第2話 死都の玉座に眠るもの
死都が見えてきたのは、王都を出て三日目の昼頃だった。
「あれが……旧アルヴァン市です」
御者が声を落とした。
「三百年前までは、王都に次ぐほど栄えた街だったそうです。東部の交易と軍事の中心で、王家の宮殿まで置かれていたとか」
「それが、一夜で……」
「はい。《七禍》によって滅ぼされた、と伝わっています」
七禍──三百年前、アルヴァンで大虐殺を起こし、最後には封じられた七人の大罪人の総称だ。
(七禍、か……)
名前なら、僕も何度か聞いたことがある。
王国史上最悪の大罪人で、罰当たりなことに今も王都を呪っているという──そんな恐ろしい連中だ。
子供でも知っているくらいには有名な話だった。
そして、その呪いを処理するために生まれたのが宮廷解呪師だ。
処理された呪いは《七柱の恩寵》となり、今では王都の暮らしを支えている。
なんとも皮肉な話ではある。
(その七禍が封じられている場所に、これから入るのか……)
そう思いながら、馬車の前方へ目を向ける。
街道の先。低い丘の向こうに、黒ずんだ城壁が横たわっている。
遠目には、ただの古い都市にしか見えない。
城壁も、見張り塔も、閉ざされた城門も残っていた。
けれど、近づくにつれて妙なことに気づく。
鳥がいない。虫の声もしない。
街道脇には途中まで草が生えているのに、死都へ向かうにつれて途切れている。
そして城壁が近づく頃には、枯れた草すら見えなくなり、最後には乾いた土だけになった。
「ノア様」
城門までまだ距離があるところで、馬車が止まった。
「申し訳ありません。馬車でお送りできるのは、ここまでです」
「ここまで?」
御者の隣に座っていた兵士が頷く。
「この先は、馬も嫌がって進みません。以前、無理に近づけた馬が倒れたこともあります」
「そうなんですか……」
僕は荷台から飛び降りる。
荷物は食料と水、それから最低限の日用品だけ。
死都の管理官として送り込まれるにしては、ずいぶん簡素だった。
「私たちは少し街道を戻ったところで、今夜は野営します」
「帰らないんですか?」
「今からでは、日が落ちる前に次の宿場まで着けませんので。王都への帰路につくのは明朝になります」
御者が馬の首筋を撫でる。
「この子たちも休ませてやらないといけませんしね」
「なるほど」
二人は明朝には帰るらしい。
そういえば、僕の帰りについては何も聞いていなかった。
「帰りの迎えは、いつ頃でしょう?」
「王都へ連絡が届き次第、と聞いております」
「……連絡手段は?」
「…………」
兵士が黙った。
(やっぱり、かなり体の良い厄介払いみたいだね)
まあ、今さら言っても仕方ない。
荷物を背負ったところで、白い影が荷台から飛び降りた。
「ルゥ?」
ルゥは乾いた地面へ着地すると、真っ白な尻尾を後ろへ流し、死都に向かって歩き始めた。
城門をまっすぐ見たまま、迷う様子もない。
「待って。そっちは危ないよ」
止まらない。
いつもなら名前を呼べば、耳くらいはこちらへ向けるのに、今日はそれすらなかった。
「ルゥ、ここを知ってるの?」
まるで肯定するかのようにルゥは一度だけ僕を見上げ、そのまま迷いなく城門へ歩き出した。
その様子を見ていた御者が、目を丸くする。
「あの獣は平気なのですか?」
「ルゥなら大丈夫だと思います。もともと呪いの中にいた子ですから」
僕は荷物を背負い直す。
「それに、僕もこの程度でへばっていたら、解呪師は務まりませんから」
「……どうか、ご無事で」
御者が深く頭を下げる。
「さあ、参りましょう」
兵士も馬車から降り、僕の隣へ並んだ。
「あなたも来るんですか?」
「管理官が任地へ到着するところまで見届けるよう、命じられております」
(貧乏くじだね……)
解呪師でもなければ、この辺りの呪いだけでもかなりつらいはずだ。
「よければ、これを使ってください」
鞄から、小さな白い石を取り出す。
中央に小さな穴を開け、細い紐を通しただけの簡素なものだ。
「これは……?」
「簡単な護符です。僕の力を少しだけ込めてあります。お守りぐらいにはなるかなと」
「こんなものまで作れるのですか……?」
兵士は半信半疑のまま、護符を首にかけた。
「……あ」
すぐに、自分の胸元へ手を当てる。
「息が……楽になりました」
「よかった。城門までは持つと思います」
さっきまで青ざめていた兵士の顔に、少しだけ血の気が戻った。
それでも腰の剣を確かめると、緊張した様子で城門へ向き直る。
「……ルゥも待ってくれそうにないし、行きましょうか」
「は、はい」
僕は兵士とともに、ルゥの後を追った。
***
城壁へ近づくほど、空気が重くなった。
