第1話 王都の地下では、奇跡は黒い
王都の地下では、奇跡は黒い。
「ノア。今日で、お前は必要なくなる」
「……どういう意味でしょうか?」
僕は右腕を肘近くまで黒い呪いに沈めたまま、声だけを返した。
声の主は、宮廷魔導院長グレゴールだった。
その後ろには、護衛が二人控えている。
王城の地下、陽の光が一度も差さない最下層。
そこには絶えず噴き出す呪いを溜める巨大な貯蔵槽と、そこから地上へ伸びる七本の黒鉄の導管があった。槽の中では、粘つく黒い液体がゆっくりと波打っている。
呪い──それは石を腐らせ、鉄を錆びさせ、常人なら触れるだけで命まで削る代物だ。
(まあ、僕にとってはいつものことなんだけどね)
だから、グレゴール院長も護衛たちも、いつも化け物でも見るような目でこちらを見るのはやめてほしい。
呪いが一滴でも身体に入れば、黒い侵食は解呪するまで止まらない。最後には全身が真っ黒に壊死して死ぬ──なんていうのは、子供でも知っている話だ。
僕も、真っ黒な末期患者の写真を見たときは、吐き気をこらえるのに苦労したものだ。
(じゃあ、なんで僕は平気なのかというと──分からないんだなあ、これが)
たぶん、人よりずっと呪いに強いのだとは思う。
もっとも先代の宮廷解呪師に拾われるより前の記憶がないので、生まれつきなのかどうかさえ分からない。
宮廷解呪師としては便利だからと、深く気にしたことはなかった。
身寄りのない記憶喪失の子どもが、何の後ろ盾もなく生きていけるほど、この国は優しくない。どうにか自分にできることを、やるしかなかった。
先代の宮廷解呪師に拾われ、この地下に連れてこられてから十年になる。
今では呪いに触れることも、すっかり日常の一部と化していた。
「少しだけ待ってください。今手を離すと、ここまでやった分が無駄になるので」
「貴様、院長を待たせるつもりか!」
「構わん。続けろ」
グレゴール院長が護衛を制した。
「ありがとうございます」
僕は貯蔵槽へ意識を戻す。
一晩かけて溜まった呪いを、朝のうちに使える力へ変換する。それが僕の仕事だ。
腕から力を流し込む。
やがて僕の腕を中心に、貯蔵槽を満たすどす黒い液体が白に変わっていく。最後に残った澱みが白に変われば、今日の分は終わりだ。
「……よし」
汗をぬぐって、頭上へ伸びる七本の導管を見上げる。
今日も無事に、全部処理できた。
まっさらな液体が七本の導管へ流れ込む。すると液体は淡い白光へ変わり、黒鉄の導管を一気に駆け上がっていった。
少し遅れて、遥か頭上から鐘が鳴った。
一つ。二つ。続けて、七つ。
地下から送り出した力は、七本の導管の先で、それぞれ異なる奇跡を起こす。
火を生み、水を操り、人には不可能な現象を現実にする魔法──その源となる七つの力を、人々は《七柱の恩寵》と呼んだ。
王都ほど、魔法が当たり前に使われている場所は世界のどこにもない。
城壁を覆う結界も、水路を満たす水も、人々にとっては日常の一部だ。
そんな奇跡を支えているのが、毎日地下から噴き出している呪いを正しく処理することで生まれる力だった。
もっとも僕にとっては、十年続けてきた朝の仕事だ。
今日もいつも通り、王都には奇跡が満ちている。
「お待たせしました。それで……必要なくなるというのは、どういう意味でしょう?」
手を拭きながら振り返る。
グレゴール院長と、その後ろに護衛が二人。
そして彼らの背後には、布を外されたばかりらしい銀色の巨大な装置が据えられていた。
百年以上使われてきた黒鉄の導管とは対照的に、その装置だけが妙に新しい。
磨き上げられた銀の装甲には魔術式が幾重にも刻まれており、その内側では青白い光が生き物のように蠢いている。古びた地下室の中で、そこだけ別の時代から持ち込まれたようだった。
「見れば分かるだろう」
グレゴール院長が銀色の装置を示す。
「完成したのだ。今後は貯蔵槽に溜まった呪いを、これが自動で変換する」
なるほど。
