第5話 三百年ぶりの食卓
「おいで、くまくま」
レティシアが小さく両手を広げる。
次の瞬間、紫電が石畳を走った。
ぱちん、と空気が弾け、夕暮れに沈みかけていた廃都の壁々が、一瞬だけ紫色に浮かび上がる。
「うわっ」
思わず目を細めた。
光が収まったあと、石畳の上に残っていたのは──ふわふわの白い毛に包まれた、小さな熊だった。
丸い耳に短い手足。つぶらな黒い目で、こちらを見上げている。
大きさは僕の両手に収まりそうなくらいで、見た目だけならぬいぐるみにしか見えない。
「これは……熊?」
「くまくまよ」
「名前、そのままなんですね」
「可愛いでしょう?」
「まあ、それは否定しませんけど」
くまくまがレティシアと一緒に、ちょこんと首を傾げた。
その拍子に、白い毛先で紫色の火花がぱちっと弾ける。
僕の肩にいたルゥも、耳をぴんと立てて覗き込んでいた。
「この子、レティシアの魔法なんですか?」
「使い魔よ。私の雷から作ってるの」
レティシアが少し得意そうに胸を張る。
「昔は、この子たちによく街を見て回ってもらってたの。変な魔力があれば、すぐ教えてくれるから」
「へえ」
それなら、さっき解呪した道に呪いが流れ込んでも、すぐに気づける。
「くまくま。さっきの道を見てきて」
「くま~!」
小さく鳴いて、くまくまがとてとてと走り出した。
僕たちが解呪してきた灰色の道を、城門の方へ戻っていく。
少し先では、石畳が端からまた黒ずみ始めていた。
その手前で、くまくまがぴたりと足を止める。
「くま!」
その場でぴょんぴょんと跳ね、こちらへ向かって短い前足を振っている。
「なるほど」
「ね、ちゃんと見つけたでしょう? ああやって教えてくれるの」
これなら、どこに呪いが入り込んできたかはすぐ分かる。
たしかに便利な力だ。
くまくまが戻ってきて、僕の足元で顔を上げた。
(でも、どうせなら──)
僕は、ふと思い出す。
兵士さんに渡した護符は、石に僕の力を込めたものだ。
僕がそばにいなくても、持ち主に近づく呪いを払ってくれる。
この子にも同じ力を持たせられれば、呪いを見つけたら追い払えるんじゃないだろうか。
気になるのはレティシアの魔力でできた身体に、僕の力を込めておけるかだけど……。
(試す価値はあるかな)
「レティシア。少し、この子を借りてもいいですか?」
「いいけれど……何をするつもり?」
くまくまを抱き上げ、頭に手を置いた。
まずは、護符を作るときと同じように少しだけ力を込める。
指先から流した白い力が、くまくまの中へ入っていく。
そこで、いったん手を離してみた。
くまくまの胸元には、白い光が小さく残っている。
僕の手から離れても消えない。
(よし。力は残せる)
あとは、呪いを見つけたときに、この子が自分で力を使えるかどうかだ。
「くまくま。今あげた力、使ってみてくれる?」
くまくまが、自分の胸元を見下ろした。
それから短い前足を持ち上げると、胸元に灯っていた白い光が、その先へ集まっていく。
「くま~!」
前足を振ると、白い光が小さく弾けた。
これなら、見つけた呪いに向けて使ってもらえそうだ。
僕はもう一度くまくまの頭に手を置き、少しだけ力を足した。
「…………」
レティシアが、くまくまの前足をまじまじと見つめている。
「よし」
「……ぇえ? そんな簡単に解呪の力って持たせられるの?」
「まあ、護符作るのとそんなに変わりませんよ」
「そんなにあっさり……。というか私の使い魔、護符代わりにされてるのね」
「それは……すみません?」
「……別に謝る必要はないけれど──」
目を丸くしたまま、僕とくまくまを見比べている。
僕は、くまくまを石畳へ下ろした。
「もう一度、お願いします」
「え、ええ。くまくま、さっきの呪いを払ってみて」
「くま!」
再び、小さな身体が走り出す。
黒ずんだ石畳の手前で足を止めると、くまくまが短い前足を突き出した。
「くま!!」
前足の先から白い光が広がり、石畳の黒い染みを包み込む。
「おお」
道に入り込んでいた黒い染みが、白い光に押されるようにじわじわと退いていく。
濃い呪いは道の外に残ったままだけれど、さっき解呪した石畳は綺麗な灰色に戻っていた。
「うん。これなら、解呪した場所は気にしなくてよさそうですね」
「──こんなことまで」
レティシアがしゃがみ込み、呪いの消えた石畳へ触れる。
くまくまは、もう次の黒い染みを探して歩き始めていた。
その姿を見て、レティシアが顔を上げる。
「それなら、ほかの子たちも呼ぶ? この子一人じゃ、ちょっと広すぎるわ」
「そんなことができるんですか?」
「もちろん」
