第9話 死都の門をくぐる人々
宮殿に水が戻ってから、三日が経った。
兵士さんと御者さんは、あの翌朝に王都へ向けて出発した。
それから僕とレティシアは毎朝、水源所に通っている。
湖から水を入れ、取水門を閉じて解呪する。
宮殿で汲んだ水も、水路を通る間に混じった呪いをもう一度払えば使える。
手間はかかるけれど、水に困ることはなくなった。
問題は食料だった。
王都から持ってきた保存食は、少し食べる量を減らせば、一人でおおよそ二週間はもつだろうか。
レティシアと一緒に食べているので、一週間もすれば底を突いてしまう。
一応、食料は定期的に届けられると聞いてはいたが──厄介払い同然で王都を追われたのが実情だ。どこまで当てにしていいものか。
(届かなければ、自分で買いに出るしかないね。死都のことを説明したら、近くの宿屋で食料を分けてもらえるかな)
そんなことを考えながら、減っていく食料を見て悩む日々。
その日も、宮殿の窓から街道を眺めていた。
高台にある宮殿からは、城壁の向こうまでよく見える。
城門から少し離れた街道脇に、荷車が一台止まっていた。傍らに立つ人影は、城門に近づきかけては荷車に戻り、どうしたものかと迷っているようだった。
「レティシア。誰か来てます」
「あら。本当ね」
荷台には、袋や木箱が積まれている。
もしかして、食料を届けに来てくれたのだろうか。
「行ってみましょう」
僕たちは城門に向かった。
待っていたのは、王国から頼まれて食料や水を運んできた商人だった。
死都に住んでいるという話は半信半疑で、近づくのも怖く、ここで待つしかなかったらしい。
「助かりました。本当に来てもらえるか、心配していたんです」
「私もですよ。誰もいなかったら、どうしようかと」
商人はそう言って笑い、荷台に積んだ麦の袋や木箱を見せてくれた。
これだけあれば、二人でもしばらくは食べていけそうだ。
「あ、水は大丈夫です。アルヴァンで汲めるようになったので」
「え? 死都の中で……ですか?」
「はい。呪いさえどうにかなれば、湖の水も美味しいですよ」
商人は目を丸くした。
それから、何か思いついたように街道の先を振り返る。
「でしたら、この水をほかの方に分けても構いませんか?」
「大丈夫ですが、いったい誰に?」
「実は……ここに来る途中、村から逃げてきた人たちに会いまして。かなり困っていたようなので──」
「村から逃げてきた、というのは?」
「魔物に襲われたそうです。街道脇で休んでいましたが、歩くのもつらそうな方が何人か……」
「ここから遠いんですか?」
「いえ。少し戻ったところです」
僕はレティシアを見た。
「一緒に行きましょう、相棒。気になるわ」
「はい」
僕は商人に向き直った。
「案内してもらえますか? 僕たちも、水を配るのを手伝います」
***
商人の荷車について、街道をしばらく歩いた。
街道の脇に、二十人ほどの人たちがいた。
荷物を積んだ手押し車が二台。
その周りに腰を下ろし、誰もほとんど喋っていない。
膝に子どもを寝かせている人もいれば、靴を脱いで足に布を巻いている人もいた。
こちらに気づいた男の人が、立ち上がろうとして顔をしかめた。
「そのままで大丈夫です。お水を持ってきました」
僕とレティシアは、荷車から水の入った桶を下ろした。
商人も荷台からパンの籠を下ろしてくれる。
「飲んでもいいんですか?」
「はい。どうぞ」
近くにいた女の人に、水を注いだコップを渡した。
彼女は深々と頭を下げ、膝の上の女の子を起こした。
「ほら、お水だよ。飲める?」
女の子が両手でコップを持つ。
ごくごくとすごい勢いで飲みつつも、半分ほどを残し、おずおずと母親に差し出した。
「お母さんも」
「いいのよ。先に飲みなさい」
「まだありますから。お母さんも飲んでください」
僕が別のコップを差し出すと、女の人は信じられないとばかりに目を見開き、それからそっと頭を下げた。
水とパンが皆に行き渡るのを待ってから、僕はさっきの男の人の前にしゃがむ。
「ノアといいます。お話、聞かせてもらえますか?」
「……オットーです。あちらは妻のハンナと、娘のエルザです」
男の人は、コップを持った女の子に目を向けた。
「三日前、村が魔物の群れに襲われました。柵を破られて、家の中まで入り込まれて……」
そこで一度、言葉が途切れた。
オットーさんは膝の上で手を握り、また話し始める。
「近くの森に逃げ込んだ者で集まって、どうにかここまで来ました。ほかにも逃げた者はいるはずなんですが……」
「その人たちも、まだ村の近くに?」
「分かりません。何人かで村まで戻ってみたんですが、まだ魔物がいて、近づけなくて──」
オットーさんは、妻と娘を振り返った。
「捜したかったんです。でも、この子たちを、いつまでも森に置いておくわけにはいかなくて……」
自分たちが逃げるだけで精一杯だったのだろう。
魔物に住む場所を追われる人は、王都の外では珍しくないと聞いていた。けれども、こうして子どもまで疲れ果てている姿を見るのは、つらかった。
「これから、どちらへ?」
「ひとまず、近くの町まで行こうかと。大きな街まで行けば、何か仕事があるかもしれませんから」
そう言うオットーさんの表情は、疲れ果てていた。
手押し車に積まれているのは、毛布や衣類を包んだ荷物ばかりだった。
鍋も一つ見えたけれど、中には何も入っていない。
オットーさんの後ろで、ハンナさんが娘の足をさすっていた。
靴の縁が擦れて、かかとから血がにじんでいる。