数ヶ月前から魔導院が、この地下で大がかりな工事を続けていた。
僕の仕事を機械で代わりにできないか研究している、という話も聞いている。
「ついに完成したんですね」
「昨夜、これだけで三度の変換試験を行った。処理速度、出力ともに問題はない」
「それはよかったです」
「……よかった、だと?」
「はい。機械で安全にできるなら、その方がいいでしょう」
黒く汚れた右手を見せる。
「これ、けっこう痛いので」
「…………」
「僕の方で、何か引き継ぐことはありますか?」
何か別の反応を期待していたのか、グレゴール院長は面白くなさそうに眉を寄せた。
「必要ない。これからは呪いの取り込みから変換、七本の導管への供給まで、すべてこれが行う」
「呪いの変換まで、その装置だけで?」
「そうだ。だからお前はもう必要ないと言っている」
それなら、たしかに僕がここに残る理由はない。
ただ、一つだけ気になった。
「すみません。試験で変換したものを、少し見てもいいでしょうか?」
「好きにしろ」
僕は銀色の装置を覗き込む。
側面には、変換後の状態を確認するための透明な管が通っていた。
中を流れているのは、変換を終えた真っ白な液体だ。
けれど……。
「……グレゴール院長。これ、止めてください」
「は?」
僕は透明な管を指差した。
白い流れの中に、黒い染みが残っている。
「これです」
「ああ、その残滓か」
グレゴール院長は一瞥しただけだった。
「残滓?」
「変換時に生じる不純物だ。呪いの反応はない。人体への影響も確認されていない」
「触って確かめたんですか?」
「当然だ」
グレゴール院長は、たいして気にした様子もなく答えた。
「これまでの試験でも問題は出ていない。処理速度、出力、変換後の安全性──すべて正常だ」
「でも、僕が変換したときには、こんなものは残っていませんでした」
「だから何だ?」
グレゴール院長の声が冷たくなる。
「僕は十年間、そのような不純物を残したまま導管へ流したことはありません。今は何も起きなくても、これを毎日流し続けたらどうなるか分からないです」
「……またそれか」
「え?」
グレゴール院長が鼻で笑った。
「自分にしか分からない。自分にしかできない。ずいぶんと便利な言葉だな」
「そんなことを言ったつもりは──」
「なら、どういうつもりだ?」
銀色の装置を軽く叩く。
「そもそも私は、以前から気に入らなかったのだ」
「……何がです?」
「七柱の恩寵だ」
七柱の恩寵──王都の魔法を支える力の源だ。
(それを、なんで……?)
「七柱の恩寵は、我が国が呪いを克服した証だ。その供給を、身元も知れぬ平民一人の手に頼っている。そんな歪な状態、いつまでも続くものではなかろう?」
「そんなことで──」
「先代がお前を拾ってきたときから、私は反対だった。だが、お前にしかできないと言われれば認めるしかなかった──それも今日までだ」
グレゴール院長の声に、次第に熱が入る。
「これから七柱の恩寵を支えるのは、お前のような平民ではない。宮廷魔導院の技術だ」
「…………」
「三百年間、人の手に頼ってきた最後の工程を、我々が終わらせたのだ!」
グレゴール院長の言葉は、まるで演説だった。
──どうやら、よほど今の状況が気に食わないらしい。
事情は分かったけれど、それでも王国の安全と引き換えにするほど大事なことだとは思えない。
「それでも、この黒い物が安全かは分かりません」
「しつこいぞ」
「せめて、もう少しだけ様子を見てください。何日か動かして、本当に問題がないと分かってから――」
「必要ない」
グレゴール院長が僕を見下ろす。
「それとも、そこまでして職を失いたくないのか?」
「……いえ。安全なら、僕も喜んで任せます」
それは本心だった。
呪いなんて、できれば誰も触らない方がいい。
僕だって好きで毎朝腕を突っ込んでいるわけじゃないし、十年やっても痛いものは痛い。これを機械が安全に代わってくれるなら、その方がいいと思っている。
