10話 おかえり、日常
「おい、シャロン、この馬鹿! 余計なことを言うなっつったろ!」
ええ!?
聞こえるはずのない怒号に、私は度を失った。
男の定位置である絨毯には誰もいないのに、今の声ってまさか……?
私は慌てて目を凝らす。
すると、牢屋の奥の壁に張り付くような格好で男が座していた。珍しく真っ黒な服を着ているのは、私に存在を悟られないようにするためかしら。
「うひゃあっ、そうでした。ごめっ……ごめんなさーい!」
「真面目にやれ、お仕置きすんぞ!!」
「ふええっ、やだよう!」
思いがけず居所を暴露されても、堂々と会話をしていても、男が出てくる気配はない。呆れ果てた私は、そのまま無視をすることにした。
「あの、間違えちゃった。ラシード様じゃなくておばば様が言ったの」
「…………ふうん?」
「おばば様に頼まれたんだよ、ぼく。嘘じゃないよ。ほんと」
「…………へえ?」
よほど動揺しているのか、男の子の言葉から敬語が消えていた。
嘘を吐く時は本当の自分が出るものなのよね。
でもいいわ、向こうの暗がりからも無言の圧力をかけられているんだもの。これ以上は流石に可哀相。
「本当にお婆様からなのね?」
「う、うん!」
「それなら……それなら有難くいただくわ。どうもありがとう」
私は満面の笑みでお礼を言い、そっとカップを受け取る。
正直言って、子供を使って懐柔しようとするなんて卑怯だわ。
でも、小動物のように愛らしいこの子と、暗闇に同化しながらこちらの様子を見守っている黒幕の、人間らしい気遣いが嬉しかったのだ。
こくり。
初めて飲んだヤギのミルクは、一口目だけは獣臭さを感じたものの、これまでに飲んだどの飲み物よりも美味しかった。
甘く蕩ける、幸せの味がした。
自分でも驚くほどの速さでミルクを飲み干すと、ふいにばあやの顔が脳裏に浮かんだ。
ふふ。こんな姿を見られたら、「レディがはしたない! ルリアお嬢様を見習ってくださいな!」と、ものすごい剣幕で怒るでしょうね。でも、極限状態まで追い詰められた人間なら漏れなくこうなるはずだわ。
私が笑うと、男の子も安堵したように顔をくしゃくしゃにして笑った。
そして、ぺこりと頭を下げたかと思うと、何故か突然「ひゃっ」と声を上げ、全速力で走り去ってしまった。
「……どうして?」
そう呟いた直後、私はすぐに理由を察した。
暗がりから忍び寄る重たい足音。
少年はこれを察知して、また逆鱗に触れないよう逃げたのだ。
「……はぁ、何か用?」
「別に。ただ見てるだけだ」
「……いつまでそこにいるつもりなの?」
男は黙ったまま、いつもの絨毯にごろんと寝そべった。でも、訝しげな表情の私を見ていたたまれなくなったのか、遠慮がちに口を開いた。
小鳥のさえずりにも負ける、うっかりすれば聞き漏らしてしまいそうな小さな声で。
「あんたが……あんたが、笑うまでだ」
「!!」
それは、「あんたが食うまでだ」と答えていたいつもの声だった。
この目は、無機質で冷酷なあの目じゃない。
この腕もきっと、もう蛇じゃない。
ああ、私、本当に変ね。
知らぬ間に頭が煮えたのかしら。
こんな小さなことが、こんなにも嬉しいなんて。こんなにも安心するなんて……。
「それは無理ね。だって私、強情なんだもの。ふふ」
「……わ、笑ったな!? 今! なあ!」
そんなはずがないでしょう?
そう答えようとした瞬間、頭からすうっと血の気が引くのが分かった。手足から力が抜けていき、ついには地面に膝をついて倒れた。
「おい、あんた!! 大丈夫か!?」
すぐ近くにいるはずなのに、男の声はなぜか遠い。男が深刻そうに「スィナーン、医者を呼べ! 早く!」と叫ぶのを、遥か彼方で聞いていた。
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