第22話 封印槽の前
白い石床の奥へ、ノアは一気に駆けた。
背後では、まだ前室戦の音が続いている。
父の怒声。
槍の打ち合う乾いた音。
ハンスの矢が風を裂く気配。
そして、カイルの短く荒い声。
振り返らない。
振り返ったら、足が止まる。
ここを父たちに任せた以上、自分は奥を止めるしかないのだ。
◇
封蔵区前室の左奥へ入った瞬間、空気が変わった。
戦いの熱が、急に遠くなる。
狭い通路。
白い壁。
床の両脇を走る、ごく細い水路。
水はほとんど音を立てていないのに、冷たさだけが妙にはっきり伝わってきた。
【封印槽直路】
状態:通行中
構造:正規保守路
危険:高
可能性:封印槽最短接続
【壁面水路】
状態:微流
関連:封印槽循環路
ただの通路じゃない。
ここは、何かを閉じ込め続けるための道だ。
ノアは走りながら壁へ視線を滑らせた。
ところどころに、古い刻みがある。
記録なのか、警句なのかはわからない。
だが、その一部にだけ《導き》の光が重なった。
【壁面刻記】
断片:眠りを保て
断片:流れを絶やすな
断片:返しを失うな
「眠り……」
喉の奥がひりつく。
封じる。
閉じ込める。
止める。
今までは、そういう言葉ばかり見えていた。
だが、ここで使われているのは少し違う。
眠らせる。
保つ。
絶やすな。
まるで、ただ閉じ込めるのではなく、何かの状態を維持し続けているみたいだった。
そのとき、前方から低い振動が走った。
ご……ん。
足元の水路がわずかに揺れる。
【封印槽】
状態:干渉継続中
危険:上昇
距離:近
近い。
ノアは息を切らしながら、さらに速度を上げた。
◇
通路の先は、円形の広間だった。
思わず足が止まる。
広い。
だが、北方貯水殿みたいな大空間ではない。
もっと閉じた、もっと濃い場所だ。
白い石で作られた円形の部屋。
壁際には四本の細い石柱。
その柱から、鎖のように伸びる青白い線が中央へ集まっている。
そして、その中央。
床をえぐるように造られた、巨大な円形槽。
水だ。
澄んでいるのに、底が見えないほど深い。
青く淡く発光しながら、静かに揺れている。
その水の中、中央にだけ黒い影があった。
【封印槽】
状態:解放干渉中
危険:極めて高
可能性:封印対象収容中
【四方支柱】
状態:封印維持柱
可能性:水位/拘束連動
【中央水槽】
状態:覚醒前段階
備考:生体反応あり
生体反応。
ノアの心臓が、強く跳ねた。
「……生きてる」
その声に反応したように、部屋の右奥で人影が動いた。
外套の男ではない。
もっと若い。
痩せた身体に濡れた布を巻きつけ、両手で何かの取っ手を押し込んでいる。
その足元には、すでに壊れた金具と、外された石板が散っていた。
敵の“もう一つの手”。
こいつが封印槽へ干渉していたのだ。
男はノアを見て、舌打ちした。
「……もう来たのか」
「止めろ!」
ノアは叫ぶ。
「そこから離れろ!」
男は笑わなかった。
ただ冷えた目で言った。
「遅い」
その手が、さらに取っ手へ力をかける。
「もう二段目まで外した」
ご、ごん、とまた低い音が響いた。
中央水槽の表面に、同心円の揺れが走る。
【封印槽】
状態:第二拘束解除寸前
危険:極高
「くっ……!」
ノアは広間へ飛び込んだ。
だが、ただ突っ込んでも間に合わない。
取っ手のところまで距離がある。
その間に、男が最後の操作を通せば終わる。
視界が走る。
支柱。
水路。
床の刻み。
取っ手の根元。
そして、左手の床に浮かんだ細い線が、はっきりと赤く光った。
【左側逆流弁】
状態:閉
可能性:一時逆圧発生可
効果:操作中断
あれだ。
ノアは進路を変え、左側の石柱の根元へ飛びついた。
床に埋まる半月形の石板。
その中央に、手をかけるための浅い窪みがある。
重い。
だが、《導き》がはっきりと示していた。
「動け……!」
両手で引く。
ご、と鈍い音。
次の瞬間、壁際の水路を走っていた青白い流れが、一瞬だけ逆転した。
中央水槽から外へ向かっていた圧が、逆に内側へ巻き戻る。
「なにっ!?」
右奥の男が体勢を崩した。
取っ手から手が離れる。
床を走った水が、男の足元を払ったのだ。
「今だ……!」
