第16話 北方貯水殿への道
井戸の水位がわずかに持ち直したとはいえ、村の空気が軽くなることはなかった。
止まっただけだ。
完全に戻ったわけではない。
東の副水門も仮閉鎖に過ぎず、敵がもう一度触れれば、また流れを変えられる可能性がある。
しかも、地図片が示していたのは、その先だった。
北方貯水殿。
そこが敵の本命なら、ここで息をついている時間はない。
ノアは集会所の机に広げられた地図片を見つめていた。
東の副水門。
地下石室。
北方貯水殿。
その先に描かれた、もう一つの丸印。
線は粗い。
だが、《導き》で見ると、地図の上に薄い光の流れが重なって見えた。
【地図片】
状態:断片
可能性:北方貯水殿への接続路記録
【北方貯水殿】
状態:未到達
危険:高
可能性:主制御施設
【次の一手】
候補:北方貯水殿先行到達
効果:主導権奪取
制限:時間少
「行くしかないな」
父が言った。
集会所には、もう必要な顔ぶれだけが残っていた。
村長、父、ハンス、カイル、ミナ婆、ベルン、ディル、母。
そしてノア。
誰も反対しない。
もう“様子を見る”段階は過ぎていた。
「敵は東の副水門まで動かした」
村長が低く言う。
「なら、本命にも手をかけるつもりだろう。先に辿り着けるなら、それしかない」
ハンスが地図片の北側を指した。
「問題は道だ。正面から行ける場所じゃない」
「たぶん、正面じゃありません」
ノアは答えた。
「この線、途中で尾根の裏へ回っています。貯水殿へ行くための管理路みたいなものがあるはずです」
「古い水守の道、ってやつかい」
ミナ婆が呟く。
「帳面にも似たような言葉があったよ。“北守は表から入らず”ってね」
ベルンが腕を組んだ。
「じゃあ入口は隠されてるな」
「しかも敵もその存在を知ってるかもしれない」
父が低く言う。
「逃げた一人がいる以上、向こうも急ぐはずだ」
ノアの視界に、また文字が浮かぶ。
【敵本隊】
状態:接近中の可能性
危険:高
可能性:北方貯水殿合流狙い
【村側】
状態:短時間安定
可能性:半日維持可
半日。
残された猶予が、はっきり見えてしまった気がした。
「今日中に着きたい」
ノアが言う。
「遅くても日が落ちる前に入口を見つけたいです。夜になると、向こうのほうが動きやすい」
「なら、行くのは今だな」
ハンスが即答する。
「俺と父さん、ハンスさん、カイル」
ノアは言った。
「村は村長、ベルンさん、ディルさんに任せたいです。東側副水門はまた触られるかもしれないから、見張りも必要です」
「やるさ」
ベルンが鼻を鳴らす。
「今さら井戸を取られてたまるか」
「縄も杭も、まだ残ってる」
ディルも頷いた。
母は何も言わなかった。
ただ、小さな布包みをノアの前へ置く。
「干し果物と、塩と、水」
「ありがとう」
「それと、無理はしないで」
「……できるだけ」
「そうじゃない」
母はまっすぐノアを見た。
「帰ってくるの」
ノアは一瞬だけ言葉に詰まり、それでも頷いた。
「帰ってくる」
その返事を聞いて、母はようやく手を離した。
◇
北方貯水殿へ続く道は、村の北をまっすぐ進むものではなかった。
地図片と《導き》が示したのは、北西の森を抜け、尾根の裏へ回り込む細い山道だった。
表から見れば、ただの獣道にしか見えない。
だが、ところどころに残る石積みや、崩れかけた杭の跡が、人の手が入っていたことを物語っている。
ノアたちは昼前に村を出た。
先頭はハンス。
その後ろにノア、父、カイル。
いつもの森とは違う。
木々の密度が濃く、斜面も急だ。
少し足を踏み外せば、そのまま谷へ滑り落ちそうな場所もある。
「こんなところ、普通は道だと思わないぞ」
カイルが小声で言う。
「だから隠し道なんだろ」
父が返した。
ノアは周囲へ視線を走らせる。
岩肌。
苔。
倒木。
その中に、わずかに残る“整えられた線”が見える。
【尾根裏道】
状態:荒廃
可能性:旧管理路
【石杭跡】
状態:風化
可能性:水守道の標識
【前方斜面】
危険:崩落気味
可能性:敵通過痕あり
「敵も通ってる」
ノアが呟いた。
ハンスが足を止める。
「見えるか」
「はい。最近崩れた土があります。足場を削ってる」
「急いでるってことだな」
父の顔が険しくなる。
やはり、向こうも北方貯水殿を目指している。
少し進んだところで、ハンスがしゃがみ込んだ。
「また足跡だ」
「何人?」
カイルが訊く。
「四……いや、五か」
ハンスは地面の乱れを見て言う。
「同じ方向へ急いでる。荷は軽い」
「先行隊ですね」
ノアが答えた。
「本隊じゃない。先に中を押さえるつもりだ」
山道はやがて、岩壁の裂け目みたいな場所に突き当たった。
一見すると行き止まりだ。
だが、裂け目の奥からかすかに冷たい風が流れてくる。
ノアの視界に文字が浮かぶ。
【岩壁の裂け目】
状態:擬装入口の可能性
関連:北方貯水殿管理路
「ここです」
ノアが言う。
ハンスが草を払い、岩の縁を確かめる。
