第7話 死都に水が戻る日
さらに坂を上ると、建物の並びが途切れた。
道の先には低い石柵がめぐらされ、その向こうに大きな湖が広がっている。けれど水面はところどころ黒く濁り、岸辺の石まで呪いに染まっていた。
湖の上には、石造りの建物がせり出すように建っていた。
水中へ伸びる白い石柱にも黒い染みが這い、壁の半分ほどが呪いに覆われている。建物の入口には、道の石蓋と同じ波の印が刻まれていた。
「はぁ……はぁ……もう、セレナがいれば、こんなところまで歩いてこなくて済んだのに」
レティシアが膝に手をついて息を切らしていた。
「セレナ?」
「《水の権能》を持っていた子よ。水が必要なら、あの子に頼めばすぐだったのに」
ぷくりと頬を膨らませたレティシアが、不満そうに僕を見る。
「相棒はなんでそんなに元気そうなのよ」
「まあ、解呪師は体力勝負でもありましたから」
「ぬぬぬ。こういう時、なにもできない雷の権能が恨めしいわね」
「いやいやいやいや。くまくま、恐ろしいほど便利ですよ?」
「──あら、ありがとう?」
レティシアはまだ少し不満そうだったが、息を整えると石造りの建物へ歩いていった。
「ここが水源所よ。湖の上に建ててあるの」
レティシアが入口へ歩み寄る。
扉は外れかけていたけれど、その隙間から湿った冷気が流れてきた。
奥からは、かすかに水の流れる音も聞こえる。
「入っていいですか?」
「もちろん」
僕は入口の石へ手を触れた。
ぎい、と軋んだ音を立てて扉が開く。
一歩中へ入ると、奥はほとんど何も見えないほど暗かった。
「真っ暗ね」
レティシアの指先に紫色の光が灯り、入口から続く石段を照らした。
足元の呪いを払いながら下りると、左の壁に沿った石の通路に出た。
右手には広い水面があり、水中から立つ太い石柱が天井を支えている。
「ここから街に水を送っていたはず……なんだけど──」
レティシアが指差した先には、アーチ形の水路の口があった。
けれどその奥では、呪いが黒く固まり、水路を完全に塞いでしまっていた。
「……なるほど。水が来ない原因は、これですね」
僕は水路の前にしゃがんだ。
「どうにかなりそう?」
「はい。でも──こんなもの、流すわけにはいきませんね」
湖の水は、呪いで真っ黒だ。
水路を開ければ、これがそのまま街に流れていくことになる。
「むう」
「……一つ試してみたいことがあります」
僕は水際へ移動し、黒い水へ右手を浸した。
指先から解呪の力を流し込む。
まとわりついてきた呪いを解いていくと、手の周りから黒い濁りが消えていった。
「あら」
やがて底に沈んだ白い石が見えてくる。
澄んだ水は少しずつ広がっていったけれど、その向こうには黒い水面がどこまでも続いていた。
「ちゃんと解けるじゃない」
「解けますけど……このペースで湖全部は無理ですね」
「あなたでも?」
「広すぎます。それに──」
試しに手を離してみる。
すぐに周りの黒い水が流れ込んできた。
せっかく澄んだところが端から染まり、みるみる元の色に戻っていく。
「……戻っちゃったわね」
「これじゃ埒が明きませんね」
足元で、くまくまが水面を覗き込んでいた。
前足をそっと伸ばし、ちゃぷ、と水に触れる。
「くまぁ……」
すぐに前足を引っ込めて、僕の足元まで戻ってきた。
「くまくまも、水の中は嫌みたいですね」
「役に立たないわねえ」
「昨日あれだけ働いてくれたのに、その言い方はひどくないですか?」
「冗談よ」
僕の相棒、使い魔には随分と辛辣だった。
僕はもう一度、湖を見る。
湖全部を綺麗にするのは難しい。
それでも街に送る分だけなら、なんとかなるかもしれない。
「困りましたね。この中にある分くらいなら、解呪できそうなんですが」
「それならどうにかなるかも。確かセレナが言ってたはず……」
レティシアが水源所の中を見回した。
「あ」
「どうしました?」
「そう、取水門があるはずよ。水路を点検するときは、湖から入ってくる水を止めていたもの」
レティシアが通路の奥へ歩き出す。
僕もそのあとを追った。
壁には、黒い呪いに半ば埋もれた金属板がはめ込まれていた。
表面には複雑な紋様が刻まれ、その中央に丸い石が埋め込まれている。
「これかしら?」
「動くんですか?」
レティシアが得意そうに金属板へ手を置いた。
「こういう時こそ、雷の出番でしょう」
レティシアが、金属板の中央にある石へ指先を触れた。
ぱちぱちと紫電が紋様を駆け巡る。
しばらく何も起きなかったけれど、やがて壁の奥から、がこんと重い音がした。
「あ、動いた」
「当然よ」
さらに雷が流れ込む。
ごご、と水の下から重い音が響いた。
湖と水源所をつなぐ口へ、厚い石門がゆっくりと下りていく。
湖から流れ込む水が少しずつ弱まり、石門が底まで下りると完全に止まった。
「ふふん。雷だって便利でしょう?」
「はい。恐ろしいほど便利です」
「分かればいいのよ」
レティシアが満足そうに胸を張った。
「じゃあ、始めます」
湖と切り離された水へ、もう一度手を浸した。
指先から解呪の力を流す。
