43話 今度こそ優しい世界を
――時を遡ること25年
イルファハンの都・グラナバード
宰相府の幹部、ハリド・アル=バンダークの邸にて
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ハァッ、ハァッ……子はどうだ……?」
「息せき切って駆け付けてくださったのですね、嬉しゅうございます。無事、珠のように美しい子が生まれましたよ。ほら、見てください。凛々しい眉と大きな青い瞳は旦那様譲りです」
「男か!?」
「はい、それはそれは元気な男の子にございます。お腹にいる時と同様、やんちゃで大変ですわ」
「でかした! でかしたぞ、アイシャ!!」
「うふふ、そんなにきつく抱き締めては苦しゅうございます」
「ああ、すまぬ。息子を潰してしまうところだった」
「大事に扱ってくださいませね、難産の末にやっと会えた息子ですもの。天に召されるには早すぎますわ。それで、名は何といたしましょう?」
「……ラシードと」
「まあ、素敵……! 『正しい道に導かれる子』と言う意味ですわね?」
「そうだ、アイシャ。私達二人で真っ直ぐに育てていくのだ」
「良い名をいただいてよかったわね、ラシード。あなたの名を呼ぶ度に、お母様は今日と言う最高の日のことを思い出すわ」
「ア、アイシャ……そろそろ私にも抱かせてくれっ」
「うふふ、もう少し待ってくださいな。可愛いラシード、わたくしの宝物!」
◇
「俺は裏表のない素直な気性の父上を愛し、正義感の強さを尊敬していた。『将来は父上のような男になるんだ』と口癖のように言っていた。……母上が毒殺され、あんたが豹変するまでは」
毒殺!?
私は天地が引っ繰り返るほど驚愕した。
毒殺なんて、自分には一生縁がない言葉だと思っていた。実家を出てからはそんなことばかりだったけれど、今度のことは比較にならない。
私の心に、重く重く圧し掛かった。
「寵愛を妬んだ第1夫人が母上の食事に毒を盛り、それを知ったあんたは激怒したな。息子達や使用人の目の前で夫人の首を刎ね、四肢を捥いだ。それからあんたは悪逆無道の行為を繰り返すようになり、俺は子供ながらに恐ろしく思ったもんだ。理解できなかった」
ラシードは淡々と言い切ったけれど、声が沈んでいるのは明らかだった。でも、渦中にある宰相は一切表情を変えなかった。
宰相の鉄面皮に苛立った私は、肌着の裾をこれでもかと握りしめる。
それに気付いたのか、ラシードはなだめるような口調で「だけど」と言い添えた。
「だけど、今なら少し分かる気がする。母上を深く愛していたからこそ、未練は哀傷となり、湧き上がる憎悪に抗えなかったのだと。今なら……分かるんだ」
ラシードが私を見て、苦笑した。
話の内容が内容だけにどう反応していいか分からず、私が考えあぐねていると、ラシードは真剣な顔で言葉を引き取った。
「だがそれは、母上の望むところではない」
「……」
「あんたも知っての通り、母上は優しくも厳しい人だった。己の罪や過ちから目を背けることを良しとせず、常に正道を歩むよう、俺に諭した。短い生涯だったが、この名前の意味を繰り返し教えてくれたんだ」
声が詰まって、ラシードは唇を噛んだ。
その光景を見るだけで、早くに亡くなったお母様を慕うラシードの気持ちが伝わってくる。
私はラシードに寄り添い、きつく手を繋いだ。思いの丈を全てを打ち明けられるよう、勇気を込めて。
「いつかは元の父に戻ってくれるかもしれない。もう一度愛してくれるかもしれない……浅はかにもそう思った俺は、あんたの暴挙を黙認した。あんたを止められるのは、母上の子である俺だけだったのに。それが俺の一番の罪だ。俺は一生この罪と向き合って生きていく。願わくば……あんたもそうして生きてくれ」
そう言うと、ラシードは少し晴れやかな表情になった。思う所は色々あるはずだけれど、彼なりにやり切ったのだと思う。
そして、少し言い淀んでから、最後に付け加えた。
「……母上と三人の約束だ、親父」
ラシードはこの時たった一度だけ、宰相を「父」と呼んだのだった。
「……っう、ああ……あああ……!!」
宰相は地面に崩れ落ちた。
びっしょりと汗をかき、頭を抱えて呻き続ける宰相の姿を、ラシードはただ黙って見下ろしていた。その変貌ぶりは見るに堪えないものだったけれど、目を逸らさず、声を発することもとうとうなかった。
この人がしたことはどんな理由があっても許されない。
同情はできない。
でも……この人もまた、不幸だったのだ。
どうして、どうしてこんな悲しい幕引きしかできなかったのだろうか。
「行こう、シュカ。スィナーン。長居は無用だ」
ラシードは歯切れ悪くそう言い、名残を惜しむようにゆっくりとした足取りで邸を後にした。
外は、夜明け。
朝日を待つ東の空が薄っすらと白み始めていた。




