39話 鮮血の海で
さっき聞こえた無数の足音は、幻聴ではなかった。
回廊の曲がり角からわらわらと兵隊の一団が現れ、私達を取り囲んだのだ。10人? いや15人はいる。そして、全員が鋭利な剣や槍を手にしている。
「……っ、ラシード!!」
私は叫んだ。
でも、ラシードの耳には届かなかった。届いていたかもしれないけれど、それどころではなかったのだろう。
ああ、私は馬鹿だわ。いつも後悔してばかりじゃない。
どうして無理にでも武器を持たなかったの。
もっと足腰を鍛えておかなかったの。
お母様やばあやの反対なんか押し切って、剣術の鍛錬をしなかったの。
そうしたら、少なくともこんな所で待ちぼうけを食らうことはなかった。
ラシードの背中を守ることだってできたのに……!
「不届きな賊め、覚悟はいいな!?」
「それはこっちの台詞だ。死にたい奴は来い、先祖の顔を拝ませてやる」
「溝ネズミ風情が生意気を言いおって……かかれ、かかれ!!」
剣を抜きはらった隊長らしき男が先陣を切ると、回廊はあっと言う間に戦場と化した。
昨日は不気味なほど静まり返っていたと言うのに、今や喧騒を極めている。
「うおおおおっ」
「いい気迫だ。だが、それじゃ俺は討ち取れねえぞ!」
ラシードは休みなく繰り出される刃を薙ぎ、軽やかに飛び退って攻撃をかわした。「腕に覚えがある」と言う言葉通り、綺麗な返し技で敵を突き、踊るように剣を繰り出していく。
なんて身軽なの。
それに、お手本みたいな剣さばきだわ……。
心の余裕なんてどこにもないはずなのに、正確で力強いラシードの剣技に私はうっとりと見惚れていた。不謹慎ながら高揚感すらある。
これなら村に帰れるかもしれないと、私は呑気に思った。
でも、それがどんなに浅はかな考えだったかを、その後すぐに思い知ることになった。
「ひるむな、押し切れ!」
「さっきからピーチクパーチクうるせえな、おい」
危なげなく兵士の剣を薙ぎ払うと、ラシードは無防備になった相手の急所を蹴り上げた。そして、ひらりと身を翻す。
すると、
「次はこの俺・ジャーファルが相手だ。行くぜ!」
ラシードの正面に立ち塞がった恰幅のいい兵士が、くぐもった声で名乗りを上げた。
強い相手と対峙したのが嬉しいのだろうか。男は剛腕でこれでもかと槍を突き刺しながら、ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべている。
「そらそら、どうした!」
「な、んだよっ……見た目の割に俊敏だな!? くっ……!」
ラシードは顔をしかめた。
どうやら、弓兵隊の射手がラシードの動きを妨害しているらしい。跳ねるように軽やかだったラシードの足が急激に重くなったのはそのせいだ。
「おい、てめえ。お友達に助けてもらわなきゃ戦えねえのか!?」
「カッカッカ、何とでも言え。弱者め」
「ほざけっ……!」
「安心して逝けや、残りの二人もすぐに後を追わせてやる。カカカ、あの女の柔肌を裂くのが待ち遠しいぜぇ。皮は剥いで手拭いにでもするか」
「ああ!?」
突き出された槍をぎりぎりの所で搔い潜ると、ラシードは相手の懐に飛び込んだ。スピードを重視したのか、利き手には長剣ではなく短剣が握られている。
「下衆野郎、誰がてめえなんかに負けるかッ!!」
「うがぁっ」
不意を突かれて相手が咆哮する。
私はラシードの優勢を喜んだけれど、決してそんなことはなかった。ラシードが「ゼーゼー」と苦しげに肩で息をしていたからだ。
それもそのはず、最初から人数差がありすぎるのだ。弓兵隊の掩護射撃に加え、敵方には次々と応援が現れ、さっきよりも包囲が狭まっている。
縋るような気持ちで、私はスィナーンに視線を送った。でも、ラシードと同様に苦戦を強いられているようだ。
どうか無事でいてほしい、それ以外を願える状態ではなかった。
「ああっ! ラシード、危ない!」
思わず頭を上げかけて、私はハッとした。役に立てない上に、ラシードとの約束まで破る訳にはいかなかった。
私は辛うじて身を引き戻し、肩で喘ぎながら戦況を見守る。
「うぐっ、降参だ。止めてくれ」
ラシードを追い詰めていた敵は武器を落として後ずさり、足がもつれたのか尻もちをついた。それでもなお俊敏さは健在だ。ラシードが咳き込んだ隙に、猛スピードで中庭へ逃げて行った。
「……ハァ……きっつ……」
ラシードはその場に腰を下ろし、ターバンで滴る汗を拭った。同じく汗だくだった私も髪をかき上げ、安堵の息を吐く。
……え!?
私はぎくりとして、中庭の茂みに目を凝らした。髪をかき上げた時に、視界の端で何かが動いた気がしたのだ。
「あっ」
嫌な予感は見事に的中した。
さっき私達が出てきた地下通路の出口から、黒い塊が這い出したのだ。
ギラリと光る剣を握りしめ、背後からじりじりとラシードに近付いていくそれは、疑う余地もなく人間だった。
しかも、あの顔は……あの人は……!
私は頭を抱え、髪を掻き毟った。
ラシードはまだ気付いていない。息を整えるのに必死なのか、はたまた怪我や疲労のせいで身動きが取れないのか、ぐったりと頭を垂れている。
「ああもう、どうしよう。どうしたらいいの!?」
私はすぐ側に転がっていた兵士の遺体を見つめ、唇を噛んだ。
ガラス玉のように無機質な瞳。急速に色を失っていく爪。大理石の地面を濡らしていく、ドロリとした血の海。
これが、物語では美化されがちな『死』の正体だ。
恐ろしさと同時に、私はある結論に辿り着く。
どうせ死ぬのなら、誰かを守って死にたい。
それが他ならぬラシードなら本望じゃないの。
私は意を決し、白刃閃く中を一心不乱に走った。
「ラシードッ!!」
お願い、間に合って……!!