王都の地下とは比べものにならない。
黒い呪いが城壁の根元から地面を這い、石の隙間には黒い染みが入り込んでいる。城門の金具も半分ほど腐食していた。
三百年間。
誰にも処理されず、ここに残り続けた呪いだ。
「これは……すごいね」
城門の前で足を止める。
想像していた以上の惨状だった。
周囲には、過去の調査隊が残したらしい道具が散乱している。砕けた魔石、折れた結界杭、黒く腐食した盾。
どうやら何度も、城門を覆う呪いを突破しようとしたらしい。
けれど門そのものは、今も幾重もの黒い呪いに覆われていた。
「大丈夫ですか?」
「は、はい。いただいた護符のおかげで、なんとか……」
「無理そうなら言ってくださいね。ここから先は、もっと呪いが濃そうなので」
兵士は胸元の護符を握り、小さく息を整えた。
その傍らでルゥは調査隊の残した装備にも目もくれず、城門の前に座ってこちらを見た。
「僕に開けろって?」
尻尾が一度だけ動く。
「簡単に言うなあ」
手袋を外し、城門を覆う呪いへ指先を近づけた。
「ノア様、何を――」
後ろにいた兵士の声が強張る。
「少し試してみます」
「ですが、あの呪いに直接触れるなんて――」
「危なそうなら、すぐやめますから」
黒い呪いへ手を入れる。
「っ……!」
腕を刺す痛みに、思わず息が詰まった。
王都の地下で毎朝触れていたものとは、比べものにならないほど濃い。
けれども十年間、僕は毎日のように呪いへ触れてきた。
この痛みも、この感触も、知らないものじゃない。
「……これなら、できます」
僕は手を引かなかった。
力を流し込む。
指先の周囲から黒が白へ変わり、城門を覆っていた呪いの一部が消えていく。
その下から、古い鉄と石が姿を見せた。
「……え?」
兵士が息を呑んだ。
全部を処理する必要はない。
人ひとりが通れる範囲だけでいい。
さらに力を流す。
やがて城門の片側から、黒い呪いが完全に消えた。
「嘘だろ……?」
兵士は、呪いの消えた城門を見つめている。
「前の調査隊が、あれだけの装備を持ち込んでも駄目だったのに……」
そのときだった。
城門の奥から、低い音が響いた。
「え……?」
触れてもいないのに、巨大な門がゆっくりと動き始める。
三百年ものあいだ閉ざされていたはずの城門が、まるで僕を迎え入れるように左右へ開いていった。
次の瞬間、ルゥがするりと中へ入った。
驚く様子もない。まるで、こうなることが分かっていたみたいに。
「あっ、ルゥ!」
呼び止めた頃には、白い尻尾はもう門の向こうだった。
「ノア様、本当に中へ?」
「はい。ここからが僕の仕事なので」
兵士は何か言いかけて、結局口を閉じた。
「……ご武運を」
「ありがとうございます」
兵士に一礼して、僕も開いた城門をくぐった。
──目の前には、人だけが消え失せた古い街並みが広がっていた。
三百年間、人を拒み続けた死都だ。
***
「…………」
思わず立ち止まった。
街が残っている。
三百年前に滅びたはずの都市が、目の前にそのまま横たわっていた。
石造りの家々。広場の噴水。傾いた店の看板。
道端には荷車が一台、片輪を石溝へ落としたまま止まっている。店先には割れた陶器と黒ずんだ籠が散らばり、家の扉が半分開いたままの場所もあった。
長い年月をかけて廃れていった街とは、どこか違って見えた。
暮らしていた人たちが、ほんのさっきまでそこにいて、ある瞬間を境に人間だけが消えてしまった――そんな風に見えた。
「ここで、本当に三百年前まで人が暮らしてたんだ……」
声が妙に響く。
死都・アルヴァン。
王都で聞いたその呼び名が、初めてしっくりきた。
「ルゥ?」
白い尻尾が、大通りの先へ消えていく。
「待ってってば」
追いかける。
ルゥに迷いはなかった。
大通りを進み、広場を横切る。曲がり角でも一度も立ち止まらない。
やっぱり道を知っているとしか思えない。
「君、ここにいたことがあるの?」
答えはない。
「……ん?」
石畳を這う黒い染みが、進むほど増えている。
建物の壁にも黒が目立ち始め、大通りの先は地面そのものが黒ずんで見えた。
間違いない。
街の中心へ近づくほど、呪いが濃くなっている。
そしてルゥは、呪いの中心地に向かって迷いなく進んでいるようだった。
「中心に、何かあるの?」
ルゥが振り返り、金色の目で僕を見る。
それから、また前を向いた。
「……もう、なんなのさ」
僕はその白い尻尾を追った。
***
街の中央には、大きな建物が残っていた。
長い石段の上。
左右に並んでいた柱の半分は折れ、屋根も一部崩れている。
それでも、ほかの建物とは明らかに違った。
正面の扉には、三百年経った今も古い紋章が残っている。
