第17話 主水門争奪戦
重い石が噛み合う音が、貯水殿の奥で低く鳴った。
ご、ごん――。
腹の底へ沈むような音だった。
青黒い水面がゆっくりと揺れ、石橋の下で輪のような波が広がっていく。天井の高い地下空間に、その振動だけが不気味なほど長く残った。
敵は、もう動かしている。
父の手が槍を握りしめる。
ハンスの目が細くなる。
カイルは短剣へ指をかけたまま、息を殺していた。
ノアは巨大な貯水殿を見つめる。
石室も、副水門も、全部ここへ繋がっていた。
敵は最初から、ここだけを目指していたのだ。
視界の中で、主水門へ続く一本の線が、じわじわと赤く染まり始める。
【北方主水門】
状態:起動開始
危険:高
可能性:開放進行中
【中央台座】
状態:同期作業中
役割:主水門制御補助
【敵先行隊】
状態:操作継続中
可能性:第一段階到達寸前
間に合うのは、今しかない。
「ノア」
父が低く言う。
「どうする」
ノアは橋、台座、主水門を一気に見た。
正面から橋を渡れば丸見えだ。
しかも敵には弓持ちがいる。
だが、ここでためらえば終わる。
その瞬間、橋の脇、石柱の根元に薄い文字が浮かんだ。
【左壁保守路】
状態:狭
可能性:橋を通らず台座側面へ接近可
必要:軽装一名
【中央台座】
停止条件:三点固定解除
必要:台座/左制御輪/右制御輪
【敵弓手】
位置:台座奥
脅威:高
弱点:視界遮断に弱い
見えた。
止める方法が。
「父さん、正面を引きつけて」
「わかった」
「ハンスさんは弓手を抑えてください。殺さなくていい。顔を上げさせないで」
「任せろ」
「カイルは左から回って。橋じゃなくて壁沿いだ。細い保守路がある」
「また危ない役かよ」
「お前が一番向いてる」
「……知ってた」
カイルの口元がわずかに吊り上がる。
「俺は台座に行きます」
ノアが言った瞬間、父の眉が寄った。
「無茶だ」
「無茶でも行くしかない。主水門を止めるには三か所同時に触る必要があります」
「三か所?」
「台座、左制御輪、右制御輪。どれか一つでも残ると止まりません」
父とハンスの顔が変わる。
「なら役は決まったな」
父が言う。
「俺が右だ」
「私は弓手を押さえたあと、左を援護する」
ハンスが短く返す。
「行けるぞ」
カイルが言った。
「お前が台座を取るまで、俺は落ちない」
その言葉に、ノアは一度だけ頷いた。
「行きます」
◇
最初に動いたのはハンスだった。
油灯の火を片手で覆い、そのまま床を蹴る。
同時に、彼の投げた石片が水面へ落ちた。
ぱしゃん、と音が響く。
「そこだ!」
敵弓手が反応した瞬間、ハンスの放った短矢が石橋の欄干を打った。
火花が散る。
弓手が反射的に身を引く。
「今だ!」
父が飛び出した。
石橋へ踏み込み、槍を真っ直ぐ突き出す。
台座の前にいた敵兵二人が、慌てて刃を抜いた。
「村の連中か!」
「もう遅い!」
槍と短剣がぶつかる。
乾いた音が貯水殿に響いた。
その隙に、ノアは右へ走る。
橋は渡らない。
石柱の影を縫い、台座へ向かう最短の死角を選ぶ。
左ではカイルが壁沿いの保守路へ滑り込んでいた。
狭い。
だが、細い身体なら通れる。
【カイル】
状態:移動中
可能性:左制御輪到達可
【父】
状態:交戦
可能性:右制御輪接近可
【ノア】
状態:台座接近中
危険:中
敵の指揮役らしい外套の男が、主水門の前からこちらを振り向いた。
顔は半分、影に沈んでいる。
だが、声だけは妙に落ち着いていた。
「やはり来たか」
