第3話 最初の七禍
「それで、いつ王都を攻め落とすの、相棒?」
「…………はい?」
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「……王都を攻め落とす予定はありませんけど」
「あら。そうなの?」
少女は不思議そうに首を傾げた。
白銀の髪がさらりと肩から落ち、深紫色の瞳が僕の顔を覗き込んでくる。
冗談を言っているようには見えない。
むしろ本気で「どうして?」と聞いているような、妙に無邪気な顔だった。
黒いいばらの中で眠っていたときには、もっと近寄りがたい人に見えたのに。
「冗談よ。そんなに困らないで」
「冗談だったんですか……」
「半分くらいはね」
(……残り半分については、聞かない方がよさそうだね)
僕は返事の代わりに、そっと視線を逸らした。
「それより、そろそろ降ろしてもらえる?」
「あ、すみません」
そういえば、目を覚ましてからずっと抱きかかえたままだった。
腕の中にすっぽり収まる身体は思っていたよりずっと小さく、黒いいばらに吊るされていたときよりも幼く見える。
僕がゆっくりと床へ下ろすと、少女の裸足が、ようやく石床へ触れた。
けれど身体は自分の重さを支えきれず、大きく傾いた。
「危ない」
慌てて肩を支えた。
「大丈夫ですか?」
「少し、足に力が入らないだけ。三百年ぶりだもの」
「……三百年?」
思わず少女を見る。
「本当に、三百年もここに?」
「正確な年月までは分からないわ。ほとんど眠っていたから」
少女は僕の腕を借りたまま、崩れた大広間を見回した。
「たまに意識が戻っても、目は開かない。指一本動かせない。それでまた眠って、次に目が覚めるのがいつなのかも分からなくて──」
「それで……三百年」
「そうね」
少女は、何でもないことのように言ってのけた。
目も開けられず、身体も動かせないまま、人の気配ひとつない死都の奥で三百年。
想像するだけで息が詰まりそうだった。
「別に、同情してほしくて話したわけじゃないのよ」
「分かっています。ただ……大変だったんだなって」
「そう」
少女はそれ以上何も言わなかった。
気になることはまだある。
それでも、三百年ぶりに目を覚ましたばかりの人へ、今すぐあれこれ聞くのも気が引けた。
そのとき、白い影が少女の足元へ駆け寄った。
「シロフワ!」
少女がぱっと顔を輝かせ、すぐにしゃがみ込む。
ルゥは逃げるどころか、自分からその白い手へ額を押しつけた。
「……しろふわ?」
「この子の名前。白くてふわふわしてるからシロフワ」
「そんな安直な」
「失礼ね。三日も悩んだのよ」
少女は少し不満そうに頬を膨らませながら、真っ白な毛を撫でる。
「なに? 本人も気に入っていたわ」
僕はルゥを見る。
するとルゥは、少女からすっと顔を逸らし、真っ白な尻尾で床をぺしんと叩いた。
どうやらお気に召さないらしい。
「……気に入っていたようには見えませんけど」
「昔はもっと素直だったのよ」
少女が納得いかないという顔で、もう一度ルゥを撫でる。
「六年前に見つけたときは名前も分からなかったので、僕がルゥって名付けたんです」
「ルゥ?」
少女が眉を寄せる。
「シロフワの方が、この子にぴったりなのに」
「ええっと……」
「冗談よ」
そう言いつつ、少女の頬はまだ少し膨らんだままだった。
「それで……君はルゥの何なの?」
「この子は、私の使い魔よ。……三百年前まではね」
「使い魔!?」
それなら、この懐き方にも納得できる。
僕が知るよりずっと昔から、二人は一緒にいたらしい。
「僕がルゥを見つけたのは六年前です。王城の地下で、黒い呪いの中に倒れていて。周りの呪いを処理したら、そのまま僕についてくるようになりました」
少女の手が止まった。
「……王城の地下まで流されていたのね」