それでも、七柱の恩寵は王都で暮らす大勢の人にとって必要不可欠だ。
魔法の存在は、あまりにも人々の生活に根ざしすぎている。そこへ呪いが混じるかもしれないと分かっていて、何も言わないわけにはいかなかった。
「今日が何の日か知っているだろう」
「完成式典ですよね」
「ああ。諸侯だけではない。各国の使節もすでに集まっている。王国が誇る七柱の恩寵──その供給が、今日から完全に自動化されるのだ」
グレゴール院長は、誇らしげに銀色の装置を見上げた。
「今日こそ、宮廷魔導院の技術が世界に認められる」
「……なら、なおさら確認するべきです」
万が一、何かが起きてからでは遅い。
見栄のために、わざわざそんな危険な橋を渡る必要があるとは思えなかった。
「その確認のために式典を延期しろと?」
「必要なら」
グレゴール院長の顔から笑みが消えた。
「あり得んな。今日ここで装置を止めれば、どう見えると思っている?」
「……」
「宮廷魔導院が完成を宣言した装置を、最後の最後でお前の一言によって止めた。結局、平民の解呪師がいなければ何もできない──そんな恥さらしな真似ができるわけがないだろう」
「だから、止められないんですか?」
「……口を慎め」
声が低くなる。
図星だったらしい。
「試験は成功している。安全性も確認した。ならば、これ以上お前の出る幕はない」
グレゴール院長が手を振った。
「式典は予定どおり行う。この件について、これ以上口を挟むな」
決まってしまった。
「…………分かりました」
僕には、この装置を止める権限まではない。
それでも、胸に引っかかったものは消えなかった。
「それと、ノア」
グレゴール院長が一通の書状を取り出した。
厚い羊皮紙には、王家の紋章が押されている。
「陛下より、お前への辞令を預かっている」
グレゴール院長は王家の紋章が入った書状を開き、淡々と辞令を読み上げた。
「装置の完成に伴い、宮廷解呪師の職を廃止する」
「はい」
「ただし、ノア。お前の解呪技術まで不要になったわけではない」
少し意外な言葉だった。
「王国には、今も手つかずの呪いが残っている。お前ならば活用できるかもしれないと、私から進言しておいた」
「僕を、別の場所へ?」
「そうだ」
グレゴール院長が書状を差し出す。
「ノア。王命により、王国東端・旧アルヴァン市の管理を命じる」
「……旧アルヴァン市?」
すぐには思い出せなかった。
その正式名称より、別の呼び方の方が有名だったからだ。
「死都、ですか」
死都・アルヴァン──大虐殺を起こした七人の大罪人 《七禍》が封じられた都市だ。
七人が封じられて以降、アルヴァンは強い呪いに覆われ続けているという。
王国は何度も調査隊を送り込んだ。
けれど、まともに調査を終えて帰還できた者はほとんどいない。
城壁も、屋敷も、石畳の大通りも、三百年前の姿を残しているという。
なのに作物はまともに育たず、夜になっても窓には一つの明かりも灯らない。街だけを残して、人間だけが消えてしまったような死の土地。
いつからか、誰も旧アルヴァン市とは呼ばなくなった。
死都──今では、そう呼ばれている。
「近年、あの地を封じている術式にも劣化が見られている」
グレゴール院長が続ける。
「これまでは魔導院から人員を送っていたが、成果は出ていない。ノア、お前は十年、王都で呪いを扱ってきたな」
「つまり、今度は死都の呪いを?」
「ああ。管理官として赴任し、封印の維持と調査にあたれ。お前の経験を活かすには相応しい任地だろう」
王都で必要なくなった解呪師を、王国最大の呪いが残る場所へ回す。
話の筋は通っているように聞こえた。
……まあ、体の良い厄介払いでもあるのだろうけど。
「分かりました」
なるべく感情を顔に出さないように答える。
──どのような環境でも、やるべきことをやりなさい。
師匠の口癖が、脳裏をよぎった。