低い声だった。
「井戸が止まった時点で、気づくとは思っていた」
その言い方に、ノアの背中が冷たくなる。
こいつは焦っていない。
まだ何かある。
「止める!」
ノアは叫んだ。
「ここはお前たちに渡さない!」
外套の男は、わずかに笑ったように見えた。
「渡さない?」
その声は、水音に紛れそうなほど静かだった。
「お前たちは、この門の上で水を借りて生きていただけだ。持ち主のような顔をするな」
次の瞬間、主水門の横で別の敵兵が金具を叩いた。
ごん、とまた低い振動が走る。
【北方主水門】
状態:解放進行
進行度:二割
危険:上昇
「ノア!」
父の声が飛ぶ。
台座の前へ辿り着くと、そこには円形の溝と三つの窪みが刻まれていた。
石室の導水盤よりずっと大きい。
複雑で、重い。
視界に文字が浮かぶ。
【中央台座】
状態:作動中
停止条件:中央逆転/左右同時停止
【右制御輪】
状態:父が接近可能
【左制御輪】
状態:カイル接近中
ノアは中央の溝へ手をかけた。
冷たい。
だが、その奥に流れているものははっきりわかった。
水。
圧。
方向。
今、この貯水殿全体で起きている変化。
北へ流しているんじゃない。
南の水位を落としている。
封蔵区へ届く高さまで、無理やり。
「……そういうことか」
敵は門を全部開きたいわけじゃない。
必要な分だけ、水位を下げたいのだ。
なら、まだ止められる。
「カイル!」
ノアが叫ぶ。
「左の輪、まだ触るな! 俺が言ったら一気に回せ!」
「着いてる!」
左から声が返る。
「でも見つかった!」
保守路の先、左制御輪のそばにいた敵兵がカイルへ斬りかかっていた。
カイルはぎりぎりで身を捻り、短剣で受け流す。
狭い足場で、少しでも踏み外せばそのまま水へ落ちる位置だ。
「カイル!」
「喋ってる暇あるなら早くしろ!」
橋の上では父が二人を相手に押し込まれていた。
だが一歩も退かない。
槍の間合いを活かし、どうにか右制御輪の前までにじり寄っている。
ハンスの矢が、台座奥の欄干を打った。
弓手がまた身を屈める。
今しかない。
ノアは中央台座へ両手を置いた。
流れが見える。
中央を右へ回せば加速。
左へ回せば逆転。
だが、それだけでは足りない。
左右の輪が同時に外れない限り、主水門は止まらない。
視界に新しい文字が浮かんだ。
【中央台座】
可能性:左半回転→押し込み固定
【左制御輪】
可能性:一段戻しで停止
【右制御輪】
可能性:一段戻しで停止
【停止成功条件】
三点同時
「父さん! 右を一段戻せる位置まで行って!」
「やってる!」
「カイル、次で決める!」
「最初からそのつもりだ!」
ノアは中央台座を左へ回す。
重い。
石がきしむ。
腕が軋み、肩が震える。
だが動く。
次の瞬間、外套の男が初めて声を荒げた。
「中央を触らせるな!」
主水門の前にいた敵兵がこちらへ走る。
間に合わない。
そう思った瞬間、ハンスの矢が飛んだ。
敵兵の肩口を掠め、勢いを崩す。
「続けろ」
ハンスが低く言った。
ノアは歯を食いしばる。
さらに回す。
あと少し。
ご、と中央台座の溝が半回転した。
「今だ!」
ノアが叫ぶ。
右では父が槍を捨てる勢いで制御輪へ飛びつき、全身で石輪を押し戻した。
左ではカイルが敵兵の腕を蹴り上げ、その反動のまま制御輪へ体当たりするように手をかける。
「おおおっ!」
「っ、らあ!」
三か所が同時に動く。
次の瞬間、貯水殿全体で大きな音が鳴った。
ごごん――!