レティシアが軽く手を叩いた。
「くまくまたち、おいで」
足元で、小さな紫色の光が次々に弾ける。
ぱち。
ぱちぱち。
光が消えると、石畳の上には小さなくまくまたちがずらりと並んでいた。
「…………」
「どうしたの?」
「……王都の外で、こんな魔法を使えるんですね」
「不思議なことを言うのね。まるで王都でないと魔法が使えないみたいに」
レティシアが首を傾げる。
(……これだけの魔法を使えるのは、王都だけのはずなんだけどな)
だからこそ七柱の恩寵は、王都の繁栄だけでなく、王国の力そのものを象徴している。
やっぱり、七禍──レティシアには謎が多い。
そんな僕の疑問をよそに、レティシアは並んだくまくまたちに目を戻すと、ふふんと得意そうに笑った。
「これだけいれば十分でしょう?」
「はい。助かります」
僕がしゃがみ込むと、くまくまたちが集まってきた。
「くま」
「くま」
「くま」
僕の前に、きちんと列まで作っている。
頭に手を置いて力を込めてやると、その子は横へよけ、すぐに次の子がやってきた。
思っていた以上に、自分で考えて動いているらしい。おまけに賢い。
「なんだか可愛いですね」
「でしょう?」
レティシアが、さっきまでで一番嬉しそうに笑った。
最後の一体に力を込め、立ち上がる。
「これでよし」
「じゃあ、くまくまたち。道を見ていて」
「「「くま!」」」
一斉に散っていった。
ある子は城門へ。
ある子は道の端へ。
小さな足音が、灰色の道のあちこちから聞こえてくる。
「じゃあ、続きをやりましょうか」
「ええ」
まだ黒い石畳へ手を触れ、僕は宮殿へ向けて力を流すのだった。
***
そこからは、ずいぶん早かった。
ある程度まで解呪したら、できた道を歩いてその先へ。
解呪した道は、くまくまたちに任せておけばいい。
「……助かりました。僕一人だったら、まだ城門の辺りで行ったり来たりしていたと思います」
「ふふ、もっと私を頼ってもいいのよ?」
「はい。そうさせてもらいますね」
レティシアは満足そうに笑って、僕のすぐ隣へ並び直した。
「相棒なんだから」
何度か場所を変えて解呪を繰り返し、ふと振り返る。
黒い死都を真っ二つに割るように、一本の灰色の道が城門まで続いていた。
その上を、小さなくまくまたちが忙しそうに走り回っている。
ところどころで白い光が瞬き、黒い染みを押し返していた。
呪いは未だに廃都を押し潰そうとしている。
アルヴァンの呪いも相当だけど、これだけの使い魔を平然と動かしているレティシアも大概だ。
「……結構来ましたね」
「前を見なさい、相棒」
レティシアに言われて振り向く。
大通りの先。
夕暮れの空を背に、アルヴァン宮がそびえていた。
「本当に着いたのね」
「じゃあ、次は寝る部屋ですね」
「客室なら、こっちよ」
レティシアが何体かのくまくまを呼び寄せ、僕たちは宮殿へ入った。
こちらも相変わらず黒い。
床にも壁にも呪いが染みついているけれど、今夜は使うところだけ解けばいい。
今度はレティシアが先頭に立ち、回廊をひとつ曲がる。
「詳しいですね」
「──王女だったのよ、私。昔、この宮殿には何度も泊まっていたわ」
「王女さま、だったんですか?」
「ええ。この宮殿のことなら、任せてちょうだい」
レティシアは迷うことなく、少し先の扉の前で足を止めた。
「この部屋なら、まだ使えそうね」
「分かりました。じゃあ、ここにしましょう」
扉へ手を触れる。
力を流すと、黒く染まっていた木目から呪いが引いていった。
壁を這っていた黒も消え、三百年間死都の一部だった扉が、ただの古びた扉へ戻っていく。
ぎい、と音を立てて開いた。
中には寝台が二つと、小さな机。
ただ床も壁も黒い呪いに覆われ、奥の方は黒い靄でまともに見えなかった。
「……思っていたより、ずいぶんひどいわね」
「まあ、これぐらいなら何とかなると思います」
僕は室内へ入り、床から壁へと解呪を広げる。
寝台の周りも、窓際も。
黒い染みが消え、靄が薄れていくにつれて、部屋の奥まで少しずつ見えるようになっていった。
そのあとを、くまくまたちがちょこちょこと走り回る──頼もしい限りだ。
「……三百年分の呪いを、寝床の支度みたいに片づけてしまうのね」
レティシアが部屋を見回し、呆れたように笑った。
「これなら、泊まれますかね?」
「ええ。十分すぎるくらいよ」
僕は窓へ手をかける。
少し力を込めると、固まっていた窓が軋みながら開いた。
冷たい夕風が、部屋の中へ流れ込んでくる。
「……風」
「寒いですか?」
「いいえ。もう少し、このままで」
レティシアが窓へ近づいた。
