第24話 均衡を戻す手
白い石床を蹴り、ノアは右前支柱へ走った。
背後では、封印槽の水がまだ低く鳴っている。
腹の底を擦るような、深い振動だった。
耳で聞くというより、足裏から骨へ入り込んでくる。
遅れれば、次が落ちる。
右前支柱の根元へ滑り込むように膝をついた瞬間、ノアは違和感に気づいた。
左奥支柱とは壊れ方が違う。
銀輪は外れかけていない。
代わりに、根元の細い溝へ黒い杭みたいなものが差し込まれていた。
そこだけ、水の流れが死んでいる。
【右前支柱】
状態:減衰開始
異常:流路閉塞
可能性:閉塞除去で再接続可
これだ。
敵は、四本とも同じやり方で壊していない。
「……っ」
指をかける。
だが、黒い杭はびくともしない。
そのとき、床へ転がっていた敵工作員が、肘をついて笑った。
「無理だ」
息を切らしながら、それでも言う。
「そっちは輪じゃねえ。噛ませ杭だ。抜くだけじゃ戻らない」
ノアは顔を上げない。
「なら、どう外した」
「教えるわけねえだろ」
次の瞬間、敵工作員が転がったまま足元の鉄片を拾い、ノアへ投げつけた。
咄嗟に身を引く。
鉄片は支柱の脇へ当たり、鋭い音を立てて跳ねた。
ノアは舌打ちし、すぐに視線を戻す。
黒い杭。
細い溝。
その奥で、青い線が途切れている。
抜けない。
違う。
引く前に、何かを逃がす。
【右前支柱】
条件:下溝の圧抜き
条件:杭の半回し引き抜き
見えた。
だが、これで合ってる保証はない。
封印槽の水面が、また大きく揺れた。
中央の彼女の髪が、水の中でゆっくり広がる。
『下』
頭の中に、声が落ちた。
ノアは反射的に視線を落とす。
支柱のさらに足元。
床と一体に見えていた半月形の石蓋。
そこだけ、ごくわずかに明滅している。
【右前支柱下部】
状態:圧留まり
可能性:開放で流路回復補助
「……先にこっちか」
ノアは石蓋の縁へ指を差し込んだ。
重い。
だが、浮く。
石と石が擦れる鈍い感触。
石蓋がほんの少しだけずれた瞬間、溝の奥で詰まっていた水が細く噴いた。
「まずい!」
敵工作員が、今度こそ本気で顔色を変えた。
「それ開けるな!」
ノアは無視した。
石蓋をさらにずらす。
圧が抜ける。
黒い杭の根元が、わずかに緩んだ。
「今だ……!」
杭を掴む。
半回し。
止まる。
違う。
指先に伝わる噛み合いを探る。
戻すように、ほんの少しだけ返す。
そのまま、引く。
かち、と乾いた音が鳴った。
黒い杭が抜ける。
同時に、右前支柱の中を青白い光が一気に駆け上がった。
【右前支柱】
状態:再接続成功
効果:均衡回復第二段階
封印槽の揺れが、目に見えて弱まった。
水面の波紋が小さくなる。
壁際の四本のうち、二本までが安定した。
敵工作員の顔から血の気が引く。
「二本目……」
掠れた声だった。
「そんな、早く……」
ノアは立ち上がる。
息が荒い。
指先は冷たく痺れていた。
それでも、まだ終わっていない。
【四方支柱】
状態:二正常/二不安定
可能性:均衡回復継続可
あと二本。
そのとき、水の中の彼女が、わずかに首を動かした。
ほんの少し。
それでも、さっきまでより明らかにはっきりしていた。
「……聞こえる?」
今度は頭の中じゃない。
水越しなのに、確かに音だった。
ノアの胸が大きく跳ねる。
「聞こえる」
気づけば、そう返していた。
彼女は少しだけ目を伏せた。
「よかった……まだ、間に合う」
敵工作員が、その声を聞いた瞬間に後ずさった。
「喋るな」
怯えた声だった。
「喋らせるなって言ってるだろ……!」
「お前は何を怖がってる」
ノアが問う。
男は答えない。
答えないまま、震える手で腰の袋を探る。
もう鉄針じゃない。
小さな、赤黒い石片だ。
【敵工作員】
状態:焦燥増大
所持:破断石の可能性
危険:高
まずい。
ノアが踏み込むより早く、男はその石片を封印槽へ投げた。
狙いは彼女じゃない。
水槽の縁、ちょうど残る支柱へ繋がる青い線の上だ。
赤黒い石片が白い縁へ当たった瞬間、嫌な亀裂音が走った。
青い線が、一部だけ黒く濁る。
【左前支柱接続線】
状態:汚染
危険:中→高
「くそっ……!」
ノアはすぐに走り出そうとした。
だが、その前に、彼女の声が落ちてくる。
『左前はあとでいい』
ノアの足が止まる。
『先に、後ろ』
後ろ。
反射的に振り向く。
封印槽の背面。
もっとも暗い位置にある四本目の支柱。
そこだけは光の弱まり方が違った。
減っているんじゃない。
吸われている。
【後方支柱】
状態:外部干渉中
危険:極高
可能性:主崩壊点
あれか。
ノアの背筋を、冷たいものが這った。
今までの二本は、敵工作員が直接いじっていた。
だが、最後の一本は違う。
もっと深いところから、別の何かが触っている。
敵工作員も、それに気づいていたらしい。
顔を引きつらせ、首を振る。
「行くな」
掠れた声で言う。
「そこはもう、あの人の手が入ってる」
「あの人って誰だ」
「行ったらわかる」
男は唇を引きつらせた。
「だから終わりなんだよ」
その瞬間、封印槽の底から、今まででいちばん深い音が響いた。
広間そのものが鳴るみたいな、重い響きだった。
青白い水が、中央からゆっくり持ち上がる。
彼女の周囲だけ、水が呼吸するみたいに脈打つ。
【封印槽】
状態:均衡回復途中
危険:主崩壊点残存
【後方支柱】
状態:干渉継続
可能性:最終崩壊起点
彼女が、もう一度ノアを見た。
「お願い」
今度の声は、さっきより少しだけ強かった。
「後ろを、先に」
敵工作員が青ざめた顔で叫ぶ。
「行くな! そこを戻したら、本当に“あれ”が起きる!」
ノアはその声を聞いた。
聞いたうえで、視線を彼女から逸らさなかった。
彼女は、自分を出すなと言った。
均せと言った。
そして今、どこを先に戻すべきかを示している。
信じるなら、もう決まっていた。
ノアはゆっくり息を吸う。
「……お前の言葉より、俺はこっちを信じる」
敵工作員の顔が凍りつく。
ノアは踵を返した。
封印槽の背面。
もっとも暗い、最後の崩壊点へ。
白い石床を蹴る足音が、今度はやけに大きく響いた。
背後で、彼女の視線が追ってくる。
敵工作員の荒い呼吸も聞こえる。
だが、もう迷いはなかった。
最後の一本。
そこを戻せるかどうかで、全部が決まる。
そして、その先にいる“あの人”が何者なのかも。
ノアは奥の闇を睨み、速度を上げる。
――最後の支柱が、待っていた。




