第18話 封蔵区へ降りるために
貯水殿から村へ戻ったころには、空はすでに夕方の色へ傾き始めていた。
だが、誰の足も止まらなかった。
疲れていないわけじゃない。
息も切れているし、腕も足も鉛みたいに重い。
それでも立ち止まれないのは、もうはっきりしていたからだ。
敵は封蔵区へ向かった。
そして、自分たちもその入口を見た。
もう、知らないふりはできない。
◇
集会所には、すぐに村の主だった者たちが集められた。
村長、父、ハンス、カイル、ベルン、ディル、ミナ婆、母。
井戸の見張りに立っていた者たちも、順番に報告へ入ってくる。
「水位は?」
ノアが訊くと、ベルンが短く答えた。
「少し戻った。だが、昨日までの高さにはまだ遠い」
「急に下がる気配は?」
「今のところは止まってる」
そこでようやく、集会所の空気がほんの少しだけ和らいだ。
主水門の第一段階停止は、確かに効いている。
だが、それだけだ。
封蔵区へ続く非常用経路は開かれたまま。
敵は、その先にいる。
ノアは机の上へ、貯水殿で頭に焼きついた構造を木炭で描き出した。
北方貯水殿。
中央台座。
主水門。
そしてその下に現れた、封蔵区直通路。
さらに、その奥へ続いていた暗い線。
【封蔵区直通路】
状態:敵先行
危険:高
可能性:再到達可
【北方主水門】
状態:第一段階停止
効果:水位低下抑制
【現在状況】
状態:拮抗
可能性:先行追跡で主導権奪回可
「追うしかないな」
父が言った。
村長も頷く。
「だが、今すぐ飛び込めば向こうの待ち伏せに噛みつかれる」
「しかも、非常用経路は不安定でした」
ノアが答える。
「短時間で閉じるかもしれない。下手に入れば、こっちが閉じ込められます」
カイルが舌打ちする。
「じゃあどうする。せっかく道が見えたのに、ここで立ち止まるのか」
「立ち止まらない」
ノアは即答した。
「でも、追う前に一つだけ知る必要がある」
視線が集まる。
「封蔵区が何を守ってる場所なのか」
ノアは言った。
「そこがわからないまま入ると、敵が何を狙ってるのか読めない」
ハンスが腕を組む。
「確かに」
「相手が宝を取るつもりなのか、水門そのものを動かすつもりなのかで、止め方が変わる」
「それだけじゃありません」
ノアは机の上の古帳面へ手を伸ばした。
「外套の男は、俺たちを“水守の残骸”って言った」
その言葉に、村長の顔がわずかに強張った。
「……聞き覚えがあるのか」
ノアが問うと、村長はしばらく黙り、それから低く息を吐いた。
「ないと言えば嘘になる」
「村長?」
父が振り向く。
「子どもの頃に一度だけ、祖父から聞いたことがある」
村長はゆっくり言った。
「この村は、ただ畑のために作られた村じゃない。昔は“水守”の家が中心にいて、井戸と水路を見ていた、とな」
「それ、本当なのか?」
「昔話だと思っていた」
村長は首を振った。
「だが今となっては、笑えん」
ミナ婆が古帳面を引き寄せる。
指先で頁をめくり、かすれた字を追う。
「……あったよ」
しわがれた声が、静かな部屋に落ちた。
「“水守、蔵を直に見ず”“門を越える時は、返し石を持つべし”」
「返し石?」
ノアが訊く。
ミナ婆は首をかしげる。
「名前しか残ってないね。でも、門を越える時に必要なものらしい」
「鍵みたいなものか」
父が言った。
「あるいは印でしょう」
ハンスが続ける。
「非常用起動鍵があるなら、水守側にも同じようなものがあったはずです」
ノアの胸が強く鳴る。
それだ。
敵は非常用の鍵を持っていた。
なら、自分たちが追うためにも、封蔵区へ入るための“正しい手順”があるはずだ。
