第23話 閉じるな、解くな
封印槽の中で、目が開いた。
青とも白ともつかない光が、その瞳の奥で揺れている。
ノアは取っ手を握ったまま、息を止めた。
見られている。
ただ視線が合っただけじゃない。
水の中の彼女は、はっきりとこちらを認識していた。
敵工作員が、初めて顔色を変える。
「見るな!」
叫ぶような声だった。
「そいつを、今そのまま見るな!」
何を言っているのかわからない。
だが次の瞬間、ノアの視界に新しい文字が浮かんだ。
【封印対象】
分類:人型
状態:半覚醒
備考:水守紋一致/封印核同調中
【第二拘束操作桿】
状態:半戻し
備考:全閉鎖危険/全解放危険
【封印槽】
安定条件:四方支柱均圧維持
危険:均衡崩壊中
閉じ切っても駄目だ。
解き切っても駄目だ。
均さなければならない。
「……そういうことか」
喉の奥で、ようやく言葉になった。
今ここで必要なのは、封印を壊すことでも、無理やり閉じ直すことでもない。
崩れた均衡を戻すことだ。
そのときだった。
水の中の彼女の唇が、わずかに動く。
声は聞こえない。
それなのに、言葉だけが真っ直ぐ頭の中へ落ちてきた。
『閉じるな』
『解くな』
『均して』
ノアの背筋に、冷たいものが走った。
今の声は、敵工作員のものじゃない。
水の中の彼女だ。
◇
「ふざけるな……!」
敵工作員がよろめきながら立ち上がった。
短剣はもう手放している。
だが、懐から細い鉄針の束を抜く。
「そこで均されたら終わるんだよ!」
叫ぶ声には、さっきまでなかった焦りが混じっていた。
「第二だけじゃ足りない! 四方支柱を落とす前に、こじ開けなきゃならねえ!」
四方支柱。
ノアは反射的に広間を見渡した。
壁際の四本の細い石柱。
そのうち一本だけ、光が明らかに弱い。
左奥の柱だ。
【左奥支柱】
状態:減衰
可能性:均圧喪失点
【四方支柱】
状態:三正常/一不安定
可能性:一基再接続で均衡回復開始
あれだ。
ノアが視線を向けた瞬間、敵工作員も同じ方向へ走った。
先に潰す気だ。
ノアも取っ手を放し、床を蹴る。
白い石床を走る水が、足首に絡む。
滑る。
それでも走る。
敵工作員が鉄針を左奥支柱の根元へ突き立てようとする。
「させるか!」
ノアは近くの壊れた金具を拾い、そのまま投げた。
狙いは身体じゃない。
足元だ。
金具が濡れた床を滑り、敵工作員の踵へぶつかる。
「っ!」
足が泳ぐ。
ほんのわずかに踏み込みがずれた。
それで十分だった。
ノアは体当たりするように飛び込み、敵工作員の腕を支柱から弾き外す。
二人の身体がもつれ、白い床へ崩れた。
水が跳ねる。
敵工作員はすぐに肘で打ってきた。
脇腹に痛みが走る。
「ぐっ……!」
「邪魔するな! お前、何も知らないくせに!」
叫びながら、男は鉄針を逆手に握る。
刺すつもりだ。
ノアの視界に、細い線が走った。
【敵工作員】
状態:焦燥
武装:鉄針
弱点:右肩開き
ノアは咄嗟に身を沈めた。
鉄針が頬の横を掠める。
そのまま右肩の開いた内側へ潜り込み、肩口を押し上げるようにぶつかる。
敵工作員の腕が跳ねた。
鉄針が床へ落ちる。
「このっ……!」
男はなおも食らいつこうとしたが、そのとき、封印槽の中央から低い音が鳴った。
ご……ん。
広間の空気が震える。
【封印槽】
状態:第二拘束不安定
危険:上昇
時間がない。
ノアは敵工作員を突き飛ばし、そのまま左奥支柱の根元へ飛びついた。
そこには、銀色の輪が半ば外れかけたまま残っていた。
敵が緩めたのだ。
【左奥支柱基部】
状態:連結不全
可能性:銀輪再固定で再接続可
これで合っている保証はない。
それでも、他にない。
「戻れ……!」
輪へ手をかける。
冷たい。
だが、取っ手ほどじゃない。
半回転。
違う。
支柱から封印槽へ伸びる青白い線を意識する。
戻すんじゃない。
繋ぎ直す。
右へ、押し込みながら回す。
かち、と乾いた音が返った。
次の瞬間、弱っていた左奥支柱の光が少しだけ持ち直した。
壁際を走る水路にも、青い筋が戻る。
【左奥支柱】
状態:再接続成功
効果:均衡回復開始
【封印槽】
状態:暴走遅延
危険:高→中高
少しだけ、水槽の揺れが静かになった。
敵工作員が舌打ちする。
「一本戻した程度で止まるかよ!」
「止める」
ノアは息を切らしながら立ち上がった。
「全部、戻す」
その言葉に、敵工作員の目が細くなる。