黒い濁りが少しずつ薄れ、澄んだ場所が広がっていった。
今度は周囲から黒い水が戻ってこない。
「いけそう?」
「はい。ただ、ちょっと時間はかかりそうです」
水源所の中だけとはいえ、かなりの量がある。
何度か腕を休ませながら、残った黒い部分を追っていった。
レティシアは途中から石段に腰掛け、くまくまを膝に乗せてこちらを見ている。
「相棒、大丈夫?」
「はい。あとちょっとです」
「そうじゃなくて。何度も腕を休めてるじゃない」
「ちょっと疲れただけですよ」
「……無理はしないでよ」
「分かってます」
どうやら使い魔よりは、相棒に優しいらしい。
そんなことを考えながら、僕は最後に残った黒い濁りに力を流す。
やがて、水面から黒い色が消えた。
手を離してしばらく待ってみても、今度は黒く濁らなかった。
「終わりました」
「本当に?」
レティシアが石段から立ち上がり、水際までやってくる。
底の白い石を覗き込んでから、嬉しそうに僕を見た。
「綺麗になったわね」
「あとは街に流すだけです」
僕はアーチ形の水路に戻った。
厚い呪いに、右手を当てる。
黒い塊が白く変わり、ひび割れながら崩れていった。
最後の部分を払うと、水路の奥から、ごぼっと低い音がする。
「こんなもんですかね」
僕が右手を引いた、次の瞬間。
貯水槽の水が水路に吸い込まれていった。
ごうごうと音を立てて、解呪したばかりの澄んだ水が街に流れていく。
「流れたわ!」
レティシアが水路を覗き込んだ。
今流しているのは、湖から切り離して解呪した分だけだ。
これを使い切れば、また取水門を開けて水を入れ直さなければならない。
「戻りましょう。ちゃんと街まで届いたか確かめたいです」
「ええ!」
元気よく頷くレティシア。
水源所を出ると、レティシアは足早に坂を下り始めた。
「さっきまでへばってたのに」
「だって、早く見たいじゃない」
そう言って、さらに歩調を速める。
僕もそのあとを追った。
途中、道に埋め込まれた石蓋のそばを通ったときだった。
その下から、ごうと低い音が聞こえる。
「……来てますね」
「ええ」
僕たちを追い越していくように、地下を水が流れていた。
やがて、朝に立ち寄った広場が見えてくる。
その手前で、水音が聞こえた。
「……!」
レティシアが駆け出す。
三つの獣の口から、水が流れ落ちていた。
朝には乾ききっていた石槽が、みるみる水で満たされていく。
「出てる……」
レティシアが石槽の前まで走った。
手のひらで水を受ける。
指の間からこぼして、もう一度すくう。
「三百年ぶりだわ」
僕も隣で水に触れた。
「あ、飲むのは念のため待ってください」
「どうして?」
「水路が呪われてたら危ないので。念のため、もう一度浄化します」
「むう……。呪いってしつこいのね」
レティシアはしぶしぶ、手の中の水を石槽に戻した。
「相棒、やったわね」
レティシアがこちらを見た。
僕も頷き返す。
朝、彼女が話していた光景を思い出す。
ここに桶を持った人たちが並んで、おしゃべりをして怒られたり、王女様を捕まえて水の出が悪いと文句を言ったりしていた。
この街は、その光景に少しだけ取り戻しつつあるのだ。
「まだまだです。いずれは人が当たり前に住めるように──なんて、遠い道のりですけどね」
「でも、できるのよね?」
「はい。僕とレティシアなら、必ず」
レティシアは僕をじっと見たあと、嬉しそうに笑った。
***
「ノア様!」
宮殿へ戻ると、兵士さんが廊下の向こうから駆けてきた。
「水が出ています!」
「宮殿にも届きましたか」
「はい。厨房の水場から急に流れ始めまして」
案内された厨房では、壁際の長い流し台から、いくつもの蛇口が水を吐き出していた。
御者さんは、その下に大きな水瓶を次々と並べている。
「ノア様、この水は使っても?」
「念のため、僕の方でもう一度解呪しておきます」
僕は水瓶に手を伸ばす。
わずかに感じ取れる呪いの感触を、一つずつ解いていく。
「これで大丈夫です」
「ありがとうございます」
兵士さんが水瓶に蓋をする。
御者さんは次の瓶を僕の前へ運び、それが終わると厨房の鍋に水を移し始めた。
「ただ……今流れているのは、水源所に溜めて解呪した分だけです。湖から入ってくる水は、まだ止めたままなので」
「では、使い切ったらまた水源所へ?」
「はい。どうにか湖ごと解呪できればいいんですが──」
今のところは、何度か通うしかなさそうだ。
「あ、それと兵士さん」
僕は、次の桶を抱えようとしていた兵士さんを呼び止めた。
「王都へ戻るとき、一つ伝言をお願いできますか?」
「はい。なんでしょう」
「《雷の恩寵》が、止まるかもしれないと伝えてください。急に使えなくなると、困る人もいると思うので」
「……恩寵が止まる、と?」
兵士さんの表情が引き締まる。
「承知しました。必ず伝えます」
レティシアが解放されたのは昨日だ。
王都には、もう新しい雷の力は届いていない。
ここから王都までは何日もかかる。
──伝言より先に。
向こうではもう、異変が起き始めているのかもしれない。