視界に文字が浮かぶ。
【古帳面】
状態:断片
可能性:返し石の記録あり
【封蔵区】
状態:未到達
危険:高
可能性:正規通行条件あり
「返し石を探します」
ノアが言った。
「どこをだ?」
カイルが眉をひそめる。
「帳面の続きを見ます。それと、石室」
ノアは答える。
「導水盤の周りに、まだ触ってない場所がある気がする。あそこは主水門を動かすだけの部屋じゃない」
父が頷いた。
「なら二手だな」
「はい」
ノアはすぐに続ける。
「村長とミナ婆ちゃんには帳面を。ベルンさんとディルさんは井戸と入口の補強。俺たちは石室へ戻る」
母が顔を上げる。
「また下へ行くの?」
「行く」
「休まずに?」
「今なら敵も封蔵区の奥へ進んでるはずです。石室を触る余裕がある」
「……そう」
母は唇を引き結んだあと、静かに頷いた。
「じゃあ、今度は灯りを増やす。戻る道を絶対に見失わないように」
◇
石室へ戻ったときには、外はすでに薄暗くなっていた。
井戸脇の石板をずらし、冷たい空気の吹き上がる通路へ四人で降りる。
ノア、父、ハンス、カイル。
何度も通ったはずなのに、石段の冷たさは毎回違って感じる。
それだけ、先にあるものの意味が変わっていくからだろう。
石室の扉を開ける。
中央の導水盤は、前よりも静かだった。
だが死んではいない。
青白い線が、ごくかすかに、石の奥で眠るように残っている。
【導水盤】
状態:微弱待機
可能性:再同調可
【石室】
状態:安定
危険:北側擬装壁の向こうに敵残存の可能性・低下
「今のうちだな」
ハンスが低く言った。
ノアは導水盤の前へ立ち、そっと手を置く。
冷たい。
そして、その奥で何かがかすかに返る。
水の流れ。
門。
封じられた道。
行くための道ではなく、戻すための道。
「……返し石」
思わず口に出した瞬間、視界の中で導水盤の円の一部が淡く光った。
中央ではない。
北でもない。
石室の南側、床に近い壁際だ。
【南壁面】
状態:偽装窪みの可能性
関連:導水盤連動反応あり
「こっちだ」
ノアが振り向く。
南壁は、一見すると何の変哲もない石壁だった。
だが、灯りを近づけると、床すれすれの位置だけ石の継ぎ目が少し違う。
ベルンなら気づいたかもしれない。
だが、《導き》がなければ、ただの傷にしか見えない。
父がしゃがみ込む。
「隠し箱か」
「たぶん」
ノアは頷いた。
「導水盤と繋がってます」
石盤の縁を右へ少し回す。
違う。
左へ、半歩だけ戻す。
それでも開かない。
今度は中心を押しながら、南へ向く線を意識する。
ご、と小さな音が返った。
次の瞬間、南壁の一部がわずかに浮いた。
「開いた!」
カイルが声を潜めたまま言う。
父が指をかけ、慎重に石板を引く。
その内側には、掌ほどの大きさの青灰色の石が一つだけ収められていた。
丸く削られた石。
中央に、水の流れみたいな筋が走っている。
裏面には、導水盤と同じ円形の紋。
【返し石】
状態:保管
可能性:封蔵区正規通行鍵
「……これか」
父が低く呟く。
ノアは息を呑んだ。
掌に乗るほど小さい。
だが、そこに宿る意味は明らかに重い。
敵が非常用経路を切ったのに対して、これは“正しく入るための鍵”だ。
「持っていく」
ノアが言う。
「これがないと、封蔵区でまた非常用の罠に振り回されるかもしれない」
「でも敵も探してるんじゃないのか」
カイルが訊く。
「たぶん、探しきれてない」
ノアは返し石を見つめながら答えた。
「だから非常用起動鍵で無理やり道を開けた。正規の手順を知らないんだ」
それは大きかった。
敵が一歩先に見えても、全部を知っているわけではない。
