた。
いつもの向き。
いつもの場所。
見た目だけなら、何も起きていない。
集会所では火が生きている。
石槽では水が回っている。
北には見張りが混ざっている。
村の形は、今日も崩れていない。
ノアは井戸のそばに立ち、暗い中で青札を見ていた。
昼にずらした札。
夕方には戻っていた札。
たったそれだけだ。
でも、その“たったそれだけ”が、ひどく気味悪い。
向こうは、壊してはいない。
盗んでもいない。
ただ、村の普通を見て、それに合わせてきた。
その時、背後でミリアの足音がした。
「お兄ちゃん、何を見ているの」
「札だ」
「そうなんだ」
ミリアは井戸の方を見て、すぐに興味をなくしたらしい。
そのまま母に呼ばれて戻っていく。
ノアは少しだけ息を吐いた。
子どもには、ただの札に見える。
それでいい。
けれど、だからこそ余計に嫌だった。
普通に見えるものほど、触られた時に気づきにくい。
井戸の水面は静かだった。
風も弱い。
青札もほとんど揺れない。
何も起きていないように見える夜の中で、見慣れた向きに戻ったその札だけが、ノアには、いったん村の“いつも”ごと誰かの手に触れられて、黙って返されたしるしのように見えた。