そして何より、この辺りだけ呪いの濃さが違った。
石段も、柱も、扉も、ドス黒い染みに覆われている。
(ここが、中心みたいだ)
ルゥは迷うことなく石段を駆け上がっていった。
「待って!」
僕もその後を追う。
石段を上りきる頃には、ルゥは正面の扉の前で僕を待っていた。
「今度は、ここ?」
ルゥが扉を見上げる。
僕が近づいた、そのときだった。
重い音を立てて、扉がひとりでに開き始める。
「…………」
城門のときと同じだ。
まるで、僕が来るのを待っていたみたいに。
──開いた扉の奥には、天井の高い広間が続いていた。
左右には太い石柱が並び、崩れた壁には金の装飾がわずかに残っている。三百年も閉ざされていたはずなのに、そこにはまだ王宮だった頃の名残があった。
その最奥、数段高くなった先に玉座がある。
けれど、目を引いたのは玉座そのものじゃない。
黒い呪いだ。
大広間に満ちていた黒は、すべてそこへ流れ着くみたいに玉座の周囲へ集まっていた。
床を這い、石段をのぼり、幾重にも絡み合いながら玉座の上の何かへ絡みつく姿は、まるで巨大ないばらの塊のようだった。
「……なに、あれ」
思わず声が漏れた、そのときだった。
『――……』
「え?」
かすかに、なにかが聞こえた。
風の音じゃない。石の軋みでもない。
誰かの声だ。
ルゥが玉座へ向かって駆け出す。
「ルゥ!」
僕もあとを追う。
近づくほど、黒いいばらの輪郭がはっきりしていく。
呪いはただ淀んでいるんじゃない。何かを捕まえるみたいに、何重にも絡みついていた。
その中心に、人がいた。
黒いいばらの隙間から覗く、白い指先。
宙へ垂れる白銀の長い髪。
そして、静かに閉じられた瞼。
「……女の人?」
玉座の前には、少女が一人、宙に浮かされていた。
黒いいばらがその身体へ幾重にも絡みつき、腕も、肩も、胸元も、足も、逃がすまいとするかのように拘束している。
呪いは白い肌へ深く食い込み、まるでこの場に磔にされているみたいだった。
壊れかけた冠。
古い時代のものだと分かる衣装。
血の気のない白い肌。
これほどの呪いに縛られているのに、白い肌にも長い髪にも朽ちた様子はなかった。
その姿には不気味なくらいの静かな美しさがあって、むしろ人ならざる神々しささえ感じさせた。
『――……だ、れ……か』
「……っ」
今度ははっきり聞こえた。
ルゥが少女の前で立ち止まり、一度だけ鳴く。
六年一緒にいて、一度も聞いたことのない声だった。
「この人を……助けてほしいの?」
ルゥは少女から目を離さない。
答えは、それで十分だった。
「分かった」
どうしてこんな場所に人がいるのかは分からない。
三百年前からここにいるのか。それとも、僕の知らない事情があるのか。
でも、助けを求めている人を放っておく理由にはならなかった。
手袋を外し、黒いいばらへ手を伸ばす。
「――っ!」
触れた瞬間、鋭い痛みが腕を走った。
あまりにも濃い呪いだ。
城門を覆っていたものより、さらに強い。
けれど。
「……これ」
指先を刺す感覚。
力を流し込んだときに返ってくる抵抗。
知っている。
量も、濃さも、比べものにならない。
それでも、この呪いを僕は知っていた。
十年間、王都の地下で毎朝触れてきたものと――同じだ。
(だったら……できる)
僕は手を引かなかった。
力を流し込む。
黒いいばらの一本が、触れた場所から白く変わった。
「……!」
さらに力を注ぐ。
白い力は、枝を伝うように広がっていった。
少女の腕を縛っていた一本が消え、続いて肩を覆っていたいばらが消える。
『――あ……』
少女の唇から、かすかな声が漏れた。
「もう少しです」
聞こえているかは分からない。
それでも、そう声をかけた。
一本。
また一本。
少女を縛っていた黒いいばらが、ゆっくりと崩れ落ちていく。
最後に、胸元を覆っていた呪いに手を触れた。
「これで――!」
力を流し込む。
黒のいばらが完全に消えた。
同時に、少女の身体が宙から落ちる。
「わっ!」
慌てて両腕で受け止めた。
軽い。
これほどの呪いに縛られていたのに、その身体にはちゃんと温かみがあった。
「大丈夫ですか?」
返事はない。
「ルゥ、この人――」
「……その子……?」
「え?」
腕の中から声がした。
少女の瞼が、ゆっくりと開く。
深紫色の瞳が、最初にルゥを映した。
「……本当に……」
「知ってるんですか?」
少女は答えず、今度は僕を見る。
しばらく、僕の顔を見つめていたかと思ったら。
「私を助けたってことは、王都の敵なのよね?」
「……え?」
「それで、いつ王都を攻め落とすの、相棒?」
とんでもないことを言い出すのであった。