白銀の髪を風に揺らしながら、しばらく外を眺めている。
僕も隣で、夕暮れの街を見下ろした。
***
宮殿の入口からここまでの回廊も、人が通れるだけの幅で解呪しておいた。
隣の客室も使えるようにしたので、これなら今夜はどうにかなるはずだ。
城門へ戻ると、兵士と御者さんが待っていた。
馬と馬車は、呪いの届かない野営場所に残してきたそうだ。
二人とも僕たちが戻ってきたことにも気づかず、城門の向こうに伸びる灰色の道を見つめていた。
「──これは」
兵士が、呆然と呟いた。
ほんの数時間前まで、城門の向こうはすべて黒かった。
今は、その真ん中に灰色の石畳が見えている。
人が歩けるだけの細い道が、アルヴァン宮まで途切れず続いていた。
「お待たせしました。宮殿まで通れるようになりましたよ」
声をかけると、兵士がはっとこちらを向いた。
何か言いかけた、その足元を、小さな影が横切る。
「くま!」
一体のくまくまが、道へ入り込んだ黒い染みの前で足を止めた。
短い前足から白い光を放つと、黒ずみが道の端へ押し戻されていく。
それを見届けて、またとてとてと走り去った。
「……あれは?」
「くまくまです」
「くまくま……?」
御者さんまで困惑している。
兵士の胸元には、さっき渡した護符が下がっていた。
僕は鞄からもう一つ白い石を取り出し、力を込めて御者さんへ渡す。
解呪した道の上にまで届く呪いなら、これで防げる。
「これを持っていてください。兵士さんも、護符は外さないでくださいね」
「は、はい」
「では、入ってみてください。道から外れなければ大丈夫です」
兵士が、恐る恐る城門を越えた。
一歩。 二歩。
そこで立ち止まり、自分の手を見下ろす。
胸元へ手を当て、大きく息を吸った。
「……なんともありません」
「よかった」
兵士はもう一度、足元を見た。
それから、振り返って御者さんへ頷く。
御者さんも続いて城門を越え、灰色の石畳へ足を下ろした。
「本当に……中を歩けるんですね」
「はい。部屋も二つ使えるようにしておきました。今夜は、そこで休んでください」
兵士が、宮殿へ続く道を見た。
それから僕へ向き直り、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます。でしたら、荷物は我々が運びます」
そう言って、御者さんの足元にあった荷物を抱え上げた。
「僕も持ちますよ」
「いえ。ここくらいは、お任せください」
僕が手を伸ばす前に、もう一つ抱えられてしまった。
宮殿へ戻ると、客室へ荷物を運び込んだ。
旅用の毛布が寝台に広げられる。
兵士が机を拭き、御者さんが持ってきたランタンに火を入れた。
「水は、こちらでよろしいですか?」
「はい。食料も、その隣で大丈夫です」
誰もいなかった回廊に、人の足音と話し声が響いている。
くまくまたちは、運び込まれる荷物の隙間をちょこちょこと走り抜けていた。
ルゥは気づけば、僕が置いた毛布の上へちゃっかり座っている。
「おっと」
御者さんが慌てて足を引いた。
「くま」
小さく鳴いて通り過ぎるくまくまを見て、兵士が少し笑う。
レティシアは客室の入り口に立ったまま、二人が部屋を整えていく様子を眺めていた。
兵士が顔を上げ、その視線に気づいた。
「……あの。お借りします」
「ええ。好きに使いなさい」
そう返した声は、城門の前にいたときより少し柔らかかった。
御者さんも頭を下げ、それから荷ほどきへ戻る。
レティシアも部屋へ入り、ルゥのいる寝台の端に腰を下ろす。
ルゥが膝へ乗ってくると、その白い背を撫でた。
***
それからしばらくして、日が落ちた。
僕とレティシアは、宮殿の窓からアルヴァンの街を眺めていた。
見渡す限り、町並みは暗い。
家々も広場も、ほとんど闇に沈んでいる。
「昔はね」
隣で、レティシアがぽつりと言った。
「夜でも、ずいぶん賑やかだったのよ。こうして窓を開けていると、通りから人の声が聞こえてきて」
「そうなんですね」
僕も耳を澄ませたけれど、外から聞こえてくるのは風の音ばかりだった。
その静けさに、ふいに足音が混じる。
「ノア様」
声に振り返ると、兵士がこちらへ歩いてくるところだった。
「食事の用意ができました。干し肉とパンくらいしかありませんが」
「ありがとうございます」
何気ないやり取りだった。
けれど、隣のレティシアはしばらく黙っていた。
「レティシア?」
「……誰かと食事をするってのも、久しぶりね」
そう言って、レティシアが小さく笑った。
「行きましょう、相棒」
「はい」
そうして僕たちは、兵士たちとささやかな食事を囲むことになった。




