第6話 恩寵の正体
「ノア様。洗面のお水は、こちらをお使いください」
翌朝、目を覚まして客室を出ると、兵士さんが水で濡らした布を差し出してくれた。
隣の部屋では御者さんが荷物をまとめている。
窓から朝日が差し込んでいて、昨夜使ったランタンはもう消されていた。
「ありがとうございます。よく眠れましたか?」
「はい。まさか死都で、こんなにぐっすり眠れるとは思いませんでした」
兵士さんが、少し照れたように笑った。
その足元を、一体のくまくまが通り過ぎる。
廊下の隅に入り込んだ黒い染みを見つけると、それを払ってからまた歩き出す。
夜の間も、こうして見回ってくれていたらしい。
「助かるよ、くまくま」
「くま!」
呼びかけると、くまくまは前足を上げて応えた。
僕も手を振り返してから、濡れた布で顔を拭う。
冷たさが頬に触れ、ようやく頭がはっきりした。
「ノア様。この先、水はどうなさいますか?」
「水ですか?」
「ええ。持ってきた水はまだありますが、これからここで暮らすなら、水場は早めに見つけておいた方がいいかと」
昨日は呪いを払って、寝る場所を用意するので精いっぱいだった。
水も食料も持ち込んだ分で足りていたから、宮殿の中に汲める場所があるかまでは確かめていない。
「そういえば……」
僕は窓の外を見る。
黒く染まった街並みの向こうに、干上がった噴水が見えた。
「この街の人たちは、水をどうしてたんでしょう」
「北の高台から引いていたわよ」
振り返ると、レティシアが廊下の向こうから歩いてくるところだった。
白銀の髪を指で整えながら、窓の外を見やる。
僕の肩へ飛び乗ってきたルゥも、その視線を追うように窓の外へ顔を向けた。
「高台に大きな湖があるの。そこから地下の水路を通して、街中に水を送っていたわ」
「そんなものまであったんですね」
「ええ。通りごとに水汲み場があったし、宮殿には直接水が来ていたわよ」
もし、その仕組みが今も生きていれば、水場には困らないかもしれない。
「その湖、見に行けますか?」
「もちろん。……水が戻れば、宮殿のお風呂も使えるようになるかしら」
「いいですねえ、お風呂。僕も滅多に入れないので」
「あなた、王城にいたのでしょう?」
「地下勤務の平民に、そんな立派なお風呂はありませんよ」
「……なら、これからは好きなだけ入りなさい。相棒」
僕も、昨日の汗と埃は落としたい。
水が戻れば、飲み水だけじゃない。食事にも、洗濯にも使える。
この街をもう一度人が暮らせる場所にするためにも、水源の問題は急務だった。
「分かりました。まずは湖を見てみましょう」
僕が答えると、レティシアは満足そうに笑う。
僕は水袋を腰へ下げ、レティシアと一緒に宮殿を出た。
***
朝の光の下で見るアルヴァンは、夜よりもずっと広く感じられた。
宮殿の石段から見下ろすと、黒い屋根がいくつもの通りを挟んで重なっている。
昨夜、僕たちが使えるようにしたのは、その中を城門まで伸びる細い道と宮殿のほんの一部に過ぎない。
「……こうして見ると、広いですね。アルヴァン」
「管理官が今さらそれを言うの?」
レティシアが向かったのは、昨日解呪した道から少し外れた通りだった。
呪いを解きながら進むこと数分。
やがて、小さな広場に出た。
通りに面した石壁には、獣の頭をかたどった石像が三つ並んでいる。
本来なら、その口から水が流れ落ちるようになっているらしいが、今はどれも乾いたままだ。
「ここで水を汲んでいたんですね」
「ええ。朝になると、向こうの通りまで列ができたわ。並んでいる間におしゃべりを始めて、後ろから怒られる人もいたけれど」
「そんなことまで知ってるんですね」
「水場は優先して見て回っていたから」
レティシアが、石槽の縁に手を置いた。
「でも、よく捕まったわ。水の出が悪いとか、隣の店が桶を置きっぱなしにしているとか。文句を言うなら今だと思われていたんでしょうね」
「王女様を捕まえて、桶の苦情ですか」
「笑い事じゃないわよ。何度か、本当に片づけさせに行ったんだから」
少しむくれた顔で言われて、僕は笑ってしまった。
ずいぶん、街の人たちに近い王女だったらしい。
王女様だったレティシアが、ここで水桶を抱えた住民たちに囲まれている。
そんな姿は、不思議とすぐに想像できた。
僕は三つの石像の呪いを払ってみた。
けれど、乾いた石槽へは一滴も水が落ちてこない。
「水、流れませんね」
「となると、原因は水源かしら?」
レティシアが広場の北を指差した。
僕たちは道の呪いを解きながら、二人で坂を上っていく。
道には一定間隔で、四角い石蓋が埋められていて、波をかたどった印が刻まれていた。
レティシアによると、地下水路を点検するためのものらしい。
「──昨日から、気になっていたんですけど」
坂の途中で、僕はレティシアに声をかけた。
「これも魔法ですよね? なんで王都の外で、こんな大掛かりな魔法が使えるんですか?」
「むしろ、なんで王都の外だと使えないの?」
