9話 あなたを憎めたら
次の日の朝、私はひたすら窓を眺めていた。
地面にだらりと寝そべり、男が私を観察するようにただ黙って、窓の隙間から差し込む細い光を見ていた。
気を失っている間に運び込まれたらしい絨毯や円筒型のクッションは、小さく丸めて牢屋の隅に追いやった。快適な部屋になったと喜べないのは当然のこと、それらを使う気にもとてもなれなかったのだ。
それから、男が着替えさせたのか、スープで汚れた服も新しいものに変わっていた。ドロドロになったはずの髪や肌にも痕跡はない。
昨日のことが嘘みたい。
まるで、私だけが悪い夢を見ていたみたい。
「……いつもと、同じ朝だわ。まるっきり同じ朝なのに」
私はどうしてしまったの。
どうしてこんなにも胸が張り裂けそうなの。
日々柔らかくなっていた男の目に、再び狂気を感じたこと。私に触れる腕に、ほんの少しの労わりすら存在しなかったこと。
……それに対して、とても傷付いた自分がいたこと。
昨日のことを考えるだけで、苦しくて苦しくて堪らない。こんな悲痛な気持ちは初めてよ。
でも、きっと気のせい。そんなことがあるはずないもの。あってはならないんだもの。だって私は、あの男に人生を狂わされたのだから。
そうよ、憎しみ以外の感情なんて抱くはずがないのよ……!
「花嫁様?」
はっとして振り向くと、小さな男の子が牢の手前の壁からひょっこり顔を出していた。男と同様に頭にターバンを巻き、くるんと丸い瞳が可愛い男の子だ。
黙って近付くのは気が引けるのか、それとも単純に怯えているのか、とにかく躊躇いがちに私の顔色をうかがっている。
こんな所にいるなんて盗賊の仲間かもしれない。罠かもしれない。外の様子や状況が分からない以上、安易に近付かない方がいい。
でも、こんな小さな子供まで警戒していたら流石に身が持たない。どんな危険を冒してでも誰かと話がしたい、そう思った。
「……こんにちは、可愛い坊や」
私は柔らかく言い、目を細めた。
随分久しぶりに笑ったせいか、口の端が引き攣ってひどく違和感がある。こんな顔じゃ怖がって逃げてしまうかもしれない。
でも、男の子は控えめながらも「うん。あ、はい」と答えてくれた。たったそれだけで、猜疑心でカチコチに固まった心が解れていく。
「良かったらこっちへどうぞ? 取って食いやしないから」
格子の前まで寄って手招きをすると、男の子は大きな瞳をらんらんとさせ、小走りで私に駆け寄ってきた。そして、中腰になっていた私の目の高さまでカップをかかげて言った。
「あのっ、これを!」
私は思わず眉をひそめる。
白い液体をなみなみと注いだそれが、とても見覚えのあるカップだったからだ。
「……何かしら」
「花嫁様にこれを。温めたヤギのミルクにお砂糖を入れたんです。美味しくて滋養にいいから飲んでください」
「牛のミルクじゃなくて、ヤギ?」
「はい。僕が飼ってるメエメのお乳を搾ってきました」
「あ、いえ……ごめんなさい。せっかくだけれど、今はお腹が空いていないの」
「だめなんです、困ります!」
「え?」
男の子は食い下がり、格子の隙間からカップを差し入れた。その必死な様子に、私はぽかんとして黙る。
「だって、昨日の晩に言われたんです。『全部飲ませるまで帰って来るな! いいか、可愛い顔をして情に訴えるんだ!』って、ラシード様に……」
「ラシード、様……?」
「あっ」
私の言葉を聞くなり男の子は「しまった!」と言う顔をして、両手で口元を押さえた。ものすごい勢いだった。
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