ノアは立ち上がり、そのまま中央へ走った。
男もすぐ立て直す。
短剣を抜き、濡れた床を蹴ってこちらへ向かってきた。
速い。
正面からじゃ勝てない。
【敵工作員】
状態:焦燥
武装:短剣
弱点:足場不安定
ノアは直前で足を止めた。
男が斬り込んでくる。
その踏み込みに合わせて、ノアはわざと半歩だけ横へずれる。
白い床に残った水が、男の足をほんのわずかに滑らせた。
その一瞬で十分だった。
ノアは短剣の軌道から外れ、肩で男の胸へぶつかる。
男の身体が泳ぐ。
そのまま取っ手の土台へ背中を打ちつけた。
「っ、ぐ……!」
短剣が床へ落ちる。
ノアも無事じゃない。
腕が痺れ、呼吸が崩れる。
だが、今は追撃じゃない。
止める方が先だ。
ノアは取っ手へ飛びついた。
【第二拘束操作桿】
状態:解放側
可能性:逆回転で停止可
両手をかける。
重い。
さっきの逆流弁より、ずっと重い。
水槽の中央から、低い振動が響く。
急がないと間に合わない。
「戻れ……!」
肩を入れて押す。
動かない。
もう一度。
歯を食いしばる。
腕が軋む。
そのとき、水槽の表面が大きく揺れた。
青い光が濃くなる。
水の中の黒い影が、さっきよりはっきり輪郭を持ち始めた。
人だ。
しかも、ただの影じゃない。
細い肩。
長い髪のような揺れ。
膝を抱えるように丸まった姿勢。
人型、ではなく。
人そのものだった。
【封印対象】
分類:人型
状態:生存継続中
危険:覚醒移行中
ノアの呼吸が止まる。
「……人、だと」
その瞬間、床へ倒れていた敵工作員が笑った。
「ようやく見たか」
掠れた声だった。
「あれを、災いだと教わったか?」
ノアは答えられない。
水の中にいるのが人なら、何を守ってきたのか。
何を封じてきたのか。
何が正しくて、何が間違っているのか。
一瞬だけ、頭が真っ白になった。
その隙を突いて、男が取っ手へ手を伸ばす。
「しまっ――」
だが、指が届く前に、ノアは全身で取っ手へ体重をかけた。
ごん、と重い音。
操作桿が半ばまで戻る。
同時に、水槽の揺れが少しだけ弱まった。
【第二拘束操作桿】
状態:逆回転成功
効果:解放遅延
まだ足りない。
もう一段戻さないと止まらない。
ノアがさらに力を込めようとした、そのときだった。
中央水槽の奥、底の方から、別の光が浮かび上がった。
青じゃない。
白に近い、淡い光。
それが水の中の人影の輪郭を、ゆっくり照らし出していく。
閉じた瞼。
長い髪。
細い腕。
その手首を巡る、古い銀色の輪。
そして胸元には、見覚えのある紋があった。
導水盤。
返し石。
封蔵区正門。
全部に刻まれていた、あの円形の水守紋。
【封印対象】
関連:水守系譜
可能性:高
ノアの喉が鳴る。
水守。
村から消えたはずの。
外套の男が口にした、あの一族。
その瞬間、水の中の人影の指先が、かすかに動いた。
「……っ!」
敵工作員の顔から、初めて余裕が消える。
「待て」
男が低く言う。
「それ以上戻すな」
ノアははっとして振り向いた。
男の声は、さっきまでと違っていた。
解放へ焦る声じゃない。
何か別のものを恐れる声だ。
「何を言って――」
「戻しすぎるな! 今それを閉じ切れば、そいつは――」
最後まで言わせなかった。
背後で、ぱき、と小さな音がしたのだ。
水槽の内側。
人影の手首を繋ぐ銀の輪に、細いひびが入っていた。
青い光と白い光が、そのひびの間でぶつかり合う。
【封印槽】
状態:拘束均衡崩壊寸前
危険:極大
【封印対象】
状態:覚醒直前
備考:封印解除/封印破壊は別
違う。
今ここで起きているのは、ただの“解放”じゃない。
解き方を間違えれば、壊れる。
封じるか、出すか、じゃない。
その間に、まだ何かある。
ノアの背筋を、ぞっとするほど冷たいものが走った。
水の中の人影の瞼が、ゆっくりと震える。
そして――
わずかに、開いた。
青とも白ともつかない光が、その瞳の奥で揺れた。
ノアは取っ手を握ったまま、息を呑む。
封印槽の前で、自分はいま、何を止めて、何を目覚めさせようとしているのか。
その答えを知るより先に、水の中の彼女が、はっきりとこちらを見た。
――封印槽の中で、目が開いた。