水面が大きく波打つ。
柱に反響するように、低い振動が走る。
【北方主水門】
状態:停止処理中
進行停止の可能性・高
「止まるか……!?」
父が叫ぶ。
ノアは中央台座を最後まで押し込んだ。
がこん、と重い感触が返る。
その瞬間、水の引いていく音が止まった。
代わりに、奥から鈍い逆流の音が響く。
【北方主水門】
状態:第一段階停止
効果:水位低下停止
「止まった……!」
ノアが息を呑む。
だが、その安堵は一瞬だった。
外套の男が、主水門の前で何かを取り出した。
細長い、青黒い金属棒。
石室で見た印とは違う、古い紋が刻まれている。
それを主水門脇の小さな穴へ差し込む。
【外套の人物】
状態:非常用起動鍵所持
危険:極めて高
「まずい!」
ノアが叫ぶ。
次の瞬間、男は迷いなくそれを捻った。
ぎぃん、と耳を刺す高い音が貯水殿に響く。
主水門そのものは開かない。
だが、対岸のさらに下、水面ぎりぎりの壁の一部がゆっくりと沈み始めた。
隠されていた石段だ。
水の下に沈んでいたものが、姿を現す。
【北方主水門下部】
状態:非常用経路開放
可能性:封蔵区直通路
「……そんな道まで」
父が呟く。
外套の男は、こちらを一度だけ振り返った。
「遅い」
その声は、今度ははっきりと届いた。
「水守の残骸ごときが、門の全部を知ったつもりになるな」
そして男は、現れた石段へ跳んだ。
「逃がすな!」
カイルが叫ぶ。
だが、台座のそばに残っていた二人が、退路を守るように橋の中央へ出る。
ハンスが矢を放つが、外套の男は振り返りもせず暗がりへ消えた。
同時に、残っていた敵兵たちも撤退を始める。
「下がれ!」
「道は開いた!」
「指揮役に続け!」
父が追おうとした瞬間、ノアの視界に赤い文字が弾けた。
【非常用経路】
状態:不安定開放
危険:短時間で再閉鎖の可能性
【北方貯水殿】
状態:揺動中
注意:長居危険
「父さん、待って!」
ノアが叫ぶ。
「今すぐ追うと閉じ込められるかもしれない!」
父の足が止まる。
その隙に、最後の敵兵も石段の先へ消えた。
貯水殿には、荒い息と水音だけが残る。
◇
しばらく、誰も動けなかった。
最初に口を開いたのはハンスだった。
「主水門は止めた」
「でも、逃げ道を開かれた」
カイルが吐き捨てる。
「最悪だな」
「いや」
ノアはまだ水面の揺れを見つめたまま言った。
「最悪じゃない。見えた」
父が振り向く。
「何がだ」
「封蔵区へ行く道です」
ノアは答えた。
「敵がわざわざ非常用の鍵まで使った。つまり、あの先が本命なのは間違いない」
「だが、こっちもそれを見た」
ハンスが低く言う。
ノアは頷いた。
主水門の第一段階は止めた。
井戸の水位低下も、これ以上は進まないはずだ。
その代わり、敵は非常用経路を切った。
封蔵区へ至る、本当に狭い入口を。
だが、それはもう隠されていない。
ノアの視界に文字が浮かぶ。
【封蔵区直通路】
状態:一時開放確認済
可能性:再到達可
【北方主水門】
状態:第一段階停止
効果:村水位保全
【次の一手】
候補:封蔵区先行侵入
制限:敵先行
父が槍を拾い上げる。
「村へ戻るか」
「……はい」
ノアは答えた。
「このまま追えば、向こうの土俵に乗ることになる。いったん戻って、準備してから行くべきです」
「珍しく慎重だな」
カイルが言う。
「相手のほうが、今は一歩先にいる」
ノアは悔しさを噛み殺しながら言った。
「だから、次は準備ごと追い越す」
貯水殿の奥では、非常用経路がまだ半ば開いたままだった。
暗い下へ降りる石段は、水面の揺れに濡れて鈍く光っている。
あの先に、敵が向かった。
封蔵区。
村の真下に隠されていた、本当の秘密の場所へ。
ノアはその暗がりを睨んだ。
今は間に合わなかった。
だが、追いつけないわけじゃない。
主水門は止めた。
村の命は、まだ守っている。
なら次は、その命を狙った相手の中心へ踏み込む番だ。
水面がゆっくりと静まり、貯水殿に重い沈黙が落ちていく。
ノアは拳を握った。
――次は、封蔵区で決着をつける。