「流された?」
少女の視線が、僕の右手で止まった。
「その手、見せて」
「これですか?」
さっき黒いいばらに触れていた手だ。
差し出すと、少女は僕の指先を取り、何かを確かめるようにじっと見つめる。
「……やっぱり」
「何か分かるんですか?」
「あなた、自分が何をしたと思っているの?」
「えっと……呪いを解いて、使える力に変換したんだと思います」
そんなふうに聞かれても、ほかに答えようがない。
「そう思っていたのね」
少女が床へ目を落とした。
黒いいばらが消えた場所に、小さな結晶がいくつか転がっている。
透き通った紫色で、内側では淡い光がゆっくりと明滅していた。
「見てて」
少女がひとつ拾い上げる。
その瞬間、結晶は溶けるように消え、紫色の光となって少女の手へ吸い込まれた。
「っ!?」
「驚くことはないわ。これ、私の力だもん」
──あの黒いいばらもね。
少女は、さらっとそう宣言した。
「あなたの力は、呪いを変換してるんじゃない。歪められたものを、本来の姿へ戻しているの」
「本来の、姿……」
十年間。
僕は毎朝、王城の地下で黒い呪いに腕を入れてきた。
呪いを解呪し、七柱の恩寵として地上に送る。
でも、僕がやっていたのが変換ではなく、歪められた力を元に戻すことだったのなら。
(じゃあ、《七柱の恩寵》って──)
僕が考え込んでいると、少女が不意に口を開いた。
「三百年よ」
深紫色の瞳が、僕へ戻る。
「意識が戻るたびに何度も逃げようとした。力を使おうとしても、身体を動かそうとしても、あれはどうにもならなかった」
少女は、黒いいばらの消えた場所を見つめていた。
声は淡々としているのに、白い指だけが、自分の腕を確かめるようにゆっくり撫でている。
「私自身にも解けなかったものを、あなたはここへ来たその日に消した。それも、ただの仕事みたいな顔をして」
「王都では、ずっと同じことをしていたので……」
「なるほど」
少女が足元のルゥを見る。
「シロフワ――今はルゥだったわね。あなたを連れてきた理由、分かった気がするわ」
「ルゥが僕を?」
ルゥは何も答えず、僕の肩に飛び乗った。
少女はそれを見て、少しだけ笑う。
「あの。そういえば、まだ名前を聞いてませんでした」
「ああ、そうだったわね」
少女は壊れかけた冠を直し、背筋を伸ばした。
裸足で、衣装も傷んでいる。
それでも、玉座を背にした姿は不思議なくらい様になっていた。
「私はレティシア」
「レティシアさん」
「レティシアでいいわ」
「では……レティシア。僕はノアです」
「ノアね。覚えたわ」
レティシア──その名前には、聞き覚えがあった。
(どこで聞いたんだっけな)
僕が記憶を辿っていると、レティシアが先に口を開いた。
「それと、別の呼び方もされているみたいね」
「別の?」
「意識が戻ったときに、そう呼ぶ声を聞いたことがあるの──《七禍》って」
「…………っ!?」
そこで、ようやく思い出した。
三百年前、アルヴァンで大虐殺を起こしたとされる七人の大罪人――《七禍》。
その一人の名が、レティシアだった。
どうりで聞き覚えがあるはずだ。
僕は改めてレティシアの顔をまじまじと見てしまう。
白銀の長い髪に、深紫色の大きな瞳。こうして話している姿を見ると、歴史に残る大罪人だと言われても、いまひとつ実感が湧かなかった。
「《七禍》って……アルヴァンを滅ぼした大罪人ですよね?」
「……失礼ね。私たちはそんなことしてないわ」
「というと?」
「むしろ王国を救った。私を含めて七人でね」
王国で教えられている歴史とは、まるで逆だった。
「どうして、そんなことに……?」
「そこから先は、私にも分からないことが多いの」
レティシアが、黒いいばらの消えた場所を見る。