次の町まで、どれくらいかかるのだろう──この人たちが、そこまで歩けるようには見えなかった。
僕はレティシアに、小声で尋ねた。
「アルヴァン宮で休んでもらうのは、どうでしょう」
「賛成。部屋ならあるわ」
「なら決まりですね」
オットーさんに向き直った。
「よかったら、僕たちのところへ来ませんか。水もありますし、屋根のある場所で休めます」
オットーさんが顔を上げた。
近くにいた人たちも、こちらを見る。
「この近くに、泊まれる場所が?」
「はい、アルヴァンの宮殿です。僕、あの街の管理官として来たばかりなんです」
誰も、返事をしなかった。
オットーさんの視線が、街道の先に動く。
黒ずんだ城壁が、ここからでも見えていた。
「……死都、ですか?」
「はい」
「あそこに入れっていうんですか?」
オットーさんが、ハンナさんと娘をかばうように前に出た。
周りの人たちも、手にしていたコップやパンを持ったまま固まっている。
「あそこは、入った人間が生きて出られない場所でしょう」
「あんなところに子どもを連れていくわけには──」
「でも、この人たち、アルヴァンで暮らしてるって──」
あちこちから声が上がり、皆が口々に話し始めた。
僕は周りにも聞こえるよう、声を張った。
「僕たち、そこで暮らしているんです。道も部屋も、呪いは解いてありますから」
「呪いを、解いた……?」
「僕は解呪師なので」
オットーさんは、信じられないという顔で僕を見ていた。
すぐに信じてもらえないのは、仕方がない。
なにせ三百年、誰も住めなかった街だ。僕が解呪師だと名乗っただけで、移動しようとはならないはずだ。
「入口まで来てもらえませんか。実際に見てから決めてもらって構いません」
オットーさんはしばらく城壁を見つめていたが、やがて頷いた。
「……分かった」
商人が荷台に上がり、麦の袋を片側に寄せた。
それから、娘を抱いているハンナさんに手を差し出す。
「その子、乗せていきましょうか? ほかの子も、何人かなら乗れますよ」
「ありがとうございます。助かります」
ハンナさんが娘を抱き上げ、商人に預けた。
僕はその間に、護符を用意する。
鞄に残っていた分だけでは足りず、道端で小石を拾って、一つずつ白い力を込めた。
石を布で包み、紐で結んで、皆に渡していく。
「城門の外にも呪いが届くので、これを身につけていてくださいね」
「こんなことまで……。あなたは──いったい?」
「ただのしがない解呪師です」
ハンナさんは、娘の首にかけた紐を結び直した。
商人にも一つ渡し、馬の首にも護符を結びつける。
全員が身につけたのを確かめてから、僕たちは城門に向かった。
***
アルヴァンの城門に着くと、皆の足が止まった。
開いた門の向こうには、黒い街並みが続いている。
建物の壁も、石畳も、まだ呪いで真っ黒だった。それでも、その真ん中には灰色の道が、くっきりと遠くまで続いている。
その上を、くまくまたちがせわしなく動き回っていた。
「な、なんですかこれ──本当に呪いを解いたんですか?」
「はい、見てのとおりです」
「ふふん。私の相棒、すごいでしょう?」
「あの道を通れば、アルヴァン宮まで行けますよ」
オットーさんが、持ってきた手押し車を見た。
細い道の上では、左右の車輪がはみ出してしまいそうだった。
「少し広げますね。そこで待っていてください」
「……広げる?」
「はい」
僕は一人で城門をくぐり、灰色の道の脇にしゃがんだ。
右手を、黒い石畳に当てる。
「呪いに触っては――!」
背後から悲鳴のような声があがる。
僕は振り返らず、そのまま力を流し込む。
指先から、白い光が広がった。
石の隙間まで入り込んでいた黒い染みが、指先に近いところから消えていく。
道に沿って呪いを払い、最初の曲がり角まで届いたところで、僕は一度手を離した。
「このくらいあれば、荷馬車も通れますよね?」
振り返ると、皆が門の中を見つめていた。
さっきまで人一人が通れるほどだった灰色の道が、荷車でも余裕をもって通れる幅に広がっていた。
オットーさんは、何か言おうとして口を開き、そのまま閉じた。
「……信じられない。これほど簡単に、死都の呪いが──」
「まあ、まだ先は長いですけどね」
道の端では、周囲に残った黒い呪いが這い戻ってきていた。
そこに、一体のくまくまが走ってくる。
「くま!」
黒い染みの前で足を止め、短い前足から白い光を放った。
呪いが消えたのを確かめると、今度は反対側へ走っていく。
「い、今のは?」
オットーさんたちが、あんぐりと口を開けていた。
「くまくまよ」
「く、くまくま?」
「はい。この子たちが、また呪いが広がらないように見ていてくれています」
「……はあ」
オットーさんは、ますます分からないという顔になった。
僕が立ち上がると、レティシアも城門をくぐってきた。
「レティシア。僕が先へ進むので、後ろの案内をお願いできますか」
「ええ」
「待て。レティシア!?」
その名前を聞いた途端、年配の男の人がぎょっとした顔でレティシアを見た。
「まさか。《七禍》の──」
人々の視線が、今度はレティシアに集まった。
ハンナさんまで警戒した様子で、荷台に座る娘を抱き寄せる。
「……今は、この道を守っているのだけれど。それでは足りないかしら?」
レティシアの言葉に、人々は顔を見合わせるばかり。
その視線には、まだ怯えが残っていた。
(これは──少しまずいね)
「少し、僕の話も聞いてもらえますか」
僕はレティシアの隣に立った。