「全部戻したら、そいつも元には戻らねえぞ」
「何?」
「眠ったままでもない。目覚めたままでもない。水守は、その境目で削れる」
男は吐き捨てるように言った。
「だから代を継げなくなったんだろうが」
水守。
村から消えた一族。
その言葉が、今度は別の意味を持って胸へ刺さる。
水守は滅びたんじゃない。
削れて、消えていったのか。
ノアが息を呑んだ、その瞬間。
また、あの声が頭の中へ落ちてきた。
『聞くな』
水の中の彼女だった。
さっきより、少しだけはっきりしている。
『まだ、あれの言葉を選ぶな』
ノアははっとして封印槽を見た。
彼女は水の中に沈んだままだ。
だが、瞼はもう開いている。
青白い水越しに、その視線だけがまっすぐこちらへ向いていた。
【封印対象】
状態:半覚醒維持
可能性:断続的意思疎通可
「……お前は」
思わず呟く。
すると敵工作員が吠えた。
「見るなって言っただろ!」
男は今度こそ、封印槽の縁へ走った。
狙いは操作桿じゃない。
水槽そのものだ。
縁に刻まれた溝へ、別の細い金具を差し込もうとしている。
【中央水槽縁】
状態:補助干渉点
危険:高
可能性:水守紋破断補助
まずい。
あれを通されたら、支柱を戻すより先に均衡が壊れる。
ノアは床を蹴った。
間に合わない。
そう思った瞬間、水槽の表面がふっと盛り上がった。
波、ではない。
まるで、内側から手を伸ばすみたいに、水そのものが動いた。
細い水の帯が一本だけ持ち上がり、敵工作員の手首へ絡みつく。
「なっ……!?」
金具が止まる。
ほんの一瞬。
それだけ。
だが、その一瞬で十分だった。
ノアは横から飛び込み、敵工作員の腕を縁から弾き飛ばした。
金具が宙を舞い、水槽の中へ落ちる。
男の身体も半ばまで傾く。
あと少しで水へ落ちる位置だ。
「くそっ……!」
敵工作員は必死に縁を掴んだ。
ノアはその手を見た。
【敵工作員】
状態:体勢不安定
可能性:排除可
やれる。
蹴れば落とせる。
そう思った瞬間、また声が落ちてきた。
『落とすな』
ノアの足が止まる。
『まだ、ここで死なせるな』
水の中の彼女だった。
なぜだ。
敵だぞ。
だが、その声には妙な確信があった。
迷いがない。
ノアは歯を食いしばり、代わりに敵工作員の手を踏み外させるのではなく、腕をひねって縁から引き剥がした。
男の身体が床へ転がる。
痛みに呻きながらも、まだ生きている。
「なんで……」
敵工作員が息を荒げる。
「なんで落とさねえ……」
ノア自身にも、それは半分しか説明できなかった。
だが、水の中の彼女の声は、さっきより少し近くなっていた。
『次は、右前』
右前。
ノアは反射的に視線を走らせる。
封印槽の右前方。
そこにある二本目の支柱の根元だけ、微かに明滅している。
【右前支柱】
状態:減衰開始
可能性:次の崩壊点
連鎖している。
一つ戻しても終わりじゃない。
次が落ちる。
敵工作員もそれに気づいた。
顔を引きつらせ、這うように後ずさる。
「おい……やめろ」
掠れた声で言う。
「均すな」
「なぜだ」
「均ったら、あの人が来る」
あの人。
外套の男のことじゃない。
その怯え方は、もっと根が深かった。
ノアが問い返すより先に、封印槽の中央で水が大きく揺れた。
青白い光と白い光が、彼女の周囲でゆっくりと混ざり始める。
そして、水の中の彼女が、わずかに唇を動かした。
今度は、頭の中じゃない。
水越しなのに、確かに音になって届いた。
「……右前を」
小さい声だった。
だが、はっきりと聞こえた。
ノアの全身に鳥肌が立つ。
敵工作員はその声を聞いた瞬間、本気で怯えた顔になった。
「やめろ……」
後ずさる。
「喋らせるな」
「お前は誰なんだ」
ノアは問いかけた。
彼女はすぐには答えなかった。
ただ、青白い水の中で、まっすぐノアを見た。
そして、次の一言だけを落とした。
「わたしを、まだ出さないで」
ノアの呼吸が止まる。
助けて、じゃない。
解いて、でもない。
出さないで。
【封印対象】
状態:意思疎通可能
発言:解放拒否
その意味を考えるより先に、右前支柱の光が大きく脈打った。
次の崩壊が来る。
ノアは身体を反転させた。
今は問うより先だ。
止める方が先だ。
白い石床を蹴る。
右前支柱へ走る。
背後で、水の中の彼女の視線がまだ自分を追っているのを感じながら。
――彼女は、自分で“出さないで”と言った。




