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36話 開戦の兆し

 

「……お! ここだな」


 ラシードは、壁を撫でていた手をピタリと止めた。そして、「見てろ」と得意げに言うと、触れていたレンガの一つを指先で押し込んだ。


 すると、レンガの一部がガラガラと崩れ、ぽっかりと黒い穴が現れた。カビ臭く、湿り気のある空気がその奥から流れ込んでくる。


「すごい、こんな仕掛けがあるの……。中には何が?」


 そう尋ねて、恐る恐る中を覗き込むと、穴の奥に見えたのははしごだった。どうやら地下に通じているらしい。

 スィナーンは口にランプを咥え、軽やかな足取りでスルスルと下って行った。


「おんぶしてやろうか、お嬢様?」

「いいえ、結構。自慢じゃないけれど、シーツを繋げて二階の窓から脱出したこともあるのよ」

「何してんだ、あんた」

「刺繍の練習が嫌で、ばあやから逃げたのよ。ふふ、懐かしいわ」


 そう言って笑いながら、私は頭の中で葛藤していた。


 “じゃない方”にとっては、はしごを下りるくらい朝飯前だ。でも、穴の中は狭く、人ひとりがやっと通れるくらいのスペースしかないのだ。ドレスを着たまま降りられるはずがない。


「……仕方ないか」

「?」

「ねえ、驚かないでね」


 私はそう前置きをして、ドレスの編み上げ紐を解いた。


 私も一応年頃の女性であり、肌着姿になるのは正直気が引けた。戦友であるボロボロのドレスと別れるのも寂しい。でも、それよりも、これ以上迷惑をかけたくなかった。


「うおっ……!?」

「いいから何も言わないで。見ないで。忘れて。先に行くわ」


 後ろ髪を引かれる思いで淡紅色のドレスを脱ぎ捨てた私は、ラシードを説き伏せ、一段一段丁寧にはしごを下っていった。





 ……わぁ、涼しい。


 少し降りると、空気が徐々にひんやりし始めて気持ちがよかった。イルファハンの暑く乾燥した気候に、私はもうずっと辟易していたのだ。


「お手をどうぞ」

「ありがとうございます、スィナーンさん」

「非常用の地下通路なので、汚いですがご辛抱くださいね」


 私が地面に着くのと同時に、ランプを掲げてスィナーンが笑った。


 うう、確かに明るいところで見ると衛生的とは言い難い……。それに少し臭い。


「スィナーンさんは、このお邸のことに詳しいのですね?」

「ええ。私の本業は、耕夫でも盗賊でもありません。幼少期からこの邸にお仕えして参りましたので、宰相の居室も、牢屋も、勝手知ったる庭のようなものです」


 私はいまいち意味が飲み込めなかった。


 でも、そうか。スィナーンさんが道案内をして、ラシードを牢屋まで連れて来てくれたのね。


「すごいですね、頼りになります」


 私が感心して言うと、スィナーンはますます声を明るくし「特技は他にもありますよ」と付け加えた。


「マダムの隊商にいたルイーゼ。あれは私です」

「……う、ええっ!?」


 私は思い切り仰け反り、その場にぺたんとしゃがみこんだ。


 ルイーゼは顔に深い皺を刻んだ、品のいい老婆だ。いつも控えめに微笑み、私の話を聞いてくれていた。


 どこをどうしたらあんな風に化けられるのか見当もつかない!


「ラシード様の命令で隊商にもぐり込んだのですが、見事に溶け込んでいたでしょう? 変装は得意なのです」

「す、すみません。そうとは知らずとんだ醜態を……」


 老婆に身をやつしていたとは言え、10日以上も寝食を共にしていたのに全く気付かなかったわ。迂闊すぎるわよ、シュカ!

 と言うか、寝起きは? 着替えは? 水浴びは!?


「う、うあああぁ……」

「ご安心ください。主君の想い人に手を出すほど、私は豪胆ではありません。それに、隊員達は事情を把握していましたから、上手に隠してくれていましたよ」

「……はあ」

「ああ! でも、寝言でラシード様を呼んでいたのはしっかり見ていまし」

「や、やめてくださいっ!! もう、もうその辺で……」


 私は絶句した。


 あの旅の一部始終を見られていたなんて、穴があったら入りたい。まあ、今は実際に穴の中にいるわけだけれど、もっと深く落ちてしまいたかった。




「なあ、おい」


 ラシードの一言で私の心臓が跳ねた。



「い、いつの間に下りて来たの!? もしかして、今の話……」

「寝言の話は後でじっくり聞かせてもらうとして」


 ああ、やっぱり聞かれていたのね……。


「様子がおかしいぞ」

「そうですね、私も少々気になっていたところです」


 「まさか」と、私は脳内で突っ込んだ。

 あんなに楽しそうに雑談していたのに、僅かな異変に気付いていたと言うの?


「何がおかしいの? 私にはちっとも」

「本来はすぐそこにも出入り口があるはずなんだ。なのに、はしごが見当たらない」

「はい、昨日は変わりなかったと記憶しているのですが……」

「……マズいな、宰相(じじい)に勘付かれたか? まあ、とりあえず、中庭の出口に行ってみるか」


 ラシードは私の手を取り、ゆっくりと歩きだした。


 私は「これ以上足手纏いにはなるまい」と懸命に後を追い、ラシードの手がさっきよりも湿っていることには気付かない振りをした。


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