心底不思議そうに、レティシアが首をかしげた。
僕は、足元に戻ってきたくまくまを見る。
さっきからせわしなく走り回り、侵食してこようとする呪いを追い払っていた。
七柱の恩寵の届かない王都の外で、これだけの魔法を使っている──ありえない光景だった。
「昨日、いばらも自分の力だったって言っていましたよね。王城の地下の呪いも、あれと同じ感触でした。……やっぱり王都の呪いはレティシアが?」
「失礼ね、昨日も言ったでしょう? 私は──《七禍》は、誰も呪ってなんていないわ」
レティシアの視線は真っ直ぐだった。
嘘をついているようには見えない。
……だとすると、ますます分からない。
「じゃあ……王都の地下にある、あの呪いは?」
「簡単なことよ。私たちの《権能》は──奪われて歪められた」
王都の地下に溜まる呪い──それは歪められた七禍の権能だった。
そして僕が毎朝やっていたのが、呪いを元の姿に戻すことだというのなら……。
「七柱の恩寵──それって元は、あなたたちの力だった?」
「そういうことになるわね」
レティシアは、あっけらかんとそう言うけれど。
奪った力を《恩寵》と呼ぶなんて、あんまりな皮肉ではないか。
「人魔大戦が終わっても、人々の暮らしまで元どおりになるわけじゃないでしょう? 最初は、復興のために私たちも率先して自分の権能を貸していたの」
七人の英雄と、七属性の恩寵。
僕は、王城の地下から伸びていた七本の導管を思い出した。
「でも……ずっと貸す約束ではなかったの。自分の意志で使わせていたものが、いつの間にか王国の持ち物みたいに扱われたわ」
「そんな身勝手な」
「ね、だから言ったの。いつまでも力は貸せないって。ちゃんと自立してほしいって」
レティシアが、坂の先へ目を向けた。
「そしたら──気がついたときには、あのいばらに縛られていたわ。意識が戻るたびに、自分の中から力が引き剥がされていくのが分かった。裏切られた、そう気がついたのが遅すぎたのね」
「そんなこと、許されるはず──」
「相棒も気をつけなさい。国なんて、所詮はそんなものよ」
そう言うレティシアの声は、妙に軽かった。
僕も、十年間ずっと王国の地下で呪いを解き続けてきた。
それでも用済みになった途端、魔導院の功績の邪魔になるからと、厄介払い同然で死都に送られた。
レティシアの言葉には、嫌な説得力があった。
この話が本当なら──
『いつ王都を攻め落とすの、相棒?』
あの言葉は、文字通り半分は冗談ではなかったのかもしれない。
僕が毎朝、地下で元に戻していた呪い。
その向こうでは、レティシアがあのいばらに吊るされたまま、力を奪われ続けていたのだ。
「……僕は、何も知らなかったんですね」
「あなたが知るわけないでしょう。三百年前の話よ」
レティシアが、僕の右手を取った。
「どう? 少しは王都を攻め落とす気になった?」
「そうですね──やめておきます」
「そう? 残念ね」
「……だってレティシア自身が、全然そんなこと望んでなさそうですから」
レティシアが、僕の顔をじっと見た。
「そう見える?」
「はい」
「……相棒がそう言うなら、きっと、そうなのね」
レティシアは、それ以上何も言わなかった。
僕たちはまた、並んで坂を上っていく。
「……ほかの六人も、同じようにされているんでしょうか」
「王都で七つの力が使われているなら、たぶんね。でも、私が囚われてから会っていないし、居場所も分からない。分かっていたら、もうあなたに頼んでいるわ」
僕は迷わず頷いた。
レティシアと同じ状態の人がほかにもいるのなら、見つけたときに放っておくつもりはない。
「……今はもう、力を奪われている感じはないんですよね?」
「ええ。絶好調そのものよ」
「それなら、王都に新しい雷の力は届かないことになりますね」
レティシアの口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
「──ええ。向こうには残念なことでしょうね」
貯蔵槽に溜まっていた分は、まだ使えるかもしれない。
けれど、新しい雷の力が送られてこないのなら、いずれは使い切ってしまう。
……僕の代わりの装置が、どれだけ正確に動いたとしても。
「宮殿へ戻ったら、兵士さんたちに伝言を頼んでみます。雷の恩寵が止まるかもしれないって」
「王都に知らせるの?」
「はい。急に止まると困る人もいるでしょうから。ただ、レティシアにまた力を差し出してもらうつもりはありません」
レティシアが少し目を見開いた。
それから僕の手を離すと、胸を張る。
「当然よ。これからは、私が使い道を決めるわ。まずは相棒との街作りね」
足元で、くまくまが元気よく鳴いた。
三百年間、王都へ奪われ続けていた雷の力。
今はその力で生まれた白い熊が、僕たちの歩く道を守っている。
レティシアはしゃがんでその頭をひと撫でし、立ち上がると坂の上を指差した。
「さあ、行きましょう。湖はもう少し上よ」