なら、まだ追い越せる。
そのときだった。
石室の北側擬装壁の向こうから、かすかに音がした。
――こん。
四人の動きが止まる。
さらにもう一度。
――こん、こん。
「まだいる」
ハンスが囁いた。
【北側擬装壁の向こう】
状態:微弱接触
可能性:敵探索継続
ノアは返し石を握りしめる。
向こうも焦っている。
だが、もう遅い。
必要なものは、こっちの手にある。
「戻りましょう」
ノアが言う。
「今夜のうちに封蔵区へ入る準備をします」
「今夜?」
父が振り向く。
「はい」
ノアは頷いた。
「敵は非常用経路で先に入った。でも、こっちは返し石を手に入れた」
その声は、自分でも驚くくらい静かだった。
「次は、正面から追い越せます」
◇
村へ戻ると、集会所ではちょうど村長たちが帳面の整理を終えたところだった。
ノアが返し石を机の上へ置くと、全員の視線がそこへ集まる。
「見つけたのか」
村長が息を呑む。
「導水盤の南壁の中です」
ノアは答えた。
「たぶん、水守が封蔵区へ入るための正規の鍵」
「帳面にもあった」
ミナ婆がすぐに口を開く。
「“返し石なくして蔵へ入るべからず”。“門は人を選ばず、流れを選ぶ”……そうある」
ノアの胸が熱くなる。
繋がった。
敵は非常用経路で封蔵区へ先行した。
だが自分たちは、正規の手順を手に入れた。
村長が机に手をつく。
「なら、行くしかないな」
「今夜です」
ノアが言った。
「相手が封蔵区の奥で迷っている間に追いつく。返し石があるぶん、こっちのほうが速いかもしれない」
「村の守りは」
父が問う。
ベルンが先に答えた。
「任せろ」
「井戸も入口も、今夜は俺たちが死守する」
ディルも頷く。
「朝まで持たせりゃいいんだろ」
「朝までじゃない」
ノアは首を振った。
「俺たちが戻るまでです」
その言葉に、一瞬だけ静まり返った空気が、少しだけ強くなる。
母が静かに立ち上がる。
そして、ノアたち四人の前へ、小さな布袋を一つずつ置いた。
「灯り、塩、水、包帯」
「ありがとう」
「それと」
母はノアだけを見て言った。
「今度こそ、終わらせてきなさい」
「うん」
ミリアも、いつの間にか扉のところに立っていた。
「兄ちゃん」
「何」
「絶対に置いていかれないでね」
「誰に」
「敵に決まってるでしょ」
思わず笑いそうになったが、ミリアは本気だった。
ノアは頷く。
「置いていかれない」
「じゃなくて」
ミリアは一歩前へ出た。
「追い越して」
その一言が、胸の奥にまっすぐ刺さった。
◇
夜。
村の灯りが少しずつ落ちていく中、井戸端だけには静かな緊張が残っていた。
石板の下には、冷たい通路。
その先には石室。
さらにその奥には、北方貯水殿。
そして封蔵区。
ノアは返し石を握りしめた。
小さい。
けれど、その重さは、今までのどの武器よりも大きく感じた。
敵は先に行った。
だが、正しい入口を持っているのはこっちだ。
井戸の底から、低く水の鳴る音が返ってくる。
それは警告みたいでもあり、導きみたいでもあった。
父が槍を持つ。
ハンスが弓を背負う。
カイルが短剣の位置を確かめる。
ノアは井戸の暗がりを見つめた。
今度の相手は、村を襲う魔物でも、森に潜む敵兵でもない。
村の真下に眠っていた秘密そのものだ。
だが、もう怖いだけじゃなかった。
ここまで来て、ようやくわかった。
《導き》は、誰かを少し先へ進める力だ。
だったら今、俺が導くべきなのは――この村そのものだ。
ノアは静かに息を吸った。
そして、返し石を握る手に力を込める。
――封蔵区で、追いついて追い越す。