「気づいたときには、もうあれに囚われていた。そこからはほとんど眠っていたから、この三百年で王国が何をして、どんな歴史を作ったのかも知らないわ」
そう言って、レティシアは小首を傾げる。
七禍がなぜ大罪人になったのか。
誰がレティシアをここへ閉じ込めたのか。
なぜ彼女の力が黒い呪いになり、それが王都まで流れているのか。
分からないことは多い。
レティシアはしばらく黙っていた。
やがて、崩れた大広間をゆっくりと見回す。
「……この街には、もう誰もいないの?」
「はい。今は死都って呼ばれています」
「そう」
短い返事だった。
崩れた柱。ひび割れた石床。三百年前のまま時が止まったアルヴァン宮。
レティシアは、一つ一つ確かめるように視線を巡らせていく。
「私の知っている人も、もう誰もいないのね」
「……そう、なりますね」
しばらくして、レティシアが小さく息を吐いた。
「何もかも、なくなってしまったのね」
さっきまでと変わらない声だった。
けれど、その横顔は少しだけ寂しそうに見えた。
僕も、崩れた広間を見回す。
「だったら、もう一度作りましょうか」
「……え?」
深紫色の瞳が、こちらを向く。
「全部は無理かもしれませんけど」
僕は床に残る黒い染みを見る。
「呪いなら、僕が解けますから」
「…………」
「ここを、もう一度人が暮らせる街にしましょう」
レティシアが目を瞬いた。
「あなた……簡単に言うのね」
「そうですか?」
「そうよ。三百年間、人を寄せつけなかった死都なのよ?」
「でも、さっき呪いは解けましたし」
少なくとも、できない理由はまだ見つかっていない。
「それに、僕はここの管理官として来たんです。だったら、人が住めるようにするのも仕事かなって」
「ここを? 一人で?」
「ルゥもいます」
レティシアが一度、周囲を見回した。
「……そういう問題ではない気がするけれど」
もっともだった。
「でも、あなたは王都で十年間、あの呪いを処理していたのでしょう?」
「少し前まではね。僕の仕事を代わりにやってくれる装置が完成したんです。それで宮廷解呪師という職そのものがなくなって、ここに──」
「……ひどい話ね」
レティシアが黙った。
「それに王国は見る目がない」
「え?」
「だって三百年、私自身にも解けなかったものを解ける人間よ? 捨てるなんて有り得ない」
「言われてみれば……そうかもしれませんね」
レティシアはしばらく僕を見つめたあと、呆れたように息を吐いた。
「なら、ちょうどいいわ」
「何がです?」
レティシアが、僕の右手を取った。
十年間、黒い呪いへ沈め続けてきた手だ。
その指を、レティシアの白い指がためらいなく握る。
「王都が要らないと言ったのなら、私がもらう」
「……僕をですか?」
「相棒としてね」
深紫色の瞳が、まっすぐこちらを向く。
「あなたが私を助けた。だから今度は、私があなたを助ける」
「そんな大袈裟な。助けたからって、そこまでしてもらわなくても──」
「大袈裟じゃないわ。あなたが望むなら、私の力はいくらでも使ってちょうだい。──私のすべてを捧げるわ」
迷いのない声だった。
「それで公平でしょう、相棒?」
「公平……なわけないですよね、それ」
──相棒か。
そんな呼ばれ方をするのは初めてだった。
思えば、この十年間はずっと一人で呪いと向き合ってきた。
誰かと肩を並べて何かをするなんて、ほとんどなかった気がする。
相棒と呼べる相手がいるのも、案外悪くないのかもしれない。
「……それで、いつ王都を攻め落とすの、相棒?」
「物騒すぎる」
前言撤回。
僕の相棒、ちょっと凶暴かもしれない。
「だから冗談よ」
「……半分くらいは?」
「よく分かってきたじゃない」
レティシアは満足そうに笑った。
こうして僕は、死都へ来たその日に――三百年眠っていた、ちょっぴり物騒な相棒を得ることになった。




