7話 甘美な誘惑
「ご機嫌よう、囚われの花嫁殿」
向かいの牢屋には窓がなく、やや奥まっているせいか薄暗い。そのため、姿を捉えることはできなかったけれど、蔑むようなこの声には嫌と言うほど聞き覚えがある。
私はビクリと肩を震わせ、牢の奥へじりじりと後退る。
「……悪趣味だわ。いつから覗いていたの」
「最初からずっと。あんたが気持ちよさそうに床を撫で回してる時からな」
「なっ」
昨日のことで十二分に分かっていたけれど、紳士じゃないわ。どこまで人を小馬鹿にする気なの?
でも、お生憎様。私をからかって嘲るのが目的なんでしょうけれど、そんな安っぽい挑発には乗らないわよ。
私は唇を噛みしめて、男から顔をそむけた。すると、引き留めるようにして男が続ける。
「お目覚め早々に家探しとはご苦労なことだ。脱出の手立ては見つかったか?」
「別に。でも、こんな所にいつまでもいるつもりはないわ」
「お? 舌を噛み切って死のうなんて馬鹿げた考えは改めたのか?」
「……ええ、私は生きてここを出る。よく考えたら、あなたが私の最期をきちんと伝えてくれるはずがないもの。婚家へは自力で説明に行くわよ」
「ははは! よーしよーし、いいぞ。ちゃんと話ができるようになった」
男は豪快に笑い飛ばし、満足げに頷いた。
昨日は指を噛み千切ってやろうと思うくらい憎かったのに、なんだか毒気を抜かれるわ……。
「……私はどのくらい眠っていたの?」
「丸二日だ」
「え!?」
「驚くことはねえ。そのくらいには参ってたんだろうよ」
何度も言うようだけれど、それもこれも全部あなたのせいよ。他人事みたいに言わないでほしいわ。
「それで、ここは一体どこなの。グラドール? イルファハン? それともどこか別の国……?」
私がきつく睨み付けると、男は面白くなさそうに黙った。そして、無言のまま、私の顔面に向かって勢いよく何かを投げつけてきた。
「きゃあっ」
私は両手を顔の前にかざし、目を瞑る。
石礫? それとも刃物!?
どんな危険な代物が格子の隙間をすり抜けたのかと身構えていたけれど、体は一向に痛まない。
それどころか、飛来物の触れた手のひらが心なしか温かい。
不思議に思い、恐る恐る目を開くと、地面に落ちていたのは手のひらサイズのパンだった。
実家で食べていたものとは形が随分違って、薄っぺらい円形だけれど……香りや触感からしておそらく……。
「食え」
は?
男はそう言うと、間髪入れずリンゴを投げ込んだ。かと思えば、イチジク、スモモ、アンズ、その他にも何だかよく分からない塊を次々にぶつけてくる。
「も、もう! 投げるのはよして」
「手渡したところで、あんたは素直に受け取らんだろうが。止めてほしけりゃとっとと食え」
「よくご存じね。食事の気遣いをするくらいなら、ここから出してちょうだい!」
「それを食ったら考えてやる」
「信用できないわ。見ず知らずの他人を奴隷として売り飛ばそうとした人のことなんて」
「じゃ、どうすりゃ食うんだ」
「私を解放してくれたら食事でも何でもするわ。あなたの姿が見えない所で」
私と男は、無言で互いに睨み合った。鉛のように重い空気が牢内に立ち込め、実際には短い時間のはずなのにとてつもなく長く感じた。
ずっしりと重い沈黙。
それを先に破ったのは男の方だった。
「食え」
「あなたからの施しなんて絶対に受けない。あなたなんか大嫌いよ」
「……ああ、そうかよ。なら、痩せ細って骨と皮になるまで牢屋にいやがれ」
そう言って、男はズカズカと足音を立てて出て行った。
無人になった牢屋を見ながら、私はべーっと舌を出す。
思い通りにならなくて残念ね、悪党さん。
私は生きてここを出る。それがかなわないのなら、せいぜい綺麗な骨格標本になってあげるわ。
そして、朽ちる日まであなたを呪い続けてやるんだから。
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