すると、自然の岩に紛れるように、半分埋もれた石扉の枠が現れた。
「本当にあったな……」
父が低く言う。
石扉自体はすでに半開きだった。
誰かが先に通った痕だ。
ノアの胸が強く鳴る。
「敵が先に入ってる」
「数は?」
カイルが問う。
ノアは扉の縁へ触れた。
【北方管理路入口】
状態:開放済
変化:近時通過痕あり
可能性:敵先行隊四~五名進入
「四人か五人」
ノアは言った。
「そんなに多くない。でも、先に入ってる」
「追うしかないな」
ハンスは迷わなかった。
◇
入口の先は、長い下り通路だった。
石で作られた階段が、緩やかに地下へ潜っていく。
壁には等間隔で浅い窪みがあり、昔はそこに灯りが置かれていたのだろう。
だが今は暗い。
油灯の火だけが、狭い道を頼りなく照らしている。
足音がやけに響いた。
下るにつれて、空気が変わる。
ひんやりとしているのに、どこか湿っていて、遠くから低い水音のようなものが聞こえる。
「水の音か」
父が言う。
「たぶん」
ノアは答えた。
「かなり大きい場所が近い」
視界の奥で、青い線がぼんやりと伸びていた。
石室で見た導水盤の光に似た線だ。
【北方管理路】
状態:接続中
関連:北方貯水殿
【前方】
状態:大空間接近
危険:敵先行隊滞在の可能性
階段を下り切った先で、道は二つに分かれていた。
左は細い回廊。
右は幅の広い通路。
ノアが息を止める。
右の通路の先、床に残る泥の量が明らかに多い。
しかも壁の角に、最近ぶつけたような金具の傷がある。
【分岐】
左:保守路の可能性
右:主通路の可能性・高
【右通路】
状態:敵通過痕あり
人数:複数
「右です」
ノアが言う。
ハンスが先に進む。
その背に続いた瞬間、足元で小さな金属音が鳴った。
からり、と軽い音。
「止まれ!」
ハンスの声と同時に、全員が凍りつく。
ノアは足元を見る。
石床の継ぎ目に、細い針金みたいなものが張られていた。
罠だ。
【足元罠】
状態:起動直前
可能性:警報用
危険:高
「敵が残していった……!」
カイルが息を呑む。
ノアはしゃがみ込み、針金の先を見る。
壁の小穴へ繋がっている。
たぶん殺傷罠ではない。
だが、引けば奥に音が伝わる。
「警報です」
ノアが小声で言った。
「切るんじゃなくて、先に壁側を止めます」
「できるか」
父が低く訊く。
「やる」
ノアは近くの石片を拾い、壁の小穴の縁へ差し込んだ。
針金の張力がわずかに変わる。
【警報罠】
状態:解除可能
条件:張力固定→主線切断
「今です」
ハンスが短刀で主線を切る。
針金は緩み、そのまま床へ落ちた。
誰も音を立てない。
数秒遅れてから、全員が小さく息を吐いた。
「こんなのまで置いてやがるのか」
カイルが顔をしかめる。
「向こうも必死ってことだ」
父が言う。
通路の先へ進むと、水音はさらに大きくなった。
そして次の角を曲がった瞬間、四人は同時に足を止めた。
◇
そこには、巨大な空間が広がっていた。
思わず息を呑むほど広い。
地下だというのに、天井は高い。
石の柱が何本も立ち並び、その向こうに、青黒い水面が静かに広がっている。
貯水殿。
まるで地下神殿みたいだった。
水面の中央近くには、古びた石橋が一本伸び、その先に円形の台座がある。
さらに奥、対岸の高い場所には、巨大な石輪が半ば壁に埋め込まれていた。
あれが本当の水門だ。
【北方貯水殿】
状態:到達
構造:大貯水空間/主水門接続
危険:高
【中央石橋】
状態:通行可
注意:露出大
【北方主水門】
状態:半固定
可能性:操作対象
そして――石橋の途中に、人影があった。
四人。
そのうち二人はすでに中央の台座へ取りついている。
残る二人は周囲を警戒していた。
敵の先行隊だ。
そのさらに奥、主水門の近くには、もう一つ人影が見えた。
他より少し背が高い。
長い外套をまとい、石輪の前に立っている。
さらに、台座の陰にも、もう一人。
「……五人」
カイルが呟く。
「いや」
ノアは目を凝らした。
「六人です。台座の陰にもいる」
視界に文字が浮かぶ。
【敵先行隊】
人数:六
構成:近接三/弓一/操作役一/指揮役一
【外套の人物】
状態:指揮役の可能性
危険:高
その瞬間、中央台座のあたりで、金属が噛み合うような音が響いた。
ごん、と低い振動。
水面がかすかに揺れる。
「始めてる……!」
ノアの背筋に冷たいものが走る。
敵はもう、北方貯水殿に辿り着いていた。
しかも、ただ来ただけじゃない。
動かそうとしている。
父の手が槍を握りしめる。
ハンスの目が細くなる。
カイルは短剣へ指をかけたまま、息を殺している。
ノアは巨大な貯水殿を見つめた。
石室も、副水門も、全部ここへ繋がっていた。
敵は最初から、この場所を目指していたのだ。
少しでも遅れれば、取り返しがつかない。
ノアの視界の中で、主水門へ続く一本の線が、ゆっくり赤く染まり始めた。
次の瞬間、貯水殿のどこかで、重い石が噛み合う音が響いた。
――間に合うのは、今しかない。