もともと呪いと深く関わることもあり、忌み嫌う者も多い仕事が解呪師だ。
それでも国で暮らす人々のため、師匠は求められればどこへでも赴いた。
死都が解呪師の力を必要としているというのなら、僕も行くべきなのだろう。
解呪師というのは、そういうものだ。
「それで、いつごろ出発すればよろしいでしょうか?」
「今日中だ」
「今日ですか!?」
それには少し驚いた。
「部屋の荷物をまとめる時間をいただいても?」
「すでにまとめさせてある」
「そうですか。では、このまま向かいます」
手袋をはめて、出口へ向かう。
けれど、どうしても銀色の装置が気になって、足を止めた。
「グレゴール院長」
「まだ何かあるのか」
「最後に、もう一度だけお願いします」
白い力の中には、今も黒いものが残っている。
「今日だけではありません。僕がいなくなった後も、安全が確認できるまではその装置を動かさないでください」
「しつこいぞ」
「すみません。でも、これだけはお願いします」
僕が間違っているなら、それが一番いい。
「何も起きなければ、それでいいんです」
グレゴール院長が鼻で笑った。
「余計な心配をする暇があるなら、自分の心配をしたらどうだ?」
「僕の?」
「死都へ送られるのだぞ。王都のことなど、もうお前には関係あるまい」
たしかに、今日で僕の仕事ではなくなる。
だとしても。
「十年、ここで働いてきましたから」
王都で知っている人は多くない。
地上へ出ることだって、ほとんどなかった。
それでも毎朝、ここから力を送ってきた。
魔法が、今では王国の暮らしに欠かせないものになっていることくらいは知っている。
「ですから、安全の確認だけはお願いします」
「ふん。くだらぬ心配だな」
グレゴール院長は、それ以上取り合わなかった。
***
王都の門前には、荷車が一台待っていた。
僕の荷物は、その半分にも満たない。
十年住んでいたわりには、ずいぶん少ない。その上に、小さな白い獣がちょこんと座っていた。
狐によく似ているけれど、耳は少し長い。
身体ほどもある大きな尻尾は真っ白で、額にだけ蒼い雫のような模様がある。
「ルゥ。どうしてここに?」
ルゥは僕の使い魔だ。
六年前、地下の呪いの中から助けて以来、ずっと僕のそばにいる。
「はは。僕はもう要らないんだってさ」
口にしてみると、さすがに少しだけ寂しかった。
十年も続けてきた仕事なのだから、何も思わないわけじゃない。
ルゥはそんな僕を、金色の目でじっと見返していた。
「君まで来る必要はないんだけどな」
返事はない。
「これから行くのは、死都だってさ」
その瞬間、長い耳がぴたりと動いた。
「どうしたの?」
ルゥが見ているのは、僕ではない。
東へ続く街道を見ている。
「もしかして、知ってるの?」
もちろん返事はない。
けれど、いつもと様子が違う。
尻尾を荷台に伏せたまま、東から目を離そうとしなかった。
「一緒に来る?」
ルゥが僕を見る。
それから荷台の奥へ移動して、当然のように座り直した。
「……そっか」
僕も荷車へ乗り込む。
「じゃあ、一緒に行こうか」
馬車が動き出した。
見上げれば、王都を囲む白い城壁が朝日に照らされている。
十年間、あの街の暮らしを地下から支えてきた。
地上から眺めるのは、考えてみればほとんど初めてだった。
やがて背後から、大きな鐘が鳴った。
完成式典の開始を告げる鐘だ。
「始まったんだ」
振り返る。
王都には、七つの恩寵が変わらず満ちている。
白い城壁には淡い結界の光が走り、水路には朝日を弾く水が流れていた。いつもと変わらない穏やかな朝の王都だ。
──今日から、その景色を支えるのは僕ではなくなる。
「……何も起きなければ、それが一番だよね」
僕は王都を見てから、前を向いた。
東へ続く街道の先。
三百年間、人を拒み続けてきた死都が待っている